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言葉を選ぶということ

咄嗟に話せない

僕は言葉を選びすぎる節があると気づき始めたのが大学3年生の頃。

学部生時代、部活をやっていた。部活がおわるといつも集まって、監督や幹部の先輩、あるいはその時々で指名された部員の話を聞いて、解散という流れがルーティーン。
その日はたまたま自分が指名された。そのときは最上級生ではなかったし、正直指名されるとは思っていなかったので、内容を考えていなかったというのはある。しかし僕はそこで、文章を用意するのに5分間フリーズしてしまった。いや、もっと長かったかも。その日の練習で感じた事を必死に思い返しては言葉に直す作業に入った僕がフリーズしている間、集まった部員の中には重い沈黙が立ち込める。心配そうな顔もされたし、イライラしているであろう顔もあった。
早く何か言わなきゃ、と思う自分と、中途半端な事を言いたくない自分の葛藤。結局悔しくも前者が勝ち、自分的には及第点ギリギリの、あまり中身のない話をした。

その頃から、「感情や感覚をすぐに言語化できる」とか「話しながら考える」ってなんて器用なんだ、もはや才能なんじゃないか、と、自分が咄嗟に言葉を口に出せない事に劣等感を抱くようになり始めた。子どもの頃はあんなにおしゃべりだったのに。

表面を撫でるだけの薄っぺらい事ならいくらでも言えるし、それで流せるときはそうするけれど、そういうことを続けていると薄っぺらい人間になってしまいそうでなんとなく嫌だった。
つぎはぎに言葉を足しては話が間延びして薄っぺらくなってしまうのだから結局あまり変わらないのに。


100%伝わるなんてありえない

現代の人は定型文とかどっかで見たことのある文に自分の気持ちを当てはめて話しているだけなのではないか

いしわたり淳治『言葉にできない想いは本当にあるのか』筑摩書房, 2020

という問い。「言葉にできない想いは本当にあるのか」という本を読んでいる中でふと引っかかった。

たしかにそうかもしれないと思った。こう言うしかない、この言葉を使うほかないけれどこれじゃ伝えきれないんだ、これ伝わってる?と思うときがよくある。
「ありがとう」はその最たるもので、例えば命を救われたときの「ありがとう」と、食卓でお醤油取ってもらったときの「ありがとう」がどうして同じ言葉でしか表せないのか。
そこに込められた「感謝の気持ち」の重さの違いは想像に難くないけれど、口に出すとどちらも同じ音の羅列「ありがとう」でしかない。こんなにもどかしい事はないよなあと僕はよく思う。

「わかるよ」「わかるー!」と現代の人はよく言う。自分も例外ではなく、よく言ってしまう。けれど「君と100%同じ気持ちだよ!」という事を表明したいわけではなく、「他人だから感じ方は多かれ少なかれ違うかもしれないけれど、概ね同じような、似たような気持ちを僕も持っていると思う」というやや複雑な思いを以て口に出している。
なぜなら感じ方考え方は人それぞれで、100%同じ気持ちでいることなんてありえないと思うから。僕はそういうちょっと重い気持ちを「わかる」という言葉に当てはめているのである。

とはいえもちろん、いちいち毎回そんな変な思考プロセスを経て「わかる」と言っているわけじゃない。僕が「わかる」と言いたい気持ちの根底には、皆もそうであるように「共感を表明したい」という気持ちがある。100%同じ気持ちでいることがありえない分、分かち合える事はうれしい事だから。
前述の複雑な思いをもっとポジティブに言うならば、「君のと近い気持ちを僕も持っているよ!」という思い。最近はそれくらいのフランクさで口に出せるようになった。

だから少なくとも自分から伝えるときには、少しでも自分がいま感じている気持ちや感覚や考えている事を伝わるように伝えたくて、僕は言葉を選ぶ事に時間をかけてしまうのだろう。


誤解が恐い

そんなふうに考え始めてから、自分が誤解を恐れすぎることにも気がついた。自分が伝えたい意図がちゃんと伝わっているか不安で、時間をかけて言葉を選び、言葉を重ね、継ぎ足し、話が冗長になってしまう。だから上手く話せない。メールやLINEも無駄に長文ばかり。
言葉を重ねるほどに、純粋な伝えたい事から遠ざかっていく感覚もある。言葉を重ねるうちに、あ、言いたい事から離れてきたな、と思いながら話すこともしばしばある。
個人的な解釈だけれど、僕の好きなBUMP OF CHICKENの楽曲「pinkie」ではそれに近い感覚が唄われているように思う。

心の始まりは強すぎて
言葉じゃ間に合わなくて
足りないからどんどん足すから
弱くなって終わりにした

pinkie / BUMP OF CHICKEN

無駄な味付けが多いと料理が不味くなるように、塗り重ねるほどに色が濁るように。言葉も同じようなものなのかもしれない。シンプルでクリアに話せるって、なんて素敵で、なんて難しいんだろう。要点をまとめて的を射た事をスマートに話せる人への憧れは募るばかりである。

自分が嫌だと思っていた「表面を撫でるだけの薄っぺらい事」というのはつまり、何も考えず定型文を引用する事で、その感覚を伝えきれなくてもいいやという妥協や、とりあえずこれを言っておこうという思考の浅さが露呈して薄っぺらく感じてしまうという事だったのかな。でもその薄っぺらさはよく言えばインスタントなわけで、時間をかけて言葉を選んでしまう事とトレードオフな気もする。どちらがいいかは時と場所による。上手く話せる人はこれらのバランスを取るのが上手いとも言えるのかも。話が逸れた。


自分の言葉で話す

じゃあ「自分の言葉で話す」ってどういう事なんだろう。言葉選びに自分らしさが表れるということなんだろうか。それは借りものの言葉でも「自分がその組み合わせを選んだ」という過程を経るから自分の言葉になるということなのか。

ならば小説、論文、随筆、記事、歌詞、トーク番組、ニュース、何であろうと、今まで生きてきた中で読んだもの、聞いたものから得て自分の中に蓄積された言葉や文章を吟味して組み合わせ、それぞれを分解して再解釈し、再構築した言葉を話すことが「自分の言葉で話す」ということなんじゃないか。

つまり、選んだ言葉を分解して自分の気持ちと照らし合わせて、こういう気持ちを伝えたいんだと確認した上で、その気持ちを改めて選んだ言葉に当てはめて話すということか。

あれ。最初の問いに戻ってくる。

結局その時々の感情を、近い言葉に当てはめているだけなのか。


伝わっていないかも

自分の手(口)を離れた後の言葉たちは受け手の感性に委ねられる。違う受け取り方をされてしまう事だってある。どんなに言葉を選んでも、どれくらい伝わっているかはもう自分にはわからない、どうしようもない部分なのである。

だから結局、言葉選びにこだわる事は自己満足でしかない。それでも自分が伝えられる精一杯を伝えようと努力するのは、「伝わらなかったという失望を味わいたくない」という本音が根底にあるのかもしれない。誤解されても伝わらなくても、「伝える努力はした」という事実に救われたいだけなのかも。

いろんなものを読んだり聞いたりして、他人の思考に触れる事って、思考を深める事とか、感受性に関わる、自分の内側が育つために必要なんだと漠然と思っていた。けれどそれを外に出す、誰かに伝えるときの表現のひとつである言葉選びのためにも必要なんだなと考えるに至った。
読んだり聞いたりする事は語彙の充実に繋がる。語彙が豊富だという事は「自分だけの言葉選び」の選択肢が多いという事であり、自分だけの組み合わせを作りやすいんじゃないかと思う。


言葉を選ぶということ

様々な要因が連関した結果、オンラインなんとか、リモートなんとかが流行り始めた上、会っても顔の半分が覆われていて表情が読めない、無意識の非言語コミュニケーションが使えないからか話しづらいという声をよく聞く。そんな今だからこそ言葉の重要性がよくわかると感じることが多い。

最後に。話は変わるが、ある後輩が、自分の大学卒業時に贈ってくれた言葉に

「何か伝えたいときは自分の思っている意図と齟齬がないよう、ちゃんと伝わるように言葉選びを大切にする姿がすごく印象的です!」

というものがあった。

自分がずっと劣等感を抱いていた部分が肯定されたような気持ちになったし、自分に対してそういう言葉を選んでくれたことが何よりうれしかった。

この後輩に対して抱いた感謝の念は、食卓でお醤油を取ってもらったときの「ありがとう」の3000倍くらいはあった。いや、軽率に例を挙げて数字で表すのはよくないな。お醤油取ってもらってもありがとう言わない人だっているし。とにもかくにも、僕にとっては本当にうれしく、ありがたい事だったのです。


この記事を通して僕の言いたい事がどれくらい読んでくれた方に伝わっているかという話には触れません。だって伝えたいのは僕の勝手で、自己満足だから。

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