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23.原作者と脚本家、二人のクリエイターの葛藤とダイアローグ(前編)

【推しの子】の作中でも語られていますが、原作者と脚本家は立場が異なることから、こだわるところ、こだわらざるを得ないところで両者の間に葛藤が生じることは当然といえます。

考え方・立場・枠組み・創造性の多様性

原作者と脚本家という関係性でなくても、漫画家とアニメ家、漫画の中でも原作者と作画担当者、曲作りにおいても作曲、作詞、編曲、(音楽)アーティストの間に完全に同じ意見、感想というのは存在しません。立場の違い、職業の違い、性別の違い、年代の違いだけでなく、「個性」があることから、完全なる一致はしないのです。それくらい人は多様性に満ち溢れています。

また、クリエイターやアーティストにとって、その表現そのものが自分の魂を込めた生き様であり、子どものようなものです。創造すること・表現することを生業として生きている者にとっては、それを変えられることは十分に苦痛になりえます。自分の作ったものが穢されるのであれば、全く別の作品になってしまう。もう自分のものとは思いたくない、別物として扱ってほしいというのは当然持つ思いでしょう。

同人誌やファンアートは全く別の意味合いを持つかもしれません。もちろん人によっては同じように捉える方もいるでしょう。ただ、同人誌はあくまで同人誌。公式は公式。公式とするにはそれだけの納得感が必要です。

推しの子45話より

立場の違いというのは、このように一つの作品を作る時に限りません。
どんな時にも個人間の違いは存在します。
例えば経営(事業)においても、テキストがメインの書籍(つまり漫画以外)でも同じようなことはいえます。自分の思っているイメージと大きくズレるのであれば、むしろ止めてしまった方がいいと思うくらい悔しい思いをすることは少なくありません。

こだわりと制約

一つの作品を作るのに、色んな専門の人がかかわっていることはいうまでもありません。それでも原作として譲れない部分はあります。その折り合いをつけるというところは、かなり時間のかかる作業であり、また【推しの子】の「東京ブレイド」のように、メディアが異なることによって様々な制約が出てきてしまうため、単純な「伝言ゲーム」よりも、現実はより難しいといえるでしょう。

推しの子45話より

テキストメインの書籍であっても、細かい部分で納得がいくかどうかのギリギリの線で書籍を世に出さざるを得ないことはザラにあります。時間を長引かせてしまうほど、予算内に収まらなくなったり、ページ数が多すぎる・少なすぎることになったり、表紙やタイトルが思っていたイメージと違っていたり。こだわればこだわるほどに、クリエイティヴとしては(クリエイターとしては)納得のいく素晴らしいものになるであろう一方、商業的には、あるいは他の人との関係性的には実現が難しくなるという永遠の課題があるように思えます。

多声性を包み込む対話

別の例を出すとすると、ある障害を持った方がおられたとしましょう。その方に対する支援の在り方は、医師・看護師・ソーシャルワーカー・心理師・家族・近所の人たちとの間でも異なりますし、それらは逆に異なっていること自体が大切だといえるでしょう。

大切なこととしては、「互いの意見・考え方が異なっているから誰かに合わせる」ではなく、「それぞれの異なる意見・考え方を互いに聞き合い、違いを認めあった上で対等の立場で話し合う」ことではないでしょうか。それを対話(ダイアローグ)と呼びます。

異なる立場、考え方、個性を持つ人同士で、攻撃し合うことなく存分に話し合うことができれば、つまり対話を継続させることができれば、可能性は途絶えず、生み出されていきます。互いが尊重し合える関係で、心理的に安全な空間・安心した気持ちでの対話(ダイアローグ)はどのように成立するのでしょうか。
(後編に続く)

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