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孤高の画家:アーネスト・ローソン

アーネスト・ローソン(Ernest Lawson,1873-1939/カナダ系アメリカ人の画家)
アーネスト・ローソンの作品は、印象主義とリアリズムの間の位置付けだ。
その特徴は、自然な光線の色彩表現と風景シーンにもある。
National Academy of Design、そして、The Eightのメンバーだ。

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(cc) Ernest Lawson

略歴- Ernest Lawson
1873年、ハリファックス(Halifax/カナダ-ノバスコシア州)に生まれる。
1888年、カンザスシティ(Kansas City/アメリカ合衆国ミズーリ州)に移住。
1891年、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(The Art Students League of New York)で学ぶ。
1893年、パリに渡り、*アカデミー・ジュリアンで学ぶ。

(註)*アカデミー・ジュリアン:Académie Julianは、官立のエコール・デ・ボザールに比べて開かれた教育だ。そして、女子学生や美術留学も積極的に受け入れた。

モレ=シュル=ロワン(Seine-et-Marne)に滞在して、アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley,1839-1899/フランス生まれのイギリスの画家-典型的な印象主義)の指導を受けて風景画を描いた。
そして、1894年、*サロン・ド・パリ(Salon de Paris)に出展した。
(註)*サロン・ド・パリ:Salon de Paris/フランスの公式美術展覧会、この1894年の時点は、フランス芸術家協会のサロンに引き継がれている。

パリでは、1915年のサマセット・モーム(William Somerset Maugham,1874-1965)の小説、「人間の絆」(Of Human Bondage)の主人公のフィリップ・ケアリと同居する画学生、フレデリック・ローソンのモデルとされる。

1896年、アメリカに戻り、アメリカの各地で風景画を描いている。
ここで、分類する訳ではないが、写実主義と印象主義の間の画風であり、ブリッジが、頻繁に描かれている。その橋は、モレ=シュル=ロワンの時代からの流れかも知れない。
1807年、ペンシルベニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of Fine Arts/フィラデルフィア)で個展。
1908年、ウィリアム・グラッケンズ(William James Glackens,1870-1938/アシュカン派)に誘われ、グループ展「The Eight」に出展する。

ただ、アーネスト・ローソンの画風やモチーフは、「アシュカン派」とは異なる。
そして、1913年のアメリカで初の国際美術展、アーモリー・・ショー(Armory Show/国際現代美術展-賛否両論)にも出展した。
この1910-1920年代は、コレクターの人気も高い、しかし、晩年は、フロリダで、パトロンの世話になり生活をしていた。これだけの画家なのにだ。
1839年、そのマイアミで没、66歳だった。

そのアーネスト・ローソンは、柔らかい筆致で優雅に描いた、そして、劇的なアクションせず、自己宣伝をしない紳士だった。
ただ、アーネスト・ローソンは、そこから見えない、当時のアメリカの表象のあり方を突き詰める人物であったのだろう

The Eightでは、グループの8番目のメンバーと言われるモーリス・プレンダーガストとの共通点は大きい。
その評価は、20th初頭のアメリカのアート世界に与えた影響は大きい。アメリカのアートが、大きなパラダイムシフトの狭間の生涯だったのだろう、そして、現在、その評価も得ている。

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(cc)Ernest Lawson

(註)The Eight-メンバーは、5人のアシュカンの写実主義のロバート・ヘンライ(1865–1929)、ジョン・スローン(1871–1951)、ウィリアム・グラケンズ(1870–1938)、ジョージ・ラクス(1867–1933)、エヴァレット・シン(1876–1953)。
また、アーサー・ボーウェン・デービス(1862-1928)、アーネスト・ローソン(1873–1939)、モーリス・プレンダーガスト(1859–1924)の3人は、別枠かも知れない、それは、現実性から離れた画風で描いている・・・


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