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岡本太郎の母・かの子が詠んだ「多摩川」 歌と訣別してもなおその根底には歌が

 千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』(あんの秀子著、朝日新聞出版)。特にガリ版で刷ったイラストは見ごたえ十分です。連載第7回は「多摩川」をお届けします。

あんの秀子著『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』
あんの秀子著『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』

 人間は「どこか」で生まれ、「どこか」に居ながら生きていくもので、土地や場所との結びつきを抜きにして過ごすことはない、と言ってもいいでしょう。その場に居ながらにして世界中とのやり取りが可能な時代に生きる私たちは、しばしばそのことを忘れそうになりますが、この身が「どこか」にあることに変わりはありません。『万葉集』の時代から、歌に地名がさまざまに詠み込まれてきたのは、根源的なことなのです。

 歌に詠まれた名所は「歌枕」と呼ばれ、時代を超えて歌い継がれていきます。

 歌枕は、都のあった奈良や京都をはじめ、都に近い滋賀・兵庫など近畿圏に多いのですが、東国(現在の長野県・静岡県以東)の人々が詠んだ「東歌あずまうた」は 『万葉集』巻十四に収められ、現在の埼玉・東京・神奈川にあたる武蔵国むさしのくにの歌もあります。

 多摩川の下流域は、東京都と神奈川県の境を流れ、東京湾に注ぎます。「調布ちょうふ」という地名にもあるように、多摩川の周辺は絹や麻といった布の産地として知られます。「多摩川にさらす手作り」とは布を白くするために川で洗う作業のこと。手作業によって作られた上質な布は、「調ちょうふ(各地方で生産される布などの特産品)」という税金として納めなくてはなりませんでした。冷たい水に何度も布をさらすつらい仕事です。そんな仕事をする娘たちをいとおしく感じる気持ちを詠っています。

 三句「さらさらに」は、「かなし(いとしさ)」を強めるとともに、川の水の流れとその音にもふさわしい言葉です。「かなし」は「愛し」と表される語で、身にしみるような愛しさとでも言ったらいいでしょうか。そこに、川で布をさらす作業が繰り返され、娘たちの白い手によって布が白く洗われていく様子が重なります。布をさらす仕事のときに謡われた歌が伝わったという見方もあります。

 さて、1889(明治22)年に生まれ、東京・ 二子玉川で幼少期を過ごした岡本かの子にとっての多摩川は、幼い頃から親しんだであろう、ふるさとの川でした。しかし、かの子にとっての川は、 生活を通して何らかの実感がもたらされるものではなく、また、誰かとの共同作業の中で安らぎを覚えるものでもなかったようです。

「清く冷たく」そして「やわらかき」ものとして抽象的に、突き放したようにかの子は多摩川をとらえています。ただ、「やわらかき」という表現からは、川の水は容赦なく彼女の中に流れ込み、彼女のやわらかい感性を放っておかないのだ、という気もしてきます。

 かの子が歌を詠み始めたのは10代の頃。20代で画家(のちに漫画家)・岡本一平いっぺいと結婚しますが、やがて彼女の愛人も同居するという結婚生活を送ります。その後、一人息子の太郎(のちの画家・岡本太郎)も連れて家族で渡欧し、帰国後は小説家として活躍しました。歌とは訣別したかのようでしたが、その根底には歌があったと評されています。

 歌の末尾「誰に語らむ」の「む」は、意志を表す助動詞。誰に語ろう、と言い換えるのでよいと思いますが、あてどのないような、遠くに思いを向ける感じが込められています。「水のこころ」とは、万葉の時代から、いやもっと前から、流れ続けているのかもしれません。