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信仰について(6)人間の想像力をわしづかみにする「神様」 という概念。信仰は、人間らしさの極み。

宗教については専門的に勉強や研究をしたことがあるわけではなく、あくまでその渦中にいた経験をもとに考えてきたにすぎません。だから、どうしても想像の域を出られないことが引け目に感じられて、書くのが憚られてきたテーマですが、せっかくなので気が済むまでいろいろ書いてみたいと思います。今回は6回目、「信仰について」シリーズはこれでいったん最後の投稿にしようと思います。

信仰について(1)まずはじめに、私自身の信仰観を語ってみるなど
https://note.com/asako_emerald/n/n4d5d745b072c
信仰について(2)教理や行動規範で示される「形」について考えてきたこと
https://note.com/asako_emerald/n/n79270864006e
信仰について(3)互助会的機能を持つ団体として捉えてみると
https://note.com/asako_emerald/n/n7c998f358de3
信仰について(4)個人と組織のお金の話。まずは個人のことから。
https://note.com/asako_emerald/n/nd02654feecc8
信仰について(5)個人と組織のお金の話。組織のことは、難しいけれど。
https://note.com/asako_emerald/n/n0d45dd72da59

まさかこんなにも長いシリーズになるとは思いませんでしたが、一度まとめて書いてみたいと思っていたことをいろいろと書いてみました。書き進めるうちに改めて感じたことは、「信仰とは、なんて人間らしい営みなんだろう」ということです。

いまは科学の時代というか、証明できるもの、実体があるものに価値が置かれている時代だろうと思います。様々なものが予測でき、計画を立てることができ、その予測や計画を頼りに生きる毎日の中にあって、「神様」という目に見えない、声も聞こえない、予測不可能なものを信じることが奇異に映ったり、胡散臭いと感じられるのは、わからないわけではない。

ところが皮肉なことに、こんなにも「実体があるもの」にこだわる人間なのに、ほかの動物ほど、実体を知覚することができません。ほかの動物たちは、ごく自然に地球と共生をしていて、あらゆる実体と生態系をともにしながら生きているのに、人間だけはなぜか様相が違う。
五感の働きでいえば、人間の能力はほかの動物と比べて、相当劣っているんじゃないかと思います。だからこそ、こんなにも「実体があるもの」にこだわるんじゃないかと。

ある歴史学者は、人間をほかの動物と比べて違えている特徴があるとしたら、それは「想像力」であると言っています。「実体のないもの」を想像することができる力。極端な話、人間社会は想像上の産物で成り立っているとも言えます。秩序も、価値観も、地位も、お金も、あらゆる革新的な技術も、すべて人間の豊かな想像力が生み出したものです。
そしておそらく、その一番初めが、「信仰」だったのではないかと思うのです。「神様」という、どこにもいない存在を想像し、信じることができる力。だから、信仰は、ものすごく人間らしい営みと言えるんじゃないかと思うのです。

人間に与えられた「実体のないもの」を想像する力。
その想像力こそが、人を動かす原動力になっているのではないかと考えると、「神様」というのは言ってみれば、得体の知れなさの極み。
何かしなければ。動かなければ。そんな気持ちを掻き立てる概念なのかもしれません。

日本では、一般的には信仰は生きるために必須のものであるとは考えられていないと思うけれど、国を変えれば、信仰が生きるための原則として組み込まれている社会もあります。幾世紀にもわたり、ある種人間を「支配」する形で存在する、神様の法律や規律。それに背くものには死を与えることが、神様の望みであると教えられ、それを信じて生きる人たちがいます。
少なくとも、日本に生きる多くの人たちにとってそれは理解しがたいことだし、自分たちの信じる常識や倫理が通用しない、予測不可能なものだと思います。予測や計画を頼りに生きる毎日の中で、そんな世界があると知らされたら、宗教なんて恐ろしいものだと遠ざけたくなるのも、ムリはないのかもしれません。

冒頭に書いてある通り、私は宗教については専門的な勉強や研究をしたわけではありません。だから憶測でしかないけれど、例えば聖戦、例えば殺人、それらが信仰のために起こったと知るたび、「神様」というものがどれだけ人間の想像力をわし掴みにし、行動に掻き立てる概念なのか、と思い知らされるような気持ちになります。

宗教を忌み嫌うこともまた、信仰の一部なのかもしれません。それは、得体のしれないものに対する脅威を、「信じる」という形で表現するか、「嫌う」という形で表現するかの違いなだけかもしれない。どちらにしたって振り回されているっていうか。無関係では、いられていない。そんな感じでしょうか。

この「信仰について」シリーズを書き始めたきっかけは、人との会話の中で「宗教がなくなればいい」という趣旨の話が出てきたことでした。文脈は、宗教がかえって平和を脅かしているというようなことだったと思います。

宗教は、人間の想像上の産物だとすれば、それはきっと、ある意味正しい。

だって、人間の想像力は、多くが危機管理、つまり「恐れ」から成り立っていると思うから。行動は、その発生の元になった感情を強化する働きがあることを考えると、恐れから生まれた行動は、恐れを強化していく。
人間の想像力から生まれたものは、多くが、恐れを強化する機能を果たしているといえるのかもしれません。作っても作っても、恐怖がなくならない。その過程で、脅威と考えるものを壊しても壊しても、恐れが消えない。
宗教から戦争が生まれるのも、もしかしたらそんな構造なのかもしれない、と思います。

世の中の信仰者のほとんどが、純粋に神様を信じているのだと思います。純粋に平穏な毎日を望み、純粋に平和を願い、純粋に他者との愛ある協力関係を欲して、信仰活動を営んでいる。
裏を返せば、それは、毎日が平穏ではなく、平和が当たり前でなく、他者との関係に不安を抱えていることの現れかもしれない。そんな不安定さが「神様」という概念に心をわし掴まれるきっかけとなり、信仰活動の起点になっているとするならば、確かにそれは、宗教がかえって平和を脅かしていると言えることなのかもしれません。

何が正しいのかはわかりません。
ただ一つ言えることは、きっと世の中から、宗教がなくなることはない、ということ。そして私は、それでいいのだと思います。私は特定の宗教団体の活動からは離れましたが、神様自体は信じていますから、私自身も世の中の争いを生み出す一端を担ってしまっているのかもしれません。それはなんだか複雑で、胸が痛むことではあるけれども、それでもやっぱり、宗教がなくなればいい、とは思えません。

小さいころから、周りの人が神様にお祈りする姿を見てきました。
なにかといえば、神様に語り掛けて、生きている人たちがいます。
日本にも世界にも、信仰心から造られた素晴らしい建造物があります。
地球中のいたるところに、神様に歌や踊りをささげている人がいます。
今も昔も、信仰によって生まれた心の通った繋がりがたくさんあります。

それらはほんとうに美しくて、豊かで。「神様」に心をわし掴みにされた人間は、ないところから、こんなにも色とりどりの「実体のあるもの」を生み出すことができる。宗教がなくなればいい、というのは、私にとっては、これらのものが世の中にないほうがいい、というのと同じことです。やっぱり、なくなればいいとは、思えないのです。

人間の持つ想像力。それをわし掴みにする「神様」という概念。
神様に近づこうと信仰心を深めるほど、人間らしくなっていく、という奇妙な構図がそこにあるように思います。人間らしさを精一杯表現して生きていくきっかけを、宗教は、信仰は、与えてくれているのかもしれません。それが、平和なのか戦争なのか、創造なのか破壊なのか、に関わらず。

信仰は、人間らしさの極みである。
そんな感想を、この長いシリーズの最後に、残しておこうと思います。

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