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もう何もかも嫌だと思って迷子になっていたはずが、気づいたら中国でおいしいご飯を食べていた話

3月14日の深夜25時近く、わたしはひとり、深夜の羽田空港にいた。

思えばその日までの数週間、中国に逃げ出してやる、くらいの強い気持ちを持っていたから過ごせていた。
今まで24年間のらりくらりと朗らかに過ごしていた分貯まっていた不幸ポイントみたいなものが一気に降りかかり、東京にいることが耐えられず石垣島へ行ったすぐ後に、わたしは中国行きの飛行機を予約していた。
羽田発、天津空港乗り換えの厦門【アモイ】空港行きチケット。時間を全く確認しなかったせいで、キャンセルが効かない期間になってからそれが真夜中に発つ便だったことに気づく。

とことんアホだ一人じゃなにもできない、とめそめそしそうになりながらも、深夜の羽田空港で唯一開いていたタリーズコーヒーの、とことん甘いデザートフラッペをちゅるると啜る。

もう限界だ〜とこぼしていたけれど、中国に行けば、わたしのこの状況を笑い飛ばしてくれるような友人がいる、美しい鳥の名前を持った彼女に会える、と思った。
あの子に会えることは、わたしにとって特別なことだった。

どこか遠くへ行きたい、どこか遠くへ行けばなにかが変わるんじゃないか。
そんなことを思っていたけれど、こういうとき、なにか変えさせられるのはたいてい自分の在り方のほうなのだった。

とある南国、厦門

言語がまったくわからない中、朝の4時に天津空港での乗り換えを終え、昼前には厦門空港へ到着。とうとう来ちゃった、と思った。バカでかい空港で(それでも中国内では小さいらしい)わたしは迷子の子どものような気持ちになった。でも、おとなの迷子は、時には多分必要なんだと思う。誰もこの街ではわたしのことなど知らないし、わたしのことなどどうでもいいのだ、と思うことで救われた。迷子であることが心地よかった。

マンゴーやドラゴンフルーツが屋台に山盛りになっており、暖かく、ニーハオニーハオとみなにこやかに声をかけてくれる、素朴で豊かな街、厦門。

欲しいフルーツを指さすと、カップ山盛りに入れてくれる。日本円で200円程度で山盛りのマンゴーを食べた。

おいしい。おいしすぎる。
フルーツが山盛りになっている光景には、やっぱり笑顔になってしまう。
どんなに苦しくて辛かったとしても、山盛りのマンゴーの甘さに顔が綻んでしまう。


厦門の街並み、この路地裏の民宿に宿泊した
わたしはこの景色がすごく好きだ

わたしはフルーツ屋台にひどく心を奪われ、毎日3回ずつくらい山盛りのマンゴーを買った。その場でマンゴーを切ってでかいプラパックに山盛りにしてくれるタイプの屋台もあった。南国の光景だ。固唾を飲んでマンゴーが盛られていく様子を見守ると、もう心ごとめろめろになっていた。

心ごとめろめろにされたフルーツ盛り合わせ

それから、鳥の名前のついた友人とも待ち合わせをする。
わたしたちは、彼女が日本に留学していたとき出会って、チャイナ服を着て東京の街をよく一緒に歩いていた。最後に日本で会ったとき、とんかつを新宿で食べて、それからふたりで別れを惜しんで少し泣いたことを思い出す。

わたしたちは厦門で再会し、肩を寄せ合って笑った。

日本で言う、銀座みたいな大きな街道が厦門にもあり、彼女の通訳もあってしばらくショッピングを楽しむことにする。日本語で話すときの彼女はすごく丁寧ではっきりとしているが、中国語で話すときの彼女は活き活きとして、そして早口だった。
しかし、来るまでは予想もしなかったことだったが、中国の人びとはとてもフレンドリーで親切だ。中国語がわからないわたしにも、彼らは何かを伝えようと熱心に話しかけてくる。彼女の翻訳によれば「どこから来たの?」「背が高いねえ」「日本人!そりゃようこそ。よく来てくれたね」「歓迎するよ。これはオマケのまんじゅうだから持っていきな」「この服があんたには似合うよ、そっちはあんまりだからこっちにしたほうがいい!」など。飲食店だろうが、洋服屋さんだろうが、街をただ歩いているだけであろうが、彼らはひっきりなしに声をかけてくる。
そんな友好的な言葉の数々が、わたしはとても嬉しかった。

ほんとうは、来るまでは少し緊張していた。
日本人のことをあんまり好きじゃなかったらどうしよう。冷たくされるかもしれない。それが、来てみたらおおらかで優しくて明るい人たちが思いっきりわたしを歓迎してくれて、わたしの世界はまたひとつ新たな光が灯った。
実際に来ないとわからないことはたくさんあって、それらはたいてい、教科書には載っていない。


日本で売っている仙草ゼリーよりもハーブ感が強い、とてもおいしい

伝えたいこと、伝わらないこと

おいしい、というのは「ハオチー」と言うらしい。
厦門から移動して福鼎という街に来るころ、友人が教えてくれた。
福鼎もまた、食べ物がおいしい街だった。そこは彼女の故郷で、家族をわたしに紹介してくれた。「ニーハオ」と「シェシェ」くらいしか言えないわたしに、彼女の両親は「とてもうまい中国語だ!」と愉快に笑ってくれて、カタコトの日本語で「ヨウコソ」と「コンニチハ」を返してくれた。
言葉が通じなくても、通訳がなくても、どんなニュアンスで感情を乗せてくれるかは、伝えようとしてくれてこちらも受け取ろうとさえしていればきちんとわかる。それはとても希望だと思った。
その頃、日本にいたときのわたしは、伝えようとしていたことが思ったように伝わらず、優しく言葉を受け取ることもできず傷つけたり傷ついたりすることばかりだったから、いっそ言語が通じなくてもわかり合おうとすれば分かり合えるのだということがハッキリと美しく映った。

伝えようとすること、受け取ろうとすること。
それはすごく大切なことで、たとえ家族でも恋人でも友人でも、それを忘れた瞬間に同じ言語だろうがなんだろうが、分かり合えなくなる。
わたしはそれを中国で出逢うひとのあたたかさで知っていく。
最近、わたしは伝えようとすることも、受け取ろうとすることも蔑ろにしていなかっただろうか。
傷つけたり、傷つけられたりしたことばかりに目を向けて、最も基本的なひととの向き合い方をわたしは思い出したのだった。

心を少し豊かにしながら、上海へ

新幹線で5時間ほどかけてわたしたちは北上し、中国きっての大都市上海へ到着する。

日暮後の上海の熱気は凄まじいものだった。夜の闇がまったく忘れ去られた眠らない街。どでかい広告。目の奥までチカチカするネオン。
迷子の気分でこの街を見上げたら、あっという間に飲み込まれてしまいそうだった。そして上海は、セーターを着ないとまだまだ寒く、中国の広さを実感した。

いつの間にかちょっと嬉しそうな顔をしているわたし

上海のホテルに泊まっているとき、頼んでもいないのに北京ダックの出前が届いた。日付が変わろうとしている深夜である。なんだろう、と思っていると友人がにやりと笑って言った。
「日本から中国に来てくれた友だちがいるってことを、わたしが大学の友だちに話したら、ぜひ中国の北京ダックを食べて欲しいっていまさっき出前をとってくれたんだよ。わたしの友だちからのプレゼント。食べようか」
中国人、あまりにも親切ですごい……!!
友だちの友だち、というやつだ。友だちの友だちからのプレゼントが、深夜のホテルに、北京ダックとなって届く。すごい嬉しい。
元気になっていく心をどうして止められようか。

古都、蘇州、中国のファッション

上海から新幹線で30分。わたしたちは蘇州に観光に行った。
わたしはこの日、本場のチャイナドレスを買って着て歩くことを決めていた。絶対に買う。

わたしが中国に来て思ったことの一つ、それは服装の自由さだった。
日本に留学に来ている間、友人がよく
「日本人はだいたい同じような服を着ている。黒か白が多い」
と言っていた。確かに友人は、美しい鳥の名前のごとく、明るい色のワンピースを着ていることが多かった。しかし中国に実際に来てみると、本当に日本とはまるで違って、カラフルで多種多様なカワイイが溢れていたのだ。
ゴスロリのひともいれば、初音ミクみたいなロボ風のでかい髪飾りをしている女性もいたし、かと思えばアメリカン風の袖なしヘソだしファッションもいたし(寒いのに)、漢服もチャイナもいたし、真っ青なカーディガンとか、真っ赤な帽子とか、パリコレみたいなやたらモケモケの服もいた。とにかく統一感がなく、でもそれが自然だった。そして誰もそういった服装の違いを気にしていないようで、どんな服で過ごしていようがジロジロ見られることもなさそうだった。
個性的でいいってこういうことか、と妙に納得し、日本人は確かに周りを気にし過ぎている節があるなと思った。
もっと着たい服を堂々と着たらいいんじゃないか。黒か白で無難にするのもやめたいし、どこのアパレルでも似たような服を売っている現状にもう少し飽き飽きしてもいいのかもしれない。


なので大柄の赤チャイナ服で観光した
似合ってようが似合わなかろうが、着たいものを着ればいい

心を満たすごはん、迷子じゃなくなったわたし


それからやっぱり、ご飯がおいしい。
蘇州には独特の朝ごはんがあるという。日本で言うとお汁粉に近いのかもしれない。白玉がたくさん入っていて、温かくて甘い味。

ほんわかとお腹の下まであたたまる

この頃には、もう迷子の気持ちはしなかった。
日本に帰る日が近づいていたが、怖くはなかった。

逃げてきたつもりの国で、街で、どこにでも変わらないあたたかさと優しさに出逢って、自分に優しくなれなかったのは他でもない自分自身だったんじゃないかと思った。
自分に優しくなかったから、ひとにも優しくできなくて、みんな傷つけた。
傷つけたことに自分もまた傷ついて抜け出せなかった。
わたしの友だちは、みんな、わたしがそのことに自分で気づいて帰ってくるのを待っていてくれた。

蘇州は日本でいう京都みたいな街 美しい風景
おいしすぎて泣きそうになりながら食べた朝ごはん

おいしくて、嬉しくて泣くのは、悲しくて泣くのとはやっぱり違う。
どうしてわたしは逃げちゃったのかなあと思って、でも鳥の名前を持つ優しい友だちは「逃げて当然だったよ」と言ってくれたし、日本で待ってくれていた優しい友だちは「いつまで逃げてんの!戻ってきてよ」と言ってくれた。

どこまで逃げてもわからないものはわからないけれど、本当にどうしようもないときは、いっそ迷子になってしまうのもいいんじゃないかと今でこそ思う。

迷子の子どもは自分がいまどこにいるのかわからないから怖くて泣くのだ。
大人だって、自分がいまどこにいるのかわからないときがある。
そのときに、ああ、迷子だって認めてしまえたら少しは楽になれるんじゃないのか。そして、どれほどの人が自分がいまどこにいるのかわかっているのだろうか、とも思うのだ。

みんな、どこか迷子でどこか寂しくて、だから、優しい。
迷子になった街でおいしいご飯に出逢えたら、それだけで充分だ。
生きていける。とわたしは思う。

また更新します。
たくさん迷って泣き喚いて、優しくなろうね。

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