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早歩き書き 2023.02.06 Tue

この2,3年間の中で自分が興味のあるテーマについて考えていること、それを考える上で影響を受けたBUMP OF CHICKENの音楽と、出会った書籍の一部を紹介します。
そして、それらが連関していると感じた事を、勢いに任せて言葉にしてみました。やはり走り書きほどのスピード感はないので、今回も早歩き書きです。

土井善晴の料理論

料理研究家の土井善晴の紡ぐ言葉がとても好きで、学生の頃、著書をよく読んでいた。レシピ本ではなく、料理を通して彼が語る哲学が好きだ。
大学を卒業し、大学院への進学を機に実家を出る僕に母が持たせてくれた『一汁一菜でよいという提案』という一冊が出会いのきっかけだった。

実家を出た僕は、友人とルームシェアを始めた。ルームシェアといっても、各々の生活は独立している。はじめて実家を出て、毎日自分で料理をすること、という体験を通して、自分にとってこれからどのように日々の生活の営みをおこなっていくかというものがまだ定まっていなかった頃だったので、土井善晴の言葉に大いに影響を受けたことは間違いない。

中島岳志の利他論

土井善晴から中島岳志へ

そんな中『料理と利他』という本が刊行される。
土井善晴と中島岳志の対談がベースとなっていて、「利他」という概念にとても興味を持った。土井善晴の著書に対して張っていた自分のアンテナに飛び込んできたのである。

「優しさ」ってなんだろう?
「誰かのため」ってどういうことだろう?

こういう話題は大好物なのだけど、それについて誰かと深く話をすることはどこか恥ずかしいような気持ちもあった。いや、無意識に予防線を張っていただけかもしれない。あいつがまたなんかくさいこと言ってるよ、と揶揄されるのが恐かった。
そうしてただひとりずっと考えていた「優しさ」「誰かのため」というテーマを、「利他」という言葉が包みこんでくれたようで、また、それを研究している人の言葉に出会って、とても興味が湧いたのである。

こうして僕は「利他」というワードや中島岳志の著書にアンテナを張るようになった。

利他と優しさ

そんなある日、書店で『思いがけず利他』という中島岳志の新刊を見かけたとき、落雷のようにBUMP OF CHICKENの『ひとりごと』という楽曲が想起された。
衝撃的すぎて、ろくに中身も見ずにレジに持っていったことをよく覚えている。

『ひとりごと』は、こんな歌詞から始まる。

ねぇ 優しさってなんだと思う

ひとりごと / BUMP OF CHICKEN

優しさを君に渡そうとしたら粉々になるよ、君のために生きたって僕のためになっちゃうんだ、優しくなんかない、なれやしない、と言う楽曲中の「僕」の、利己と利他の狭間で揺れ動く感情が実に人間らしい。

BUMP OF CHICKENの楽曲で歌われているテーマは、幾度となく僕が考えを深めることの契機になっている。
贈るという行為を『ひとりごと』を通して考えた「誰かのためとは?」という問いについては、過去の記事にも書いているので、よかったら。
『ひとりごと』の作詞作曲を手がける藤原基央の言葉についても触れています。

ねぇ
優しさってなんだと思う
さっきより解ってきたよ
きっとさ 君の知らないうちに君から貰ったよ
覚えはないでしょう

ひとりごと / BUMP OF CHICKEN

僕は、優しさは受け取り手の感じ方に強く依存するために、優しさとして受け取られない限りそれを与える側の意図は関係ないという意味で、優しさとは現象であると言えるのではないかと考えている。意図的な優しさ、作為的な優しさは存在し得ないんじゃないかと。

『ひとりごと』で歌われていることと『思いがけず利他』には、その考えを深めてくれる要素が詰まっているように感じて、思わず手に取ってしまったのである。

利他的行動に対して、「偽善者」というレッテルが貼られたり、結局のところ突き詰めれば利己的行為なのではないかという疑念が生じてしまうこと。
利他のつもりが利己を含んでいる場合があること。
贈与という行為から生じる、負債感。

つまり、「利他」は与えた時に発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生するのです。自分の行為の結果は、所有できません。あらゆる未来は不確実です。そのため、「与え手」の側は、その行為が利他的であるか否かを決定することができません。あくまでも、その行為が「利他的なもの」として受け取られたときにこそ、「利他」が生まれるのです。
(中略)
私たちは「与えること」が利他だと思い込んでいます。だから「何かいいことをしよう」として、時に相手を傷つけてしまうのです。

中島岳志『思いがけず利他』ミシマ社, 2021

仏教の観念からヒンディー語の文法に至るまで、さまざまな視点から綴られる文章。上手く要約することができないのがもどかしいけれど、特に強く刻まれたのはこの部分だった。

「言葉を選ぶということ」という過去の記事でも触れているが、自分の元を離れた言葉をどう解釈されるかは、受け取る相手次第だと僕は考える。

それは、中島岳志の言う『自分の行為の結果は、所有できない』ということの中に包含されるものだろう。
自分よりももっと俯瞰した視点から書かれた文章に出会えたことで、自分の主観で考えていたことにも普遍的な要素が含まれているのかもしれないと思えて、うれしかった。

そうして僕は「利他」というワードや中島岳志の著書により広くアンテナを張るようになった。

本との出会い方

読みたい本を選ぶとき

新刊書店、古本屋、Amazon、SNS、友人の勧め…
ネットやリアルを問わず、さまざまなところで本と出会う。どの媒体においてもその全てにそれぞれの良さがあって、「おっ」と思わず手や足を止めてしまう本に出会える機会は、僕が年齢を重ねるにつれて拡がったように思う。

書籍の衝動買いはよしとする自分ルールがあって、自分が強く惹かれるテーマについて書かれた本は、とりあえず買って、本棚に並べている。いわゆる積読というやつだ。
タイトルや目次を見て強く惹かれた本を、思わず手に取ってしまうことはないだろうか。僕はそうして手に取る本が、後に読むそのときの今の自分、あるいは、未来の自分、過去の自分に必要なものだと感じる事が多い。その自分の感覚を信頼している、と言うとちょっと自意識が強めに聞こえるけれど、自分が読みたい本は、直感で選んでいる節がある。

私は優れた直感とは「経験の蓄積による無意識下での論理的帰結」だと定義しています

Dai Tamesue 爲末大  Twitter

爲末大が、以前自身のTwitterでこう述べていた。
(下記ツイートのスレッド参照)

僕の、本に対する直感が優れたものであると言いたいわけではない。
ただ、自分が好きなもの、自分の琴線に触れるものは、自分が一番よくわかっている、ということである。
だから書店のPOPも、Amazonのレビューもあまり見ていない。

書店の人文のコーナーが好きなのだけれど、中島岳志の著書の近くにはだいたい若松英輔の書籍がある。たしか、中島岳志と共著で利他についての本も書かれていたはず。
そのようにして若松英輔の著書も自分のアンテナに引っかかることが増えたのは、自然なことだった。

若松英輔の随筆集

そして、話は現在へ。
先日、書店で『悲しみの秘義』という本と出会った。

この本は、孤独や喪失、悲しみに人はどう向き合ってきたのか、どう向き合っていくことができるか、ということが書かれているのではないかとの予感を持って購入した。書籍のタイトルと同じ「悲しみの秘義」という題の文章をはじめとする26編からなる随筆集である。

読み進めていくうちに、BUMP OF CHICKENの
ray
望遠のマーチ
Aurora
の3曲がぼんやりと頭の中を占め始めた。

対象とするテーマが近いからだろうか、この本の内容があまりにBUMPの楽曲とリンクする点が多いように感じられて、感動しながらいまこれを書いている。
この本はやはり僕が読みたい本だったのだ、と思える瞬間の充足感を味わいながら、今回は、その中でもタイトルと同じ一篇、「悲しみの秘義」と「ray」の話をしたい。

「悲しみの秘義」と「ray」

「悲しみの秘義」では、宮澤賢治の詩が引用されている。

もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ

宮澤賢治『小岩井農場』

まず、宮澤賢治の詩を読んでいてはっとした。頭の中に湧き起こるイメージが、rayの楽曲中の「歩くのは大変だ」と歌いながら悲しい光を封じ込めて前に進む「僕」とリンクしているように思えて仕方がない。

寂しくなんかなかったよ
ちゃんと寂しくなれたから

ray / BUMP OF CHICKEN

寂しくないと思えば寂しさを感じないようにもなれるけれど、寂しさが消えるわけではない。ここはこれでいい、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、それでもなお進む力強さが胸に迫る。
悲しみと向き合うとき、人は、同じように感じるものなのだろうか。感情の起こるメカニズムは同じで、それをそれぞれがさまざまな言葉に直すから異なる感情であるかのように感じられているだけで。そう思えるほどに、宮澤賢治と藤原基央の書く詩から伝わる切なさは同じもののように僕には感じられた。
偶然の一致なのか、影響を受けたのかはわからないが、「透明な軌道をすすむ」という表現もどことなくrayを想起させる。

宮澤賢治の詩に触れたのち、若松英輔はこう書いている。

悲しみは別離に伴う現象ではなく、亡き者の訪れを告げる出来事だと感じることはないだろうか。
愛しき者がそばにいる。どうしてそれを消し去る必要があるだろう。どうして乗り越える必要などあるだろう。賢治がそうだったように悲しみがあるから生きていられる。そう感じている人はいる。

若松英輔『悲しみの秘義』文春文庫, 2019

宮澤賢治の詩との出会いに続き、さらに若松英輔の綴る言葉を読んで、rayの歌詞への自分なりの理解が深まるような心地がした。
rayでは「君」との別れが過去のものになり、未来へと歩く「僕」を後ろから照らしているという構図が歌われている。未来へと伸びる「僕」の影を生み出すのは、「君」との別れという悲しみがつくる光源なのだ。

悲しみが愛しさと繋がっているということだろうか。悲しみを感じるとき、今は亡き愛しき者がそばにいると思えることだと捉える姿勢に、悲しみがあるから生きていられるという一文に、僕はどうしようもなくrayの世界観を感じてしまったのである。

かつて日本人は、「かなし」を「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛(いつく)しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っているというのである。ここでの美は、華美や華麗、豪奢とはまったく関係がない。苦境にあっても、日々を懸命に生きる者が放つ、あの光のようなものに他ならない。

若松英輔『悲しみの秘義』文春文庫, 2019

悲しくて涙が出る直前は胸が痛くなる。でもいつか痛まなくなってしまうのを知っている。こんな気持ちなのは今だけだとわかっている。泣けなくなることが寂しい。この悲しい気持ちがなくなってしまうことが寂しい。でも、ちゃんとその気持ちになれたこと、その気持ちがあったことは事実として消えやしない。大切な人を失った痛みが強ければ強いほど、それだけ大切だったのだと愛しさに変換することができる。rayを作詞作曲した藤原基央は、悲しみから感じることのできるその愛しさを光にたとえたのかもしれない。

大丈夫だ あの痛みは忘れたって消えやしない

ray / BUMP OF CHICKEN

なぜ痛みが消えないことを「大丈夫だ」と歌うのか。
なぜ悲しみが光源なのか。

それを解釈するヒントがこの文章には埋め込まれているようで、もう少し言語化を続けたいところだが、悲しい気持ちに際しているときにしかわからない感情もきっとあると思う。そのタイミングではない今回はこのあたりで。

「悲しみの秘義」は、長い文章ではない。
それゆえに、思索を深める余韻のようなものが残るような心地がする。rayのアウトロを聴きながら、その余韻の中でまた考えを深めていきたいと思う。
どんどん言葉に当てはめていくと溢れてしまうものがあることを恐れる僕は、またゆっくり時間をかけて言葉に直していくこととする。


駄文ではありますが、読んでくださったあなたに、感謝を。
特に最後は、感動が先走って上手く言葉に直せないまま、わかったと思えばその瞬間にすり抜けていく思いをつかみたくて書いていました。
もしよかったら、あなたの考えていることもお聞かせいただけたらうれしいです。
対話からしか生まれ得ない新たな見地にも出会ってみたい。そう思うからです。


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