「千と千尋の神隠し」は記憶についての物語
好きな映画はなんですか?と聞かれたら間違いなくスタジオジブリの「千と千尋の神隠し」を挙げるだろう。私が生まれて間も無くの映画だったため、劇場で見ることは叶わなかったが今回、特別興行でジブリ作品が劇場上映していたため即座に見に行ってきた。
釜じいの「手ェ出すなら終いまでやれ」など序盤の台詞にもいいものがたくさん出てくる。何回も見るたびに、これは良いと思う台詞も増える。何回も見るたびに発見もある。それが面白い。
ちひろの父と母が豚に変えられてしまった原因の怪しい商店街、よく見ると「人肉」「め」「生もの」「めめ」など絶対にヤバい......と思われる看板がかけられている。よく食べたよなあ。
おそるおそる外階段を下ろうとすると板が外れて、千尋が叫びながら駆け下りていく序盤と、怪我をしたハクを助けるために湯婆婆の元へ行くため外のパイプ管を駆けていくシーンは非常に対比的で、千尋の成長が伺える。個人的にはグッとくるシーンだ。あとどこか未来少年コナンっぽい。
それから序盤の湯婆婆のもとへ行く途中、エレベーターの中でオシラサマと二人きりになってしまうシーンがあるが、リンがいない心細さを汲んでか、オシラサマは自分の降りる階で降りずに千尋を最上階まで送ってくれる。あのとき、釜じいもリンもオシラサマも、千尋にグッドラック!と思っていただろうなと思うとカミサマも愛らしい存在に感じる。
千尋の記憶、ハクの記憶
つらつらと好きな場面を語っていたけれど、本題に戻ろう。
「ここへいてはいけない!」とハクに言われる出会いのシーン。それが出会いかと思いきや、ハクは千尋のことを前から知っているのだと言う。二人は過去に一度どこかで出会ったことがあるのだ。
終盤に銭婆がこう、千尋に告げる。
「思い出せないだけで、憶えている」と。
「思い出」と呼べるものはすべて、持ち主が「思い出す」から思い出となるが、思い出されなかった記憶はどうなのだろう。そう思ったことはないだろうか。全てのことを思い出せるひとなんていない。
そもそも、忘れていくことは健全だし、忘れていくために生きているのだ。全てを思い出せたら、生きていけない。薄れていくから生きていけるのだ。
きっと千尋はこの油屋であった出来事を忘れていってしまうだろう。魔法のせいで忘れてしまうかもしれないし、トンネルをくぐったら忘れてしまうのかもしれないし、だんだんと薄れていくのかもしれない。
でもきっと身体の奥深くでは「憶えている」はずなのだ。一度あったことは、深く深く沈められて何処かに眠っている。
何かがトリガーになって思い出すことがあるかもしれない。私たちの持つ全ての記憶に対してそう言える。千尋がハクの名前を思い出したように。
この映画を見ると、私の身体の奥深くにも私にとって大切な記憶が眠っているかもしれない、と思う。わたし達はみんなそういう記憶を持っているから、この物語に深く惹かれる。
千尋の髪ゴムはやさしさ
銭婆が、カオナシとネズミ坊と小さくされたカラスと一緒に手編みをする場面がある。千尋が「わたし帰る」と言うと、編み終えたそれを手渡す。
むらさきの髪ゴム。
そのとき銭婆は言うのだ。「魔法じゃ何にもならないからねえ」。
魔女のくせに、彼女はそう言う。魔女とは随分達観した者なのだな、と思う。
千尋がいずれ忘れてしまうことを踏まえて、彼女はみんなで力を合わせて手編みしたその髪ゴムを渡すのだ。現実に帰ったとき、魔法では消えてなくなってしまうけれど手編みならば残るから。
それはささやかな千尋への贈り物で、「忘れてしまっても、これがあるから大丈夫だよ」というやさしさだ。
現実へ戻ってきたとき、トンネルを出てやっと振り返ることができた千尋の髪ゴムはキラリとひかる。千尋自身はもう忘れてしまっていても、そのゴムだけは残る。
奪われる記憶
わたしが一番好きなシーンは、ハクが千尋に塩むすびをあげるところだ。
季節の異なる花が一様に咲き乱れていて、とうもろこし畑の横で千尋はおにぎりを食べながら涙をこぼす。ハクがとっておいてくれた千尋の私服を広げると、はらはらと落ちる一枚の手紙。「ちひろへ」。名前を奪われかけていた千尋はハッとする。
魔女にとられてしまったものは思い出すことが難しい。
なかったことにされてしまう。本当の名前すらも。
ハクは千尋に名前を思い出させ、そのハクもまた千尋に本当の名前を思い出させてもらう。ふたりの出会いは運命だと思ってしまえるほど奇跡的だ。
だから、また再び会える時があるならば忘れてしまった二人でも、きっと思い出すことができるだろうと、この物語のラストから信じることができる。
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