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ゴッホの風景画に見える「景色」以外のもの

今年も東京でゴッホ展が開かれています。

毎年のようにゴッホを冠した展覧会が開かれてる気がしますが、それだけ人気だということでしょう。

ゴッホは生涯で約2,000点の作品を残したと言われています。
手がけたジャンルは肖像画、静物画、自然画など様々ですが、今日ピックアップしたいのは風景画です。

風景画とは文字どおり風景を描いた絵のこと。ただし、それが現実の景観をそのまま写しているとはかぎりません。

それでは一体、ゴッホは風景画に何を写したのでしょうか。
彼の人生と作品を追ってみましょう。

貧しい人々への関心と共感@オランダ(ゴッホ27歳~)

ゴッホは27歳のときから画家として活動を始めます。
もともと牧師を目指していたゴッホ。画家になる前、貧困地域で伝道師活動をしたことがあり、労働者たちの生活苦を間近で見ていました。

いろいろあって牧師にはなれませんでしたが、画家になってからも貧しい人々を気にかける心は変わりませんでした。

この頃の作品

『泥炭湿原で働く女たち』(1883)
『ジャガイモを植える農民たち』(1884)


上にあるのはゴッホが画家になった当初の作品たちです。ご覧のとおり暗くてどんよりしたものばかりですね。
画面に登場するのは名もなき農民たち。ゴッホは、貧しい労働者の姿をキャンバスに残すことで、彼らの魂を救済したいと考えていました。
労働者たちへの共感と敬意を示すのに、華やかさな表現はふさわしくなかったのでしょう。
貧困という社会問題に、ゴッホなりに真摯に向き合っていたのです。

未知の世界への驚き@パリ(33歳~)

ゴッホは33歳のとき、突然パリにやってきます。
当時のパリ美術界で売れていたのはカラフルで明るい印象派の作品たち。先ほどの陰気な絵とは正反対の表現でした。

ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』
ゴッホがパリに来た当時に話題になっていた作品


また、当時のパリでは日本趣味が大ブーム。
浮世絵や掛け軸などの日本画から、団扇や扇といった生活雑貨まで、あらゆる日本グッズがもてはやされていました。

『梅の開花(広重を模して)』(1887)
ゴッホが歌川広重の作品(『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』)を油彩で模写したもの


オランダでひとり黙々と絵を描いていたゴッホは、印象派の描く光や浮世絵の激しい色づかいに大きな衝撃を受けます。それはゴッホにとって見たことのない世界でした。

この頃の作品

『グランド・ジェット橋』(1887)
『セーヌ川の川岸』(1887)


ゴッホはパリで印象派や浮世絵に触れ、自分の作品が時代遅れであることを痛感します。
オランダ時代の作風を捨て、鮮やかな色を取り入れていきました。
この頃の作品からは、ゴッホが新しい芸術の流れに乗ろうと奮闘する様子が伝わってきます。

気持ちも作品も明るく@アルル(34歳~)

パリで浮世絵に夢中になったゴッホは、日本への憧れを強めていきます。
彼のイメージでは、日本=「明るい太陽と鮮やかな色彩に満ちた夢の国」。そんな理想の場所を求め、パリから南仏アルルに移住することにしました。

アルルは美しい自然に溢れており、ゴッホにとってまさに「日本」のような土地でした。
アルルを気に入ったゴッホは、知人の画家たちに、この土地で共同生活を送ろうと声を掛けます。
この誘いに応じたのは画家のポール・ゴーギャンただ1人。そんなゴーギャンを、ゴッホは熱烈に歓迎しました。

この頃の作品

『種まく人』(1888)
『アルルの跳ね橋(ラングラワ橋)』(1888)
『夜のカフェテラス』(1888)
この有名な作品が描かれたのもアルルの地です。


ゴッホの気持ちの高まりに呼応するかのように、作品はますます鮮やかに明るくなっていきます。描かれているのはまさに理想の地。作品からゴッホの興奮と喜びが画面から溢れてくるようです。

ついえた理想の果てに@サン=レミ(37歳~)

アルルで共同生活を始めたゴッホとゴーギャン。しかし両者とも頑固で気難しく、自分を曲げないタイプ。ゴーギャン曰く、2人の意見が一致することはほとんどなかったそうです。
そんな彼らがいつまでも仲良く暮らせるはずがありません。ゴッホはゴーギャンとの関係に悩み、酒に溺れて精神を病んでいきました。

共同生活を初めてから約2ヶ月後、事件が起きます。ゴッホが精神的な発作を起こし、自分の左耳を切り落としたのです。
ゴッホは近隣住民から異常者扱いされアルルを追い出されます。
そして行き着いたのは、理想の地アルルから約20㎞離れた、サン=レミの精神病院でした。

この頃の作品

『星月夜』(1889年)
『糸杉のある麦畑』(1889)
『夜のプロヴァンスの散歩道』(1890)


画面には、これまでになかったうねりや渦巻などが現れます。筆遣いも一段と激しくなりました。
相変わらず色は鮮やかですが、アルル時代のような軽やかさは感じられません。
幻想と現実が入り混じったような光景は、ゴッホの頭の中の混乱を表しているかのようです。

そして、この時期の作品にやたらと登場するのが「糸杉」です。糸杉は伝統的に「死」のイメージ。なんだか不吉なムードです。

絶望と終焉@オーヴェル=シュル=オワーズ(37歳~)

ゴッホの病態はなかなか回復せず、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地療養となります。

この時点で、絵描きを生業としてから約10年が経っていました。しかし、作品はほとんど売れておらず、生活はいつも弟の仕送りに頼り切り。弟は約半月分の給料をゴッホに送ることもありました。

そんな状況の中、弟に子どもが生まれます。ゴッホは、自分が弟に大きな負担を掛けていることを痛感し、強い罪悪感を抱きました。

治療の甲斐もなく、ゴッホは日増しに精神の錯乱を募らせていきます。
そして37歳のとき、ピストルで自らを撃ち、この地で亡くなりました。

この頃の作品

『オーヴェルの教会』(1890)
うねる小路と暗い空に挟まれて、教会は今にも押しつぶされそうです。
『木の根と幹』(1890)
『カラスのいる麦畑』(1890)


実はオーヴェルは穏やかな田舎で、多くの画家がアトリエを構えた場所です。ゴッホ自身も「厳かなほど美しい」と形容しています。
そんな魅力的な土地で描かれたにもかかわらず、作品は重苦しく不穏なものばかりです。
ゴッホはもはや、アルル時代のような明るい絵を描くことはできませんでした。

それでもゴッホは、1日1枚という凄まじいペースで作品を作り続けます。
中でも人のいない場所を好み、無人の麦畑の絵を繰り返し描きました。ゴッホ曰く「荒天の中、見渡す限り広がる麦畑で、悲しみやこの上ない孤独を表現しようとした」のです。

風景画に写るのは

風景画は観光用のポストカードとは違います。
そこに写るのは、あくまで画家の目から見た風景、言い換えれば画家自身の心です。

ゴッホの作品を見るときに、彼がどんな気持ちでこの絵を描いたか、思いを馳せてみてください。今までとは違う景色が見えてくるかもしれません。

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