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母を介護する24歳の、今日のモヤモヤを少し沈めた、介護にまつわる論文のはなし

今日、父親が要介護状態にある母親に心無いことを言いました。
介護のストレスがそうさせるのも理解できますが、下半身不随の母の辛さなどを全く無視した発言でした。

母はとても落ち込んでいるようでした。
要介護状態で、あらゆる自信やプライドが、これでもかとそがれる日々を過ごす母は、
そんなひどいこと言うんだったら出ていく!という冗談すら言えません。

そんな母を見ていられず、
「外に散歩に行こうか!」と母に提案し、私は車椅子を押して外に出かけました。

私にとっては3連休の初日で、自分の好きなように時間を使いたかった。
それでも、父があのような発言をした背景には、
私がもっと介護や家事を負担するなどして、父の負担やストレスを軽減する努力が足りていなかったこともあるだろうし、
そんな自分への罪滅ぼしの気持ちもあって、母親を外に連れ出しました。

3時間ほど気晴らしをして帰るころには、少し母も落ち着いていました。
それから、以前より母と作ろうと話していた春菊餃子を一緒に作りました。

こうして今日も終わろうとしています。
少しばかり義務を果たせたような感覚で。

やむを得なかったとは思ってはいるけれど、
またこうして自分の時間を思うように過ごせなかったことに、なぜか今日はひどく落ち込みました。
そんな時、介護は感情労働である、という一節が浮かんだのです。

渋谷望「魂の労働 介護の可視化/労働の不可視化」。
以前、古本屋で偶然手に入れた2000年3月発行の『現代思想』「介護 福祉国家のゆくえ」(青土社)に収録されています。

そもそも介護careには介護される者に対し気遣う感情ないし態度の側面と、身体を使った活動ないし労働の側面が備わっている、というヒンメルウェイトの指摘を引用し、
介護の感情労働という特徴が、介護労働の賃金や地位の低さの源泉の一つであると唱えています。
元々行われてきた家族介護は、介護は常に近親者への介護として行われるため、介護関係は内発的な愛情や気遣いに基づく家事労働の延長とされていた。
それが賃労働化するにあたり、愛情や気遣いが「ボランティア精神」や「福祉の心」などと翻訳され、介護労働の労働としての側面が、家事労働の延長、非専門的労働、といった文脈を形成したというのです。

本論文において、渋谷さんの主張は「感情労働者階級」の出現の可能性の示唆、というまた別の部分にありますが、
日頃の何気ない気遣いとか、父の心無い発言を聞いて嫌な気持ちになるとか、自分の時間が取れないと落ち込む時間も含めて、
介護という感情労働を私はしているのかもしれないと感じたのです。

「労働」という言葉が内包する、no work no pay的な、どこかシステマチックな香り。
ところが介護は、要介護状態の者との継続的な関係性の構築や、相手への気遣いなしには成立せず、
同時に、介護される側も、「自立」という(大半があり得ない)目標に向けて絶えずセルフ・サービス労働をしているという側面がある。
そんな介護の「労働」とは相反する性質を見事にあらわした「感情労働」という言葉が、
今日の私にはすとんと落ちてきたのです。

在宅介護の辛いところは、まさにここにあると思います。
家族だから愛情を持って介護して当然。
介護する側もされる側も、この言説を内面化しているし、
そうでありたいと感じている。
でも、現実としては、感情労働という過酷で特異な労働を、双方が四六時中強いられ、擦り減っていく。
介護する側は自己犠牲を受け入れざるを得ないと感じてしまうし、
それが出来なかった場合に、要介護状態の家族に対する罪悪感が常に付きまとうことになる。

同雑誌掲載の、市野川容孝「ケアの社会化をめぐって」には、こんなことが書かれていました。
日本では、障害を持つ自分の子どもの行く末を案じて無理心中を図るような事件や、
要介護状態の家族の悲痛な叫びから解放させてあげるため、介護をする家族が安楽死を手助けする、
といった事件がいくつも起きている。
(反対に、介護のストレスに耐え切れずに、介護する側が手を下してしまう事件も多いと思います。)

これらの事件は、あまりにも家族が担うべきと思われている領域が大いことを示すのではないか。ドイツにおける介護の在り方との比較の上で指摘されていました。

今日の父の発言は、私にとってショッキングでしたが、
介護において、家族が担うべきと期待されている(期待されていると感じてしまう)目に見えない領域があまりにも大きいことが、
本質的ではないにしても、原因だと思っています。

こうなったら、介護に対する見方を、介護を続けながら、自分の中で少しずつ見直していくほかない。
そうでなければ、とても続けていくことは難しいと思います。

母の助けができる時間は幸せだと心から感じる瞬間もある。
でも、そう思えずにモヤモヤした今日の私は、
感情労働に従事しているんだ、と
少しシステマチックな響きを今日の自分にプラスしてあげたことで、
少し許されたような気持ちになりました。

こうやって、モヤモヤするときは、
自分の中で少しずつ消化しながら、
家族である自分がすべて・多くを負おうとして苦しくなることから
一歩心の距離を置いてもいいと思います。


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