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なぜ「頭髪指導は違法ではない」?日本の学校校則の負の側面をメンタルヘルスの視点から考えてみた。

先日、このような記事を見つけました。
「頭髪指導は違法ではない」判決が確定 最高裁が上告退ける

記事の内容は、髪色が明るい生徒が学校から黒く染めるように強要され不登校になったとして裁判を起こしたものの、裁判官が「頭髪指導は違法ではない」との決定を下した旨が説明されていました。

わたしはこのニュース、この判決に大きな衝撃を受けている自分に気付きました。

教育の場を髪の色を理由に奪われ、不登校になる程追い詰められ、そんな中、意を決して裁判を起こしたであろうこの生徒に対して、こんな判決を下す社会って…。

このニュース以外にも、下着の色を指定したり、ポニーテールは禁止など、そもそも、なぜこんなにも生徒の容姿を細かく規定する必要があるのだろうか、と思うような校則の類のニュースをよく見かけます。

これを良かれと思っている大人に対して、わたしは大きな憤りを感じています。なぜなら、上記に挙げた例は全て、校則が子供達に自分の身体を客体化する視点を強く植え付ける存在になっているからです。

そこで、この記事では、それらの校則が生徒に与えるメンタルヘルスの影響について、米国心理療法士の視点から、これらの校則が存在することの危険性を説明してみたいと思います。

身体の客体化が与えるメンタルヘルスの影響とは?

そもそも、客体化とは、まるで店頭に並べられた商品のように人の身体を眺めること。それは、例えば、「あの人少しお腹が出てるね…」とか「〇〇ちゃんは足が長くてモデルみたいだね…」といった見方をすることが当てはまります。

そして、そのような他人からの視点を意識した自分の身体のイメージを自己客体化といいます。「わたしは、〇〇ちゃんのように細くないな…」とか「あの人に比べて可愛くない自分」など。他人と自分を比較した上で、自分の身体を評価するボディイメージを作り出す原因となるこの自己客体化は、ボディシェイムや摂食障害の誘因要素となっています。

ネガティブな自己客体化は、客体化の価値観を植え付けられることによって始まっていきます。そして、ネガティブな自己客体化は、自己尊重の低下にもつながっていきます。

外見を常に監視されることのストレスについて

外国人との間に生まれたミックスドレースの人たちの声をまとめた『ハーフってなんだろう』という本の中には、他人とは容姿が違うことを指摘されることを理由に、自分の身体のイメージに対して大きな葛藤を経験した人たちの体験談が紹介されています。

その中で紹介されているエピソードの中には、教育現場で起きたことや学校校則のこともありました。

髪の色や髪質が、典型的な日本人の黒髪ストレートではないことから、注意勧告を受けたり、髪質にあった髪型が自由に出来ないなど、容姿を理由に苦しんでいる子が登場します。

ただ、人種からくる遺伝を理由に体質が違うだけなのに、なぜそんなにも他の子と一緒を強要されるのか。(言わずもがなこれらは人権問題ですが)まるで、それは、自分の身体に何か問題があるのだろうか、何か変えなくちゃいけないことがあるのだろうかという印象に、子供たちの心には、映るのです。

これがもし、典型的な黒髪ストレートの日本の子が金髪パーマの子たちしかいないどこかの国の学校に通っていて、その学校で、髪型が金髪パーマでないことをしょっちゅう指摘され、金髪に直してこい、パーマを掛けろ、もしくはストレートの毛質には難しい髪型が出来ないことを注意され続けたと考えたら、どう思うでしょう?

わたしだったら、だんたんとその環境にいるうちに、自分の髪質に何か問題があるのではないか…とか、自分がこんな髪質だからいけないのか…みんなと違う自分が嫌だな…と自身の身体のことを責め始めるように思います。

これが仮に、自分だけ特例で違う格好が許されたとしても、それが特別視を助長してしまう要因にもなるでしょう。「みんなと違う」「自分だけ」、この感覚を個人のボディイメージに与えてしまう環境自体が問題なのです。

これが、客体化の負の影響の例です。他人と違う感覚、自分の姿が過剰にみられてるような視点。一度身についたこの視点は、その後もその子の人生にしつこくまとわりついてきます。ボディシェイムは、このような小さな時のネガティブな体験の積み重ねから始まっている、とても根の深い問題なのです。

たった少し、髪型・容姿について逐一指摘したことが、その生徒がその後の人生を歩むのに大きすぎるネガティブな影響を与えるかもしれないことを教育者はどこまで考えているのだろうか。厳しすぎる(細かすぎる)校則を良しとしている学校に対して、わたしはそれがどこまで考えられているのか、とても気になっています。

厳しすぎる校則は、有害なジェンダー観助長にもなる時代錯誤な考え方

アメリカで校則を調査した研究によると、女子の服装に関する校則は、男子のそれよりも圧倒的に多いことが指摘されています。そしてそれらの校則は「男子生徒を性的に誘発するから」と男子目線を理由に設けられたものがとても多かったそうです。

日本の学校校則で、下着の色を指定することや、ポニーテールが性的意欲を助長するため禁止、が設けられてることも、全く同じ心理でしょう。

それの何が問題なのか。

これらは、女性の身体を持った子たちに、「自分の身体は性的にみられる対象なんだよ」というメッセージを与えているに等しいです。それがどれだけ気持ち悪いことか…!!そして、そういう意識を与え続けることによって、生徒たちは自身の身体を嫌でも意識せざるを得ないようになり、周囲と自分を比較したり、他人から見られた自分の姿を過剰に意識していくようになります。また、スカートよりも、ズボンの方が自由に動けるなど、機能面においても大きな違いがジェンダー差を隔たりに発生してしまいます。それにより、本来であれば出来ることを諦めるなど、自分の行動を制限し始める子も少なくはありません。

アメリカでは現在、このようなジェンダーを元にした校則によるメンタルヘルスの問題を重視して、ジェンダーフリー(性別で変化をつけない)服装校則を推進する学校が増えているようです。

女子でも、ズボンを履きたければ履いていい。男子も、スカート履きたければ履けばいい。自分の過ごしやすい格好を優先に、みんなが皆、自身の身体の特徴を極端に意識せずに過ごせる環境を求めることは、そんなに悪いことでしょうか?

多様性はどこに?ダブルバインドを見直して欲しい

「ありのままの自分らしさ」「個性を育む」など多様性を謳っておきながら、多様になるきっかけを自ら摘む教育。これをダブルバインドと言わず、なんというのでしょう。

ダブルバインドとは、「自分らしさを表現しなさい」と言っておきながら「でも周囲と違うことはするな」のように、言ってることと推奨してることが矛盾しているがために、言われた方は結局身動きが取れなくなってしまう精神的状況を指します。この状況に置かれると、人はとても大きなストレスと、何をしたって無理ゲー的な無力感を抱えてしまうことが理解されています。

多様性を受け入れる、とはどういうことなのか。
それがはっきりわかってないまま、言葉だけ都合よく取り入れてるんじゃないか。

そもそも、発達心理学の認識では、子供の身体から徐々に大人へと近づく変換期である思春期は、自分個人のアイデンティティを形成する期間、『個性』を模索する時期であるとされています。まだ、親や周囲の大人たちが見守ってあげられる時期だからこそ、失敗しても戻れる安全な枠組みの中で、やっていいこと、挑戦しない方がいいこと、など探求をさせてあげる必要がある時期なのではないかと思います。

その時期に、「校則ですから」「規則ですから」と一方的に子供たちを型に押し込め、融通を効かせず、型に馴染めない子を積極的に罰していくような教育現場は、まるで軍隊のよう。このような環境の中で育った人たちの中には、大人になってから「自分らしさ」を探すことに苦しむ人は少なくありませんし、わたし自身がそうでしたが、個性が強い子、自分が何を欲しているかを理解している自我や『個』が強い子ほど、このような体制の学校には馴染めないです。

客体性の影響力や、思春期期の発達心理、多様性の理解に対して非常に無知なことが、このような校則を良しとしている社会の雰囲気から感じてしまうのはわたしだけでしょうか?

厳しすぎる校則は誰のためのもの?

多様性は、誰もが住みやすい理想的な環境を…というユートピアを作ろうというような理想論ではなく、公平性を人々に与えるものです。

それは、例えば、車椅子の利用者が不自由なく学校に通えるためのスロープを設けることであったり、目の見えない人のために点字ブロックを設置したりするような感覚のこと。

それは、校則にも言えて、一人一人体質や考え方が違うからこそ、それぞれがそこに不利を感じずに済むような配慮を施した校則を実施してこそ、多様性が実現します。

そう考えていくと、なぜその校則がわざわざ必要なのか、現代の生徒のデモグラフィックや価値観を基準に柔軟に対応していくことが一番求められているのでは?個人的には、髪色を黒色にこだわるのではなく、髪型にも男女で差をつけた規則は無くして、本人が学業に専念できるような過ごしやすい髪型を推奨すればいいだけなのではないかと思うのですが…。

こう考えていくと、誰か一部の生徒に不利を押し付けてまで同一化を目指すのには、教師側の都合が見え隠れするように思います。

多様性を尊重すると、絶対に、違いを理由としたコンフリクト(紛争)の対処が必要になったり、どこまでが推奨するべき範囲・禁止するべき範囲なのかの線引きが難しくなったり、指導者の指揮力が大きく試されることになります。

それはつまり、多様性を実現するには、違う価値観、違う体質の者同士が相互理解を促すためのコミュニケーションを図っていく手間が必要になってくるのです。誰にとっても納得できるような中間地点・妥協点を新たに相談して見つけていくよりも、一挙一律同一化して、対応できない人をただ単に排除する方が、それを取りまとめる人的に、圧倒的に楽なんですよね。

わたしは、多様性の実現にどのような労力が伴うのか、そこへの認識のズレが、理想と現実の差が埋まらない大きな原因になっているのではないかと感じています。

さいごに

冒頭で挙げた「頭髪指導が違法ではない」の判決を起点に、厳しすぎる学校校則について思うことを述べてみました。

記事で説明するように、厳しい校則は、教師には楽かもしれませんが、子供のメンタルヘルスにとっては、正直ネガティブな側面の方が強く、正直なところ誰得感が拭えません。

そして、客体化がもたらす影響力というのを世間に理解してほしい、正しいメンタルヘルスの知識をもっともっと、世間に向けて広げていきたいと改めて感じています。

皆さんは、学校校則をめぐる話に何を感じたでしょうか?

参考:

https://amzn.to/3mXq2oC

Kite, L. & Kite, L. (2021). More Than a Body: Your body is an instrument, not an ornament. Audiobook: HMH Audio.


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