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愛すること、愛し続けること/市川拓司「そのときは彼によろしく」

「そのときは彼によろしく」

たしか、小学生か中学生になりたての頃、実家の箪笥の上に雑然と件の文庫本が置いてあった。うちではそういうことが多々あった。パソコンの横とか、テレビ台の下とか、トロンボーンケースの上とか。いわゆる大衆小説が好きだった父の影響で、私も幼い頃からそれらを拾い読みしていた。スカイブルーの表紙(たぶん海か空)に、ポツリと浮かぶ白い犬(トラッシュなのだろうか)。どういうお話なのだろう、と思って手に取った覚えがある。

「とても素敵な話だけど、たぶん私にはまだ早い」

読後、十代に足を踏み入れたばかりの少女は、そう感じた。そっと本を閉じて、元あった場所に戻した。

あれから、10年以上経った。

市川拓司の小説は、あれ以来手に取っていなかった。父は歳を取り、変なところに置かれていた小説はなくなり、私はあの家を出た。

本屋さんでふと彼の名前を見かけた。久しぶりに読みたくなって、いくつかの別の作品とともに購入した。

ボーイッシュだけどどことなく神秘的な少女と、地味で頼りなくて水辺の生物が好きな少年の話。ああ、こんな話だった、と思いながらページを捲る。温かい父親と、信頼できる友人、そしてボロ切れを纏ったチャーミングな犬。それから、当時の私にはちょっぴり刺激的だった、智史の初体験シーン。

ボーイミーツガールの大原則。出会いはゆっくり、だけどとびきりロマンチックに。ふたりだけの世界の中で、かれらは愛を語らう。外国で売ってるとびっきり大きいシナモンロールみたいに甘くて、でも飽きない。物語は不思議なほど優しくて、読み終わった後は大きな声で泣いた。

市川拓司は優しい物語を描く。

花梨は、愛されるのではなく愛すことを幸せだと言った。

人に優しくできたとき、自分のことを信じられる。好きな人に優しくできたとき(それは滅多にできないことなのだけど)、私は私をほんの少しだけ好きになれる。愛されることはとても素敵なことだけど、私は誰かを愛したい。そこに幸せが宿っていると思うから。

だから、私は花梨を愛おしいと思った。

大切なことは、誰かを愛すること。そして愛し続けること。私たちはじきに大人になってしまうけど、いや、すでに大人になってしまったけど、これだけは忘れてはならないと思った。

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