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背に生えた刃 2-2

「それより、そっちだよ。離婚って、すごく驚いた」
 同じくグラスを傾けていた彼女が、すっと目を伏せた。グラスを置き、唇についた泡を拭いて「うん……」とつぶやく。
 自分には、彼女の話がどう始まり、どう続くのかが一切想像できなかった。なぜ彼女と夫が離婚に至るのかが全く見当もつかなかったのだ。
 それほど、彼女と夫は完璧な夫婦だった。

 十年にわたる交際を経て結婚したふたりは、結婚前から今に至るまで、普段はそれぞれが仕事や自分の時間を大切にし、休日には相手の趣味に付き合う。干渉しすぎず離れすぎずの、理想的な距離感を築いていた。
 ときには互いの友人たちを自宅に招いて皆でパーティをする、という話を聞いたときには、現実にそんな人種がいるのかと唖然としたものだ。

 彼女の夫は若くして趣味を仕事に発展させた芸術家で、仕事の関係で一年の半分は家をあけていると聞いていた。
 ふたりの挙式は、当時、オシャレで独創性のある若い夫婦の間で徐々にブームが来ていた手作り婚だった。彼女の好きな青いリボンやひまわりの花と、彼女の夫の趣味だというロードバイクやその部品をモチーフにしたオブジェで、簡素なイベントスタジオを爽やかに美しく飾り付けていた。他の人には真似できない、ふたりらしさが多分に表現されていた。
 互いにステージを広く使ってそれぞれがソロパートを自由に舞いながらも、音楽に合わせてするすると引きあうように手を取り、ラストには絡み合ってポーズを決めるペアダンサーのようだった。

「結婚する前から、すこしずつ違和感が生まれていたの。いいのかな、本当にこの人で……って。でも、長年付き合ってきたし、タイミング的にも今しかないって思って、半ば強引に自分に言い聞かせて入籍したんだよね。そのせいかな、結婚したら余計に違和感が膨らんできちゃった」
 彼女がぽつり、ぽつりと話し始めると、急に店内が静かになったような気がした。もちろんそれは自分の気のせいだった。水辺をただよう糸をすくい上げるように、ゆっくりと話す彼女の雰囲気のせいか。
「初めはすごくちいさなことなの。ドアを閉める音や歩く音が大きいとか、機嫌が悪いとモノに八つ当たりするとか……本当、くだらないでしょ。でもそんな些細なことの積み重ねなのかな、気が付いたら、彼に触れられることすら嫌になってた」
「いつから?」
「結婚前に二年くらい同棲してて、その頃からかな」
「じゃあ、三年くらいか……いわゆる、倦怠期みたいなものとは違うの?」
「自分でも、倦怠期なのかな、そのうち脱するかなって思ってやり過ごしてきたんだけど……でも、全然、自分の気持ちが元に戻る気配がなくて。これは、もう戻らないんじゃないかなって」

 それはあまりに抽象的な話だった。誰にでも分かるような重大な事件があるわけでもなく、金銭問題だのといった現実的な話でもない。なにか事件があるとすれば彼女の胸の内だけで、それを事件と判断できるのも、選択できるのも彼女しかいない。
「それって、旦那さんも同じように感じてるの?」
「ううん、全然。だから、悪いところを教えてくれれば直すからって、離婚はしたくないって言ってくれてる。でも、彼の生き方を変えてほしいわけじゃないの。根本的なところで、気持ちが離れてしまった以上……もう無理なんだと思う」
 沈黙が走った。いつの間にか、ビールグラスがすっかり汗をかいていた。グラスの中身はまだ半分も残っていたが、もう口をつける気にならない。そぐわないのだ、ビールの爽快感が、この話題には。
 一度話をそらして、運ばれてきた絹ごし豆腐をとり分けようか分けまいか、さまざまに思いを巡らせていると、彼女が「ふふっ」と吐き出すように笑った。
 その声はどこか湿り、また震えていた。彼女は笑ったのではない、泣いているのだ。

「離婚したいって思えば思う程にね、どうしてわたしは、夫婦っていうものを、みんなみたいにちゃんと出来ないんだろうって情けなくなるの」
 彼女は、決壊したように胸のうちを明かし始めた。
「同期の他の子も、つばさだって、みんなそれぞれに上手くいかないこと抱えてるけど、文句言ったり悩んだりしながらもちゃんと夫婦やってる。わたしにはどうしてそれが出来ないんだろうって」
 驚いた。彼女が泣いているのは目と声だけだ。しっかりと顔を上げ、身体をぴくりとも動かさず、震える声を絞り出しながら彼女は話す。涙がぱたりと落ちて初めて、彼女が泣いていると分かる。勝手に涙が出るだけなのだ。彼女は泣こうとはしていないのだ。

「うちがちゃんとした夫婦だっていう自信はないけど」慎重に言葉を選びながら、自分は言った。「みんなみたいに、って考えすぎないほうがいいんじゃないかな。ふたりで考えて、世間一般は関係なくふたりにとって一番いいかたちをつくっていけば、自然と良くなったりしないかな」
「わかる、それも思うの。つばさたちもそうしてきたんだよね、性別とか全部越えちゃって、つばさたちだけがわかる、良いかたちを作ったんだね。それってわたしにはすごく羨ましいこと」
 彼女は微笑んだ。それと同時にまた涙が落ちた。
「みんなちゃんと、自分たちなりの夫婦像を持とうとして頑張ってるのに、わたしはそれをしようともせずに、些細なこと、くだらないことばかり気にして、勝手に嫌気がさして、旦那さんから逃げてる。しなくちゃならないことを、自分でも頭でちゃんと分かってるのに、どうして出来ないんだろう」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
 止めようと思った。彼女は自分を責め過ぎている。
 今は自分を責めるための言葉しか生み出せないのだ。歯車がずれた機械のように、間違ったかたちの部品ばかりを次々につくりだしてしまう。しかし自分がいくら制止しようとも、彼女は止まらなかった。
「でもね、離婚もできないの。したいけど出来ない。旦那さんが離婚したくないだけじゃなくて、わたしも出来ないの。わたしは周りから、いつだって明るい人だと思われていたい。元気で、社交的で、皆と仲良くする人だって思われていたい。わたしが、十年も一緒に過ごした人と、離婚するような人だって思われたくないの。いろんなことが、嘘になって、壊れてしまいそうで」
「……」
「誰にも言えないの。友達にも、職場の人にも、誰にも相談できない。皆、わたしは順調な夫婦生活を送ってるって思ってる。前みたいに一緒にバーベキューしようとか、皆でスノボ旅行しようとか、夫婦ふたり揃って誘ってくれる友達もたくさんいるのに、ばれるのが怖くて適当な理由でごまかしてる。もしかしたら感付かれてるかもしれないって思うと怖くて仕方なくなるの」
「いや、それは自分を追い詰め過ぎだよ。そもそも君が明るく元気な人だってことと、離婚することは全く別の話だよ」
「違うの、同じなの。わたしは本当は明るくない。社交的でもない。だから、結婚生活もうまくいかないの。離婚することで、それが皆にわかっちゃうのが怖いの」
 苦笑いの表情で、涙をこぼしながら、自分にあきれるように彼女は言った。

 しばらくの間、互いに動けず、何も声を発せずにいた。沈黙の後、先に身体の硬直をほどいたのは彼女だった。ごく自然にテーブルに手を伸ばして、震えの収まった声でさらりと自然に言った。「お豆腐、食べよ。美味しそう」

(つづく)

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