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フィンセント・ファン・ゴッホ 2

画家になる

画家になる、と決心をしたフィンセントはひとまずブリュッセルの美術大学に入学して、絵の描き方を学ぼうとしますが、なぜか一年ほどしてすぐに実家へ帰ってしまいます。しかし実家に帰ったら帰ったで、今度は父親と大喧嘩をしてしまい、仕方なくハーグへ引っ越します。

その当時、ハーグには15歳年上の従兄、アントン・モーブが住んでいました。アントンはハーグではすでに有名な画家でした。アントンはフィンセントを心から歓迎し、画家として、水彩画や油絵の描き方、またアトリエを借りるお金などを世話してあげました。フィンセントもアントンを心から尊敬し、とても多くのことを彼から学びました。しかしやはり半年ほど経ったころ、大喧嘩をしてしまいます。フィンセントはアントンに和解を申し入れますが、アントンはもうフィンセントの作品を見ようともしません。最後にフィンセントはアントンに罵声を浴びせ、それっきり二人はお互いの顔を見ることもありませんでした。しかしフィンセントはたしかにアントンを尊敬していました。後にアントンが急死してしまった際には、フィンセントはアントンを想って、一枚の絵を描いています。それは花咲く桃の木の絵でした。絵の左下には、大きく「モーブへの贈り物」と書いてあります。

Pink peach trees ('Souvenir de Mauve')1888

ハーグを出た後に、今度はアントワープの美術大学に入学し、基礎的なデッサンや遠近法などを学びます。しかしやはりここでも先生と大喧嘩になり、3か月もしないうちに辞めてしまいました。ところでフィンセントはアントワープに滞在している間に、北斎などの日本の版画に出会い、大変な感銘を受けます。彼は熱心に木版画を集め始め、自分の部屋の壁に飾っていました。しかし一方フィンセントのアントワープでの生活は破滅的でした。テオからの仕送りは画材や木版画に使ってしまい、自身は非常に貧しい生活をして過ごします。ろくに食べ物も食べず、売春宿に通い、病気にかかり、さらに飲酒と喫煙が過ぎて、彼の歯の多くは、腐り、折れてしまいました。このアントワープで、フィンセントはその後幾度となく描くことになる自分の姿を初めて描いています。その初めての自画像は真っ暗な背景の中で煙草をくわえた骸骨の絵でした。

Head of a Skeleton with a Burning Cigarette 1886


芸術の都パリへ

33歳のフィンセントは当時、国際的なアートシーンの中心であったパリに住むテオの家に転がり込みます。パリへ来てから、フィンセントの絵は大きく変化しました。それまで暗かった色彩は一気に明るくなります。当時のパリでは印象派の画家たち、またそれに続く新しい画家たちが次々と現れていました。彼らはアトリエやカフェに集まっては、新しい芸術はどうあるべきかを議論していました。フィンセントもその中に加わって、多くの芸術家たちとの交流が始まります。

このころのフィンセントをよく知る画家仲間のひとりは、彼のことをこんな風に描写しています。「赤い髪の毛、ヤギのようなあごひげ、ワシのようなするどい表情、噛みしめるような口、がっしりとしているが過不足なく、活発な身振りとぎこちない足取りの男、それがフィンセントだ。奴は常にパイプをくわえ、絵を描くためのキャンバスとボール紙を持ち歩いていた。口調は激しく、細かいところまでよく考え、たくさんのアイデアを持ち、夢に満ち溢れてた。」

弟テオの仕事

一方、テオはそのころグーピル商会のパリ支店を任されていました。画廊の一階では売れ筋の古典主義絵画を売っていましたが、二階には彼のお気に入りの画家たち、つまり先鋭的で革新的な印象派の画家たちの作品を展示していました。テオは絵画についてとてもプロフェッショナルでした。絵を正しく評価する目を持ち、また膨大な知識を持っていました。テオは兄によく似て、決して器用なタイプの人間ではありませんでしたが、それでも絵画に関して、時代の最先端をよく理解していました。二人の兄弟は常に交流し、補い合い、修正し合い、互いに成長し、刺激し合っていました。

なによりテオは優秀な画商でした。彼はモネをはじめ、ドガ、ルノワール、シスレー、カミーユ、ピサロなどの新しい画家たちの絵をたくさん売りました。また実際にそうした画家たちとも文通を通して交流していました。フィンセントは、常に新しい芸術家たちと接触し、素晴らしい画家を見つけてはテオに紹介し、それによってテオはいちはやく前衛芸術の現場と直接的につながることができました。テオにとってフィンセントは、現代の新しい画家をいち早く知ることのできる知識豊富な情報提供者だったともいえます。

フィンセントはパリで多くの芸術家と議論を重ねるうちに、多くのアイデアや計画を持ち始めます。それらは例えば、大規模な展覧会、テオとの共同美術商会の設立、お互いに助け合う芸術家のための協同組合の設立、また南仏での芸術家たちの共同生活などでした。そうした夢のうちの一つである「南のアトリエ」は、単なる芸術家たちによる共同生活以上のものでした。それは、芸術家たちが共に働いて、平等に販売し、成功や売り上げを平等に分かち合い、必要なぶんに応じて生活をする社会的な芸術家共同体プロジェクトでした。

芸術家たちの共同体を夢見る

1888年35歳のフィンセントは、マルセイユへ向かう途中で立ち寄った港町アルルを大変に気に入り、「まるで日本の木版画で見る風景のようだ」と手紙に書いています。ここアルルで、フィンセントの夢の一つである「南のアトリエ」は形作られました。フィンセントはテオと相談し、様々な画家たちに声をかけ、アルルでの共同生活を夢見ます。しかしほとんどの画家たちから良い返事が得られない中で、ポール・ゴーギャンだけがアルルでの「南のアトリエ」計画に参加することを決めました。テオがゴーギャンの旅費と毎月の送金を約束したからです。フィンセントは、ゴーギャンの到着が楽しみでしかたなくって、ゴーギャンを驚かせるために、部屋中をヒマワリの絵で埋めつくそうと考えます。そして短い期間にたくさんのヒマワリの絵を描きました。そしてちなみにゴーギャンがアルルへ到着したとき、ゴッホは疲労のため寝込んでしまっていました。

Sunflowers 1889

約2か月の間、「黄色い家」と呼ばれる共同住居で、フィンセントとポール・ゴーギャンは同じモチーフを並んで描き、お互いに自画像を描き合っては芸術について論じ合い、芸術家としてとても充実した時を過ごしました。二人は「新しい芸術の未来は南国にある」と語り、すでに南国に滞在し独自の画業を展開していたゴーギャンに、フィンセントは自分も南国へ着いていく覚悟を決めていました。

失ってしまうことへの不安と葛藤

しかし徐々に気難しい二人の意見は食い違い、ぶつかり合い始めます。ゴーギャンは自己中心的で計算高く、自分の絵に絶対の自信がある画家でした。フィンセントはゴーギャンをとても尊敬していましたが、だからこそ同時に葛藤し、彼と激しくぶつかります。

またこの時期に弟のテオが、将来の妻ヨーを家族に紹介するためにオランダ旅行を計画したことで、フィンセントの絶望感はますます強まります。フィンセントは、テオが自分から離れたがっているのではないかと考え、危機感を抱き、別れを恐れて、精神的に不安定になっていきます。

1988年12月23日、ゴーギャンとの激しい言い争いのあと、ゴッホは自分の左耳のほとんどを自分で切り落としてしまいます。翌朝、彼は失血で衰弱し、意識を失っているところを警察に発見されました。ゴーギャンはテオに電報を打ち、テオは12月24日の夜の列車でアルルに駆け付けます。病院のフィンセントを見舞い、命に別状がないことを確認したあと、25日のクリスマスの夜、ゴーギャンとともに病院で横たわるゴッホを置いてパリへ去ります。これ以降フィンセントとポール・ゴーギャンは二度と顔を合わせることはありませんでした。


つづく


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