見出し画像

僕のこと


僕は他人に対して、いつもこう思っています。

「自分のことが好きだ」と思える仕事をしてほしい
心がすり減るような仕事、無理に頑張らなくていい
自分なりのカタチでいいから幸せに生きてほしい



今日は
なぜ僕はそう思うのか
について、書いてみようと思います。


これは33年間という時間の中で形成された僕の価値観です。
そのため、深掘りすると幼少期まで遡ることになる。


読んでくれた人にとって、
気分が楽になったり、心がホッとするものになれば、ほんとに幸いです。


自分にとっては、
いつか振り返った時の目印として。


子供の時のことをよく覚えていない!



話は幼少期に遡るくせに、

僕は子供の頃の記憶があまりありません!笑




ただ、


人はなぜ生きているのか
ということ。 

割と幼い頃から、これを考えていたのを覚えてます。
でもそんな話題って友達と軽々しく共有できるものでもなくて。
鬼ごっことかゲームしてる途中で、切り出せない話題じゃないですか。笑


「こんな、考えても仕方のないことが頭に浮かんじゃう僕は、ちょっとおかしいんだろうか‥」
と、それなりにしっかり悩んでた時期があります。

子供なんだから、空気なんて読まずに
疑問に思った、頭に浮かんだままのその言葉を
誰かにぶつけてみたらいいのに。


今、客観的に考えたらそう思うんだけど。




僕は今も昔も
人の顔色を気にして、自分以外の感情を優先してしまう性格です。


とにかく自信がない!


僕は

勉強と運動、そのどちらも得意ではなかったです。

特に運動には、強い苦手意識がありました!

子供の頃は、結構大きなステータスだったりするじゃないですか、運動神経。


クラスの中で、もちろん目立つタイプでもなければ
かと言っていじめられるタイプでもない。


自分の『特徴』が、自分でよくわからない子供でした。
(みんな大体そう?)


『イジメ』について 


特別、人に傷つけられたことや、人を傷つけたことがなかった僕でも


いつしか『イジメ』に加担していました
中学生のときでした。


人を傷つけることが「楽しい」と思う、そんな性格でもなかったけど

とにかくいつしか、
その子の外見を面白おかしく、影であだ名をつけて、本人に聞こえるような声量で、みんなで呼んでたりしました。



本人が気付いていたのかどうか。


絶対に気が付いていた、と思ってます。
人が人を集団で馬鹿にする時のムード。
絶対に分かってしまうものだという気がします。
特に思春期でもあったわけで。


これに関しては、大事になる前に
いつの間にか『ブーム』が去っていきました。
今考えると、本当によかった。


なんで自分はそこに加担したのか、今でもよく分かりません。
特に理由なんかなくても混じって、やってしまう。
イジメとはそういうものなのかもしれません。


成人式の時、その子に中学卒業以来の再会をしました。
普通に、笑顔で、明るく接してくれました。
僕はやっぱり後ろめたい気持ちで、なんだかすぐに話を切り上げてしまったのを覚えています。


とにかく心の中に残っているのは、
自分は本当に最低なことをした、という後悔です。
今でも、強く後悔が残っています。

この経験は、

"人を馬鹿にしてはいけない。
特に、外見のことで人を揶揄するのは罪深い
"

という僕の価値観を形成しました。


僕が育った『家庭』について


僕の中で1番記憶にないシーンは
『家族での時間』 です。


その中でも

お父さんとよくキャッチボールをしたのが
1番の思い出。

野球選手の投げ方や打ち方を真似てみせて、それが誰なのかを当てる、という謎クイズにもよく付き合ってくれました。



そんな優しいお父さんは、少し、心の弱い人でした。

よく、職場を転々としていました。

人間関係なのか、仕事の出来なのか。
理由は聞いたことがないから、今でも分かりません。 


小学五年生の頃、夜になると
お父さんとお母さんが、たまに一階のリビングで喧嘩をするようになりました。

喧嘩と言っても、
お父さんが一方的に怒ってる感じです。



僕と、小学3年生の妹は
2階にある子供部屋で寝る時間なのですが
一階から聞こえてくる怒号や、食器がたくさん割れるような物音がして、怖くて、とても眠れません。


一度、怖かったけど一階のリビングに降りていったことを覚えています。
(そこからのシーンは思い出せません‥。どうなってんねん記憶。)


そこからの中学2年生で両親が離婚するまでの間、
家は僕にとって、『憂鬱な時間』でした。


「今日もあるかもしれない」と思うと、毎晩眠れなかった。
10円禿げができました。


とにかくお父さんとお母さんを離すことを考えてて

よくお父さんに
「一緒に寝ようよ』とお願いして、一緒に寝てもらってました。



この話は、もう僕にとって「辛い過去」としての意味合いではなくて

自分の価値観を強くカタチづくる経験であったと
そう思っています。

僕の中で決定的な出来事が起こったのは、
中学2年生の時でした。


「お願いだから、帰ってきてほしい」 


その日はお父さんの帰りが、少し遅かったです。

というか、何日か前から、帰る時間が遅くなりつつあったように記憶してます。


21時か22時ごろだったか、
家にお父さんから電話がかかってきました。

ぼくも妹も、もう寝室にいました。

電話に出たお母さんの異変に気付けるわけもなく、
そのうちにお母さんが2階まで僕達を呼びに来ました。



電話で具体的に何を話したのか、覚えていません。笑


ただ、

お父さんは「もう家に帰らない」と言っていました。


お父さんは「もう、生きることをやめたい』
と、電話でそう言いました。




僕がその頃、
自分の命を繋ぐことを諦めたくなる、そんな気持ちがあることを知っていたのかどうか、覚えていません。


でも、
お父さんは本気で居なくなろうとしていることは分かりました。


必死で「お願いだから帰ってきて』と伝えました。

でもお父さんは
ずーっと「ごめんね」としか言ってくれません。


どんなに泣き喚いても、お願いをしても
お父さんは何も言わなくなって
確か、妹に電話を代わったと、そう記憶しています。



そのあと、電話は切れました。
お母さんはすぐにお父さんのお父さん(僕のおじいちゃん)に電話をして、お父さんの捜索が始まりました。


次に覚えているのは
ぐったりとして意識がないお父さんを
おじいちゃんが家に運んできたシーンです。


そこからのことは特に覚えていなくて‥
気が付いたら両親は離婚してました!

心底、ホッとしたのを覚えてます。


人が生きる理由とは


どんな理由でも構わない。
人から見たらしょうもない理由でも、
どんなに情けなくっても、
自分の心が悲鳴を上げる前に、その場所から逃げたらいい。



人が生きる理由に答えなんてないし、人それぞれでいい。

ただ唯一、全員に当てはまる言葉にするなら
幸せになるために生きてる、んだと思う。

仕事がしんどかったり
学校がしんどかったり
家庭がしんどかったり

その『しんどい』のせいで、もし生きる気力さえもなくなっていく気がしたら。


どうか逃げてほしい。
絶対にやり直せる。
どうにかなる。

僕のお父さんは今でも生きてくれていて
30歳の頃、15年ぶりに笑って再会することができました!

親子になれているか、と聞かれたら
よく分からないです。

僕の中で、父親というものがよくわからないし
まだ片付いてない感情もあります。
でも生きていてくれた事が、ただただよかったと感じます。


当時は辛かったけど

僕は今、自分の価値観や大切にしていることを
ハッキリと言葉にできるようになったのは、この経験があったからだと思っています。

人の目を気にしたり、顔色を伺ったり
相手の感情を優先してしまう、この性格も

もしかしたら、
誰かを救えるかもしれない。と
そう思えて、自分の好きなところの一つになっています。



人生は捉え方がすべてだと、心からそう思います。

過去も、今の自分も、今自分がいる場所も
すべて受け入れて、とにかくまず自分に⭕️をつける。

いつだってそこがスタート。
そしてそこから、
自分の心にちゃんと向き合う。

さあ、ここからどうしようか』と
自分の未来について考える。
そして、行動に移す。


これからもずっと
そういう姿勢で生きていきたいなぁと
そう思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?