贈るということ
誰かに何かを贈るとき、その人が好きそうなものを選んだり、その人のためを思って選ぶけれど、そこには抑えているようでいて抑えきれていない自分の主観が多分に入っている。
これ、好きそうだな、使いやすそうだな、というのは、自分が知っているその人の一面でしかないわけで、使いやすいかどうかは自分の価値観や判断基準も少なからずある。同じ人への贈りものが人によって異なるのは、贈る人が切り取る「贈られる人の一面」が異なるからなんだと思う。
贈りものは難しい
「自分の仕事をつくる」という本にこんな事が書いてあった。
贈ることに限らず、自分はよかれと思っての行為が、相手にはよく思われないことはよくある。価値観が人それぞれ違うのだから当然。だから同様に贈りものも難しい。その人が本当によいと思えるもの、欲しているものを、他人である自分が選んで、あるいは作って、贈る。それが相手にとって本当に貰ってうれしいものなのかどうかがわからないから難しいのである。
「贈りたい」は自分の気持ち
BUMP OF CHICKENのアルバム「orbital period」がリリースされたとき、作詞作曲を手がける藤原基央がラジオでこんな事を述べていた。
人は誰しも自分のために動く。自分が心地よい居場所を探すし、自分にとって害のない環境に生きたいと願う。エゴかもしれないそれは、しかし生きているのだから当然だと思う。命の危険に遭遇したとき自分の身を守ろうとするように、そうしないと生き延びてこられなかったから。失ったり、損をしたくないと思う気持ちから損得勘定だってするときがある。どうせなら得たいと思ってしまうのも人間なんじゃないかと思う。エゴ=利己主義とまではいかずとも、自分の利己的な部分を完全に拭い去れる人なんていない。
極端な話だが、例えば命の危険に遭遇したとき、自分の身を挺して誰かを守ろうとすることもあるかもしれないが、「自分がこの人を守りたい」から自分の身よりもその誰かを優先するのである。「その人のため」に守るのではなく(それも多少なりとも含まれているけれど)、「自分の身よりもこの人の方が大事だ、自分が死んだとしてもこの人には生きてほしい」という自分の価値観からそういう行動に繋がるんじゃないか。
随分と話が逸れたが、贈るという行為には、どうしたって「自分」が入ってしまうと思う。前に述べたように、「自分から見た」相手の好きそうなもの、相手にフィットしそうなものを贈るわけで、自分がよかれと思って贈るのである。だから100%相手のための贈りものなんてありえない。自分の存在を消した贈りものは存在しないんじゃないかと思う。そもそも贈り主のいない贈りものは贈りものと呼べるのか怪しい。
「自分のため」だから「相手のため」になれる
「orbital period」に収録されている「ひとりごと」という楽曲には、こんな歌詞がある。
気に入ってもらえるかなあ、とやや不安になるあの気持ちも、喜んでくれる顔を想像してちょっと心がほわっとするあの気持ちも、贈る人にしか味わえない、感じ得ない気持ち。その根底には、「相手が喜ぶ顔を見て、自分が喜びたい」という、「自分のため」だからこそ純粋な気持ちがある。
でもそれは同時に、自分のためだからこそ、純粋に「相手が喜ぶ顔を見たい」すなわち「相手に喜んでほしい」という、贈る相手の事を考えているという事でもあり、「相手のため」にもなっていると言っていいと思うのだ。自分のためだから100%相手のためではなくとも、自分のためであるがゆえにその思いの純度は限りなく100%に近いのかもしれない。
「ひとりごと」の「君のため」は「僕のため」になってしまう、楽曲中の「僕」はそれを「ごめんね」と独り言ちた。
でも同時に「僕のため」だからこそ「君のため」にもなれる、ということを僕は言いたい。
贈るということが100%「君のため」である必要なんてない。他人である以上お互いの気持ちを知ることなんてできないのだから。「君」が、「僕」の「君が喜ぶ顔を見たいのは、僕のため」という気持ちを嬉しく思う可能性だって残されている。それを「僕」がどうやっても知り得ないことは、なんとも切ない。
贈るということ
相手がどう思うかはともかくとして、結局のところ、贈りものは自分が選んだり作ったり、関わったというところに意味があるんじゃないかと思う。自分が(その人が喜ぶことが自分にとって嬉しいことだから)その人に喜んでもらうために時間をかけたこと、それが相手に伝わることが贈りものの一番の本質なんじゃないか。だからこそ「自分の贈りもの」に内包された気持ちが伝わるし、「この人からの贈りもの」がうれしいんだと思う。
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