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ゲーテ『ファウスト』を読んで

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe

ファウスト
1831年
高橋義孝訳 新潮文庫


 裏表紙をめくってみると平成8年9月30日56刷と書いてある。古本で買った記憶はない。実際に上巻も下巻も値札の後や消しゴムで消した後がないので、新品で買ったのだろう。
 何度か手に取ったが、いずれも第一部の途中で挫折をして、本棚のなかで在庫処理もされることもなく陳列されていた『ファウスト』を、購入から二十年以上経ってようやく最後まで読み終えた。

 さて『ファウスト』だが、正確にはゲーテの原作ではない。中世からヨーロッパで語り継がれてきた伝説上寓話である。実在人物の話に尾ひれが付いたものである。我が国でいえば『小栗判官』や『菅原伝授手習鑑』みたいなものか。

 ファウスト伝説のあらましは簡単に言うとこのような内容である。すべての学問を知り尽くし老齢になっていたファウスト博士は学問によっても人生が満たされないことを知り、魔術を使って悪魔メフィストを召喚する。メフィストはファウスト博士に望みはないかと問い、ファウスト博士は若さがほしいと答える。メフィストは24年間契約で契約終了後地獄に来てもらう条件ならばかなえると言い、ファウスト博士は承諾する。若さを取り戻したファウスト博士はメフィストと一緒にヨーロッパ中で快楽を味わい24年後契約が終わったファウストは地獄に引きずり込まれる。

 その後、シェイクスピアのライバルであったイギリスの劇作家クリストファー・マーロウによって戯曲化され人気を博す(英語なので『フォースタス博士』)。ファウスト伝説はドイツからイギリスにいき、マーロウによって具体化されドイツに逆輸入された。それから300年たってゲーテは自身でファウスト伝説の再構成を図ることになる。このときまだゲーテは20代。けれども完成したのは80代。決定版の出版は死後である。
 ゲーテの『ファウスト』とマーロウ以前の『ファウスト博士』で決定的に違うのが、嬰児殺しグレートヒェン悲劇の追加とファウストの救済である。

 さてファウストの説明はこのくらいにして、そろそろ私の感想を連ねるとしよう。
まずゲーテの『ファウスト』は小説として書かれていない。戯曲の形で書かれている。しかし戯曲と言っても演劇として演じられるために書かれたものではない。あまりにスケールが大きすぎて演ずることができないからである。読まれるべき戯曲として書かれたのだ。
 一説によるとゲーテはファウストをオペラ化したいと考えていたという。その『ファウスト』を作曲できる唯一の作曲家はモーツァルトだと言っていたそうだ。なぜ演劇ではなくオペラなのか? それはオペラでは人物毎にメロディや調、または対位法を用いて複数の人物を同時に喋らせることができるからだ。これをアンサンブルという。演劇では複数の人物を同時に喋らせることは通常しない。観客は声がごちゃ混ぜになって何を言っているのかわからなくなるからだ。
 しかし、モーツァルトは1791年に没した。その後、ドイツ語圏から優秀なオペラ作曲家がでるのはワーグナーを待つしかなかったが、ワーグナーが独自のスタイルを確立したときには既にゲーテは故人となっており、ワーグナーはゲーテよりもドイツ神話とショーペンハウアーを合わせた独自のテキストを自分自身で書いていたのである。

 戯曲とはなにかわからない人がいるだろう。例として桃太郎を小説にするとこのような形となる。

 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。おばあさんが洗濯をしていると川上より大きな桃が「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」と音を立てて流れてきました。おばあさんはびっくりしながらその桃を拾い上げ…

 これを戯曲とするとどうなるか。

第1景 舞台 里山にポツンとある粗末な日本家屋
  おじいさん さてばあさんや、わしはそろそろ山へ行ってしばを刈ってこようと思う。
  おばあさん それじゃ私は川に洗濯に行ってきます
第2景 川
  (おばあさんは川で洗濯をしている)
  おばあさん 二人しかいないのにこんなに洗濯物がたまると難儀じゃわい
  (川上より大きな桃が流れてくる)
  おばあさん あんれまあ、なんと不思議な事。大きな桃が流れてくるわい
  (おばあさん、近くにあった竹ざおで桃を引き寄せる…)

 これが戯曲のスタイル。簡単に言うと台本である。

 そんな戯曲という普段読み慣れないスタイルであるが、上巻のすべてを占める「悲劇 第一部」はすらすらと読めた。
 問題は「悲劇 第二部」である。これがまったくもって意味が不明(意味は分かるのだが、なぜファウストの悲劇と関係してくるのかがわからない)。
 ヨーロッパでの伝説としての「ファウスト」は第一部でほぼ終わっている。第二部ではギリシア神話の美の女神ヘレネーとの恋物語、トロイヤ戦争時代のギリシア神話と人造人間ホムンクルス伝説の融合、いずこの国かわからない皇帝の話、そして最後には聖母マリアによる救済の話が出てくる。

 はっきり言おう。一般的な常識と教養を持つ日本人にはゲーテの「ファウスト」を理解することは困難である。過去3000年にわたるヨーロッパの文化、とりわけヘレニズム文化、キリスト教文化、日本人が西洋に持つ好奇心、憧れと伝統の限界の向こう側を理解していないと、まったくわからない。
 日本人で初めてファウストを翻訳したのは森鴎外であるが、ドイツ人の友人からは日本人にはファウストは理解できないであろうと言われたが、鴎外は日本人にもファウストは理解できると言って、翻訳したらしい。
明治時代の人は凄い。つい二、三十年前までちょんまげを結って、刀を腰わきに差して草鞋を履いていたのに、森鴎外はドイツ語をマスターして西洋医学を習い、ヨーロッパ文化の何たるかを理解し、この21世紀を生きる私(鴎外と比べると教養レベル、人格とも雲泥の差があるが)がお手上げであるファウストを完訳したのである。しかも格調高い文を持って。

 お手上げしたファウストだが、私なりに分かったと思えることもある。それはゲーテが世の中に対して持っていた矛盾に対する皮肉とキリスト教、特にプロテスタントにおける予定説への信心である。皮肉をここに連ねるにはあまりに文章が長くなりすぎるので、実際にファウストを読んでもらって感じてほしいのだが、予定説に関しては簡単に書きたいと思う。

 予定説とは、キリスト教における神、いわゆる主は天地創造の時点で世界の破滅の時に救済される人をあらかじめ決めており、人はその後どんなに善行をしても、教会に寄付をして免罪符(いまでは贖宥状と言うらしい。私の世代は歴史の授業で免罪符と習ったが)を貰っても、逆にどんなに悪行をしようが救われる人はそれ以前に決まっているという思想である。
これを打ち出したのがフランスのカルヴァンという人で、ルターとともに宗教改革をなした人である。

 ファウスト第一部の「天上の序曲」で主は悪魔メフィストフェレスにファウストは救済リストに入っていると語っている。メフィストフェレスはそれならファウストの心を拐かして地獄に落としてやりましょうと言い、ファウストの下へ行く。ファウストはメフィストフェレスと契約をし(ゲーテのファウストではいやいや契約している。すでにファウストは厭世的になっている)、市井のグレートヒェンを身籠らせるなど数々のキリスト教的悪行を積むが、最後の場面でグレートヒェンの願いと聖母マリアの慈悲によって救済されるのである。いや、初めから救済は主によって約束されているのである。メフィストフェレスが失敗をしただけになったのだ。

 ファウストとの間に私生児を身籠って、その嬰児を池に沈めた罪により処刑されるグレートヒェンも最初から救済されているのである。第一部最後の場面「曇れる日」。牢獄にいるグレートヒェン(このころはなぜかマルガレーテという名前になっているが、これを説明するとゲーテの生涯を語らないといけないので省きます)の下に駆け付けたファウストとメフィストフェレスであるが、すでに気が狂っているグレートヒェンの脱獄を断念する。

その場面。

マルガレーテ: 神さま、わたくしは神さまのものでございます。お助け下さいまし。天使たちよ、清らかな群よ、まわりに立ちめぐって、わたくしを守ってください。ハインリヒさん(ファウストの偽名)、あなたが怖い。
メフィストフェレス: とうとう裁かれたわい。
声(上方より): 救われたのだ。
(引用:高橋義孝訳、新潮文庫 以下も同じ)

 となるのだ。救われたのである。いや救われていることが約束されていたのである。ファァウストの救済であるが、解説や数ある論評では悪行を積んできたが、数々の善行を積んで救済されたと書いてある。はたしてそうであろうか?
 第二部第五幕で<憂い>によって盲目となったファウストが自分の王国で勤勉に働く人々を思いこう言う(実は人々はメフィストに命じられファウストの墓を作っていたのだが)。

ファウスト :「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享に値する」…(省略) 己はそういう人の群れを見たい、己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、「とまれ、お前はいかにも美しい」と。… 
(省略)
(ファウスト、うしろざまに倒れる…)
メフィストフェレス :(省略)…時計の針が止まったぞ。
合唱 :とまったぞ。深夜のような沈黙だ。
メフィストフェレス :針は落ちた。片がついた。
合唱: 過ぎ去った。
メフィストフェレス :何、過ぎ去った、と。間抜けな言葉だ。なんで過ぎ去るのだ。過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じではないか。…
(省略)

「とまれ、お前はいかにも美しい」とはメフィストフェレスとの契約時にこういったら地獄へ連れて行っても構わないとファウスト自らが立てた禁句である。合唱が「過ぎ去った」と言ったときには救済されていると私は解釈するのである。解説に書かれている善行などファウストは積んでいない。第二部では第一部で犯したグレートヒェンの悲劇に対してファウストは何も罪悪を思ってない。それどころかその後も皇帝をそそのかし、女神ヘレネーと快楽に耽り、子までもうけている(その子は墜落死するが)。グレートヒェンは死罪になった後(彼女も救われているのだが)、天上にて聖母マリアにファウストの救済を願っているのである。そのファウストはヘレネーといちゃついていたというのに。

 聖母マリアはファウストの救済を約束する。

最後の合唱 :すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。…(省略)永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて昇らしむ。 (完)

 八百万の神がいる日本で生まれ育った私にはわからないが、私は救済は主が決めたものであると解釈していた。なぜマリアが約束をし、「女性的なもの」が救済するのであろう。
 これが三位一体説なのであろうか。主=イエス・キリスト=聖霊が同値という。

 女性的なものによって救済される方程式はこの後、『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』、『トリスタンとイゾルデ』、『ニーベルングの指環』そして『パルジファル』というワーグナーの楽劇によって高められ、ロマン主義の頂点を迎える。そしてワーグナー信奉者であり、その後にワーグナーと袂を分かったニーチェによって神の否定、いや、キリスト教的の神の存在意義がなくなったことを唱えてヨーロッパにおけるロマン主義は終焉したのである。

 まだまだファウストを読み込む必要があると僕は感じる。数年後、再度『ファウスト』に再チャレンジする必要がありそうだ。

#読書感想文 #書評 #ゲーテ #ワーグナー #ファウスト

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