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私はこの世界が好きじゃない

 私はこの世界が好きじゃない。 この言葉通り、この世界はあまりにも矛盾で成り立っていて、考えれば考えるほど息苦しい。どう生きていけば自分が納得できるのか日々考えている。
 人を傷つけるのも人で、人を救うのもまた人で、良くも悪くも人が一番身近で、その人に左右されやすい世界だなとしみじみ思う。
 最近は、その人がインターネットを介してより身近になってきた。
 例えば、最近YouTubeでも見かける格闘技について。いわゆる「格闘家」の人たちにとっては、技であっても「一般人」がそれを使えばただの暴力にすぎない。目下、日本のみならず、世界中で暴力を振るう人は存在していて、良くも悪くも情報が簡単に入手できてしまうこの世界では、その格闘技は暴力をより効率よくかつ残酷さに磨きをかけることも可能にしているだろう。
 そんなことは滅多にないだとか、そんな奴はいないとか、考える人もいるかもしれない。でも、そういう人は現に存在していて、ただ暴力を振るう輩なんてものは、年齢を問わず存在する。実際に、私だって中学の時は毎日学校で暴力を振るわれる日々を過ごしていたわけで、そこにあるのは、ただただ純粋な悪意だけ。私は知っている、そうやって、格闘技などの新しい技術を知るたびに、人で実際に試したくなる人を。そして、必ずその対象となるものが存在していることを。
 情報に国境はあってないようなもの。日本だけではなく、世界にだって存在していて、それを悪意に使うものもいる。
 そんな世界を、救いを求めている人たちを、現状があると知っていて何もできない自分が、悔しくて、苦しくて、その人たちに申し訳なく思う。
 こう思うことすら、おこがましいと言われればおこがましいし、ただの自己満に過ぎないと思う。けれど、それでもちゃんと見つけたいし、手を差し伸べていきたいと思う。
 そんな、苦しい世界が私は嫌いだ。

 他にも例を挙げるとする。 例えば、最近よく見かける個人に対する寄付。
 取り組みをおこなっている個人も団体も本当に素敵だし、自分もそういうものに携わりたいと思う。けれど、お金なんてものをあまり理解していなかった人たちに、いきなりそれらを他の人たちから押し付けられるというのは、酷なこととも言えるのだ、と思っている。
 現状で、十分に幸せだったかもしれない、知らない方が幸せだったかもしれない。それを知ってしまったせいで、それが何を意味しどういうことなのか理解した時、彼ら彼女らがどう思うだろうか。わからない。けれど、全員が全員良い方向に進めるとは限らないのではないかと思ってしまう。それは、貧富の差を生み、今までになかったような感情が芽生えることも考えられるし、平等を目指すための過程で苦しむ子たちが出てくるのではないかと。
 わからない。それは自分で見ていないし、知ってもいないし、わかってもいない。ただの推測に過ぎない。ただ、考えれてしまう可能性があるだけで、それを考えた時にとても苦しく思う。その活動、行動がよくないとか、そういう次元の話ではなくて、そういう何て言うのだろうか、、矛盾の生まれてしまう、この世界が嫌いだ。
 それを知るために、やっぱり世界を知らなければならないと思う。情報で知ることはできても、それを実際に解ることはできない。わからないのに、誰が何を語れるのか、何を伝えることができようか。それは、知った気でいるだけで、実際の当人たちにとって、無礼であり、ただその情報だけを元に嘘をつくのと同じで、見て見ぬ振りと変わらないのではないかと思う。
 
 最近は、自分がどう生き、何をしたいのかをわからないでいる。むしろ、どう死のうかを考えていたりしなくもない。
 世界を見て、少しでも解ることができたのなら、また自分の世界は変わるだろうか。広がるだろうか。死に方ではなく、生き方を見つけることができるだろうか。
 果てしない想いと理想。限りある生。留まることをしらない時。
 
 今のところ、私はこの世界を好きになれない。
 いつか、そう遠くない未来に、私はこの世界を好きになれるだろうか。
 
 少しくらい、この世界を好きになってみたいと、ほんの少しだけ思う。
 
 まだ19歳。もう19歳。
 きっと、今のところ後者だなと思う。
 生き急いで、ささっといなくなるような。

 わからないけれど、わからないなりに、今はとりあえず生きてみようと思っている。

 そんな、平凡な1人のながーい独り言でした。

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