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画家 堀文子-旅人と自然

堀文子(ほり ふみこ、1918- 2019)日本画家
グローバルに自然界に存在する命や花鳥をモチーフに、多くの日本画を制作した、それは、晩年に至り、ミクロの世界までに至る。
また、イラスト、エディトリアルデザイン(書籍-装丁デザイン)や、エッセイでも著名だ。

略歴
1918年、東京都千代田区麹町で生まれる。永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府立第五高等女学校、そして、女子美術専門学校 師範科日本画部(現・女子美術大学)で学んだ。この時代から、新たな傾向の日本画を探っていた。
1940年、女子美術専門学校(旧制専門学校)を卒業し新美術人協会会員となる。この時期は、絵本等のイラストやエディトリアルデザイン(editorial design)等の活動をしていた。
その時期から、堀文子は、多様な方法論を探っていた、シュルレアリスム、アンフォルメル(仏-Art informel:抽象画の1つの動向)の方向性の流れもあった。
1952年、上村松園賞。
1961-1963年、欧米やメキシコ等のグローバルな旅に出る。そこで、今までの堀文子の絵画の傾向から、女子美で学んだ、いわゆる日本画の持つ色彩や顔料の持つ美しさに改めて回帰した。このグローバル性は、死別した夫(外交官)の影響もあるだろう。
1974年、多摩美術大学日本画科教授就任。また、同年には、創画会の結成にも参加している。
1987年、アレッツォ(イタリア、トスカーナ州)にアトリエを構えた。堀文子は、自然に寄り添う方向で、大磯や軽井沢にアトリエを置いている。
1992年、アレッツオで堀文子個展を開催。
1995年、アマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ。
1999年、多摩美大客員教授を退職し、そして、創画会も退会した。
2000年、82歳の時に高山植物ブルーポピーのを求め、ヒマラヤ山脈へスケッチ。(なぜヒマラヤか:自然界にブルー植物は珍しい、それは空と同色だからだ。と言うことは、昆虫の視線からすれば、ヒマラヤと言う自然体系がブルーの色彩を見つけやすいのだろう)                2001年、微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表。それには、病(循環器)が原因しているのだろう。
2011年、女子美術大学名誉博士。この頃から、大磯のごく身近な植物を多く描いている。
2019年、死去(心不全)、100歳だった。

「自由は、命懸けのこと。群れない、慣れない、頼らない。これが私のモットーです。」
そして、「旅はひとり。事前に調べもしない、行ってから驚く、体験主義者です」と語っていた。-堀文子

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山の思い出 1955

Fig.山の思い出(1955)↑

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クリオネ

(c)堀文子

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Photo:土門拳

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Fig.堀文子


(余談)今の今、思い出した、ごく私的な話ですが、
私の母が、堀文子さんとは知り合いで(?)、同級生だった(?)と言っていた。「ん!」
ただ、年代が合わないのだが、認知機能の衰えからきている話だと、母のいる介護施設で、私は笑顔を作って聞き流していた。
先日、家内が、母親から、堀文子さんに、書いてもらった扇子の絵柄を実家で、確かに見たと言うのだ。
そう言えば、私が学生の頃、実家によく遊びに来ていた、母の同級生も、気さくだった、、そんな話(扇子も)をしていた事を思い出した。
卒業後も、女子美で、今で言う助教等をなさっていたのかも知れない・・・
ここへ、書く程でもない事だが、気さくな方だったのだろう。

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