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ひとの輪のなかで、アートセラピーが「ゆるす」もの  


みなさま、こんにちは。

早いもので、イギリスの大学院でアートセラピーを学び、再び日本で「臨床心理士」として働き始めて5年目を迎えようとしています。帰国してから「公認心理師」という国家資格ができたのでそっちもついでに取得し、大学病院の精神科での仕事にもやっと(遅い)慣れてきたのかなと感じています。それでもまだまだ日々学ぶことに追われていますが…

幸いなことに日本の病院でもアートセラピーの機会をいただくことができ、細々とではありますが、私の主催するアートグループセッションも4年目に突入しました。

毎回、毎回、鮮やかな感動があるのですが、なかなか言葉で表現してこれなかったので、今回はグループでのアートセラピーについて、そこで生じる参加者さんたちの心の変化について、お話したいと思います。

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遡ること数年前。私は、ロンドンのランベス病院というNHSの精神科単科の病院で研修生として働いていました。

そこではアートセラピストとして、グループセッションとプライベートセッションを受け持っていたのですが、これがどちらも、非常に重度のクライエントさんを対象とするものでした。

私が担当したのは慢性期、急性期の統合失調症の患者さんたちでした。
はじめてセッションに参加させてもらった日は(もちろん初日はベテランのスーパーバイザーが主導なのですが)、「私の間違った振る舞いが、患者さんに何か悪い影響を与えてしまったらどうしよう」という強烈な不安で胸がいっぱいでした。画材を用意する指先が震えてしまったほど。

グループセッションを行うデイルームは、急性期の精神科病棟の、厳重なセキュリティでロックされた何重ものドアをくぐった先にありました。ハサミも紐も尖ったものも、徹底的に撤去された無機質な部屋でした。患者さんたちはそれぞれ鍵のかかる個室におり、私とスーパーバイザー(以下SV)はそのドアを一つ一つノックして、彼らをセッションに誘いました。状態の悪い方、希望しない方は無理にお誘いしません。声をかけて希望した患者さんだけ、参加してもらいます。
それでも、毎回6~7割の患者さんが参加されていました。

テーブルに画材をセッティングしておいて、彼らがデイルームに集まったら、セッションが始まります。

病態水準も人それぞれですが、誰1人として気が抜けません。常にひとりひとりの様子を把握し、何か困ったことが起きていないか、患者さん同士で傷つけあうようなことがないか、セッション中はずっとアンテナを張っていなければなりません。

私はあまりの緊張と責任感でカチコチになっていたのですが、SVはまるで大きなクマのぬいぐるみみたいに穏やかで、リラックスしていました。「Aya、そんなに怖い顔しないで。みんなも緊張しちゃうわ」と笑われたことを覚えています。

セッションはいつもとても穏やかな時間でした。静かな水面を船が滑るように時が過ぎていきます。
稀に興奮状態になってしまう患者さんもいましたが、私たちは一度も「緊急コール(※万一何かあった時の為にナースステーションに助けを求めるボタン)」を押すことはありませんでした。

そのテーブルの上では、言葉を一言も話せないような患者さんも、Tシャツが涎で濡れてしまっている患者さんも、みんな一心に絵を描いていました。

アートセラピーのセッションにはいろんなやり方がありますが、そこでのSVは、誰にも何も強いることがありませんでした。
そこでは誰もが、自分の好きな素材を選び、好きな道具を使って、好きなように好きなものを作っていました。決められたテーマもなければノルマもなく、評価されることもなく、ジャッジされることもありませんでした。もし途中でやめたくなったら止め、戻りたくなったら自室に戻ってもらいました。ただ時間と場所という枠組みがあり、「安全に行う」、「誰のことも否定しない」「どんな表現も肯定する」というルールがあっただけです。

私たちの一番の仕事は、彼らが望むように表現することのできる“場所”を守ることだったように思います。
もちろん、イギリスのアートセラピーにはサイコダイナミックな理解がベースにあり、すべての行為は心理学的な治療理論に基づいて行われているわけですが、表面から見たら、私たちのしていることは、「彼らが安心して自己表現できる場を作ること」でした。たったそれだけ。でも、それだけで十分だったように思います。

ある人はグループの全員に本当に誇らしげに作品を見せ、それを肯定的に受け止めてもらうことでとても幸せそうにしていました。ある人は恐怖や悲しみを画用紙に叩きつけるようにして描き、それをSVにだけこっそりと見せて涙を流していました。ある人は私の手を使って指示しながら絵を描かせ、それがどんなに重要なテーマであるかを説明しました。

国民性やSVの技量のせいもあると思うのですが、そこでは表現することをためらう人はほとんどいませんでした。

私とSVは、彼らの作品がどんなものであっても、まるごと、肯定的に、真摯に、かつ正直に受け止めました。時には驚いたり、感動したり、苦しさを共有したりしながら。

そこでは誰も否定されることなく、批判されることがありませんでした。比べられることもなければ、ジャッジされることもありませんでした。患者さんたちはそれを理解していたのでしょうか。彼らは自分がありのままに感じていることを、自分のやり方で自由に表現し、書き殴り、時には破り捨てながら、ありのままに表現していました。

私は、彼らがこれまで社会の中で、「ありのまま」の自分を表現することができなかったことを思いました。

あまりにも人と違いすぎて疎外されてきた自分、聞こえないはずの声に返事をしてしまう、見えないはずのものに怯えてしまう自分、周囲から見たら異質であった自分、真実だと信じることを訴えているのに、ただただ白い目で見られる自分。「治さなければならない」自分。

でも今、彼らは、「ありのまま」でいることを許されている。自身の感じること、大切に思うこと、強く残るイメージ、繰り返す思考を表現することを許されている。それに温かな関心を寄せてくれる人がいる。肯定的に受け入れてくれる人がいる。 
だからこそこんなふうに一生懸命、表現しているんだと思ったのです。

イギリスのアートセラピーはウィニコットの「holding」や「enough good mother」の概念を大切にしているのですが、そのSVはまさにそれを体現しているような人でした。

それぞれの患者さんの状態に合わせて絶妙な調整をしつつ、過度な関心を向けすぎず、でも常にどこかで見守っており、過度な期待や押し付けをせず、ありのままのその人が、のびのびとした感性を思い切り生かせるようサポートする。そんな人でした。

(彼女は今でも私の師匠です)

統合失調症の本質は「自我の障害」とも言われます。自分とそうでないものの境界線を失い、自分というものがこぼれ落ちていく。誰かのものが侵入してくる。自分がバラバラになっていく。現実と非現実の境目が不明瞭になり、時間と空間の見当識が"不確か"になっていく。そうしてやがて、社会から隔絶していってしまう。

私たちのアートセラピーは彼らに、"現実に存在する"紙の中に、"現実に存在する"絵の具を使ってありのままの自分を表現する機会を提供することを目的としていました。

画用紙、安全な部屋、セラピストの見守り、決まった時間といった現実の強固で安全な"枠"が提供でき、彼らが「守られている」かつ「受け入れられている」という感覚をもてる時、

彼らはバラバラになっていた自分の破片を拾い上げ、それらをもう一度自分のものとして統合しようと試みることができるようになる。

彼らのつくった作品は紛れもなくこの現実の世界に存在しており、その"現実的な確かさ"が、彼らをもう一度「いま、ここ」に結びつけることができる。

そして現実の作品を通して、現実の他者と「いま、ここ」で繋がることができる。

私たちはそのような手応えを感じながら、アートセラピーセッションを行っていました。

なんだか逆説的にも聞こえますが、
非現実や無意識を安心して扱うには、
安全な現実が安定してそこにあることが必要なんだ、と思うのです。



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先ほどちらりと「国民性」という言葉を使ったのですが、やはり欧米諸国の人たちは、日本人と比べて個が確立されていて、自己表現が得意な印象です。

日本で同じようなセッションをしようとすると「何をしていいかわからない」「あまりに自由すぎて逆に恐怖を感じる」「せめてきっかけが欲しい」という人が多いです。セッションを重ねていくうちに、徐々に自発性が伸びていくことがほとんどですが、初回はやはりハードルが高いと感じています。

なので日本でのグループアートセラピーでは、参加者さんの状態を見て、ある程度テーマや枠を設定(この匙加減が重要なのですが)し、その中で自由に表現してもらうという方法を取ることが多いです。それでも十分、目的は果たされている、と感じます。

自分の感じたこと、表現を、絶対に受け止めてもらえる、という安心感の中で、のびのびとありのままの自分を表現すること。そのために、時にはセラピストの力を借りたり、不安を解消してもらったりしながら。そういった「ありのままを受けとめてもらえる」体験を繰り返し経験していくと、今度はその参加者さんが、他の参加者さんの作品を「ありのままに、肯定的に受けとめる」ということができるようになってきます。

そうすると参加者さんは、セラピストークライエントという2者関係を超えて、グループという輪の中でみんなで受け入れあう、肯定する、という体験ができるようになっていく。

そして、そのような「輪の中に受けいれてもらう」体験、「自分と違う感性を持つ他人をうけ入れる」体験を重ねていくことで、その人は少しずつ社会に生きる力を取り戻していくように思います。

それが1対1のセッションとは違う、グループの可能性でしょうか。
そんなわけで、私はアートグループセッションにも大きな価値と可能性を感じています。

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病院でのセッションには医学生さんや研修生さんが混じることもあるのですが、アートの中では上下関係や区別意識が意味を持たなくなり、境界線が見えなくなるのが分かります。

「治す人」「治される人」から、みんな「表現する人/受け入れる人」になるのですよね。
そんな輪の中で、のびのびいきいきと筆を走らせる参加者さんたちの表情を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになります。


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今回は【ひとの輪のなかで、アートセラピーが「ゆるす」もの】、というタイトルを付けましたが、

ひとの輪のなかでアートセラピーが「ゆるす」もの。それは、

安全な枠の中で、上下関係や区別・差別意識から解放されて、ありのままの自分を自由に表現できること。
非現実の世界から「いま、ここ」へ戻り、確かに存在する者として、その表現や自分の感性が他者に肯定的に受けとめてもらえること。
そして、自分も、他者のありのままの表現や感性を受けとめられるようになること。

なのではないか、というお話でした。


今回も長くなってしまいましたが、最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。

また、次のnoteで、お会いしましょう。

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