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【エッセイ#12】『聖グラングラン祭』と『天気の子』、そして雨

気象というのは、芸術の中でも最も扱いにくいものです。なにせ、視覚や聴覚のみならず、大気と人間の肌、つまり触覚に関わってくるものですから、芸術作品で再現するのは厳しい。その代わり、上手く工夫すれば、作品に深みを与えることができます。
 
また、気象は私たちが普段当たり前に享受しているものです。それゆえ、その描写から、恐らくは作者も意図していない、潜在的な無意識が顕れてくることもあります。


 
少し前、フランスで、天気について話題になっていました。10月中旬から雨が続き、10月18日~11月16日にかけて、30日連続で雨を観測したということでした。これは1988年以来とのことです。
 
このニュースを聞いた時に、私の頭に思い浮かんだのは、レーモン=クノーの小説『聖グラングラン祭』でした。

クノーは映画にもなった小説『地下鉄のザジ』や、同じ出来事を99通りの文体で書く『文体練習』で有名な、前衛小説家です。彼の作品の中でも完成度の高い、中期のこの傑作小説には、まさに雨が降り続くフランスの場面があります。

レーモン=クノー『聖グラングラン祭』表紙
渡邊一民訳 水声社

 
「ふるさとの都」と呼ばれるフランスの片田舎の街を舞台に、市長と一族の秘密を知った彼の息子たちの二代にわたる、不思議な因縁とファンタジーに満ちたこの作品。途中で、「雲追い石」という街のお守りのようなものが、とあることがきっかけでなくなり、街に雨が降りやまなくなってしまう事態が訪れます。
 
この小説を読んで意外に思ったのは、フランス人というのはそれ程雨を好んでいないのだな、ということでした。「雲を追い払う」ことが、街の存在条件なのですから。日本では、それこそ縄文時代から雨乞いの儀式が行われていて、何となく「雨=恵みの雨」という図式が頭の中に刷り込まれていたような気がします。
 
しかし、よく考えれば、フランスは、南部が地中海に面した、乾いた地中海性気候の国家です(北部や中部は少し異なりますが)。日本のように、台風が通って梅雨もある海に囲まれた島国とは、降水量自体が違います。

そもそも、雨が降らなくても困らないような生活や知恵を身に着けて、太古から暮らしているわけですから、雨乞いなんてしない。ブドウやオリーブ等、水が少なくて乾いた土地で育つ食べ物を使った料理やワインが発達するのは、そういった理由でしょう。
 
そう思うと、この雨が降り続く場面に、フランス人クノーの、雨への無意識の嫌悪感のようなものが伺えるのが、興味深いところです。ここには、乾いた白い漆喰の建物が、じとじととした緑の苔に蝕まれ、その土地一帯が腐食していくような感触があります。

それも、この世の終末感が横溢して人々が怯えているわけではなく、何か寝ている間に、自分たちの故郷から切り離されてしまった場所に来てしまった、という戸惑いと苛立ちのような感覚。それはつまり、気候が変わるということは、本当に故郷を失うことなのだろうな、というある種リアルな感慨を与えます。



雨が降り続く、ということで現在の日本人の頭に浮かびやすいフィクションといえば、新海誠の映画『天気の子』でしょうか。

降り続く雨を止めさせる力を持つ少女と、彼女に惹かれていく男の子のボーイ・ミーツ・ガールものであるこの大ヒット映画での雨の描き方は、クノーの描いた部分とある部分は似ています。つまり、長雨によって錆びていく建物のリアルな質感、蔦や苔の描写、水に浸った街、雨が止むのを待ち望む人々。

しかし同時に、少し方向性が違うようにも感じます。


『天気の子』において、人々が待ち望むのは、太陽が出て「晴れ」が見られることであり、雨自体には、実はそれほど嫌悪感を抱いていないように思えます。寧ろ、どこか、雨に触れて生温い水が肌に浸透していくことへの快楽のようなものが伺えます。

このまま雨がずっと降り続いて、全てが水に沈んでしまうことへの無意識の憧れ、タナトスのようなもの。人々が街に溜まった雨水で戯れるシーンもあります。
  
そうした、ある意味親密な水は、主人公の男の子が、警察署の前を、足を思い切り水に浸らせながら走ったりするシーンや、雨水が氾濫して水でいっぱいになった道を同僚のスクーターに乗せてもらって駆け抜けるシーンにも感じられます。

その後、スクーターは深い水たまりに嵌って、主人公一人でさらに加速して走ることになるわけで、そこにあるのは、足を捕えて減速させる水ではなく、寧ろ、彼が推進する力を讃えて、活気づけてくれるような水です。
 
実際、この映画では、主人公が雨に浸された街を駆け抜けることが、ドラマのクライマックスを形作っています。『聖グラングラン祭』での、雨水と街を満たす泥水に嫌悪を持って、足をとられながらも移動しつつ、後はひたすら室内で窓の外の雨をなすすべもなく見ている人々とは、対照的です。
 
『天気の子』において雨とは、街や人々にまとわりつきつつ、さらさらと流れて、人々の肌の上を通り過ぎていく存在です。

この作品には泥の描写が殆どありません。これほど雨が続けば、土砂災害がかなり頻繁に起きているはずですし、主人公たちがそうした泥に捕らわれたり埋まったりして、恐怖でもがく、というのが、ドラマの装置としてあってもいいはずです。
 
しかし、ここで描かれるのは、そうした泥濘に満ちた大地から切り離された都市、そして、雨が生まれる天空のみです。そこには、雨とは仮に憂鬱なものであっても不吉なものではない、自分を縛る泥の大地の忌まわしさから解き放ってくれる、ある種の恩寵のようなもの、という感覚すらあります(それゆえ、あの物議を醸したラストは、文字通りに受け取れるもののようにも、見えてきます)。


 
こうしたことは、もしかしたら、日本に住む人々が心の奥底に持っているものなのかもしれないと、ふと思ったりします。
 
日本で土地を放置すると、一か月も経たずに雑草が生い茂って、草ぼうぼうの地になると言われています。高温多湿で雨が多く、周囲から海の湿った風が吹く気候ですから、放っておいても緑は良かれ悪しかれ生えてくる。

つまり、雨が降って、湿った緑が生い茂るのが、所与の存在です(日本各地に残る雨乞いの儀式は、普通なら貰えるはずの雨の恵みが貰えていないと感じるからこそ、「乞う」わけですね)。雨が降り続く苔に覆われた世界になるというのは、ある種原始の状態に戻ることだという感覚があります。
 
よく、廃墟が好きな人が様々な廃墟を訪ねて写真をSNSで挙げたり、写真集が出たりしていますが、そこでの廃墟は決まって、人が住まなくなって静寂が支配する、水と苔と錆に覆われた、木やコンクリート、金属製の建物です。砂漠の中で、砂に塗れて成す術もなく崩れて、辺りから砂嵐の音が聞こえてくるような、乾いた埃っぽい廃墟は殆どありません。
 
これはつまり、雨ざらしにされた廃墟こそが、自分たちがやがて還る、胎内のように安らげる場所だという無意識があるのではないでしょうか。そうした諸々の無意識が、『天気の子』にも反映されているからこそ、この作品は大ヒットになった気がします。それは、『聖グラングラン祭』の、雨に浸されたフランスの街の倦怠と絶望感とは、どこまでも異なるものなのです。



もっとも、私は、あまりこうした民族的な違いを強調する気は全くありません。『聖グラングラン祭』も、『天気の子』も、どんな時代の、どんな場所に住んでいても、誰かの心を打つ、優れた芸術作品であり、優れたエンターテイメント作品であると思っています。
 
ただ、こうした背景に考えを巡らせて、ジャンルの違う色々な作品を組み合わせてみると、きっともっと作品や世界が豊かに色づいてくると思っています。

そして、こうした違いを経ても、『聖グラングラン祭』の円環を描く美しいラストと、『天気の子』の一つの決断を受け入れる力強いラストが、時代を超えて、ある種の相似形を描いていることにも気づくでしょう。そこに、一つの勇気と希望をも感じられるのではないか、と思っています。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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