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眠りと夢想 -レイトンとムーアの絵画の魅力


【月曜日は絵画の日】
 
 
 
人物を描いた絵の中で、「眠っている姿」の絵は、とても魅力的なものがあります。
 
現在の写真のポートレートに至るまで、肖像画というのは、大抵こちらを見ている人物の姿が多いです。

それはつまり、その人物がこちらにポーズをとってくれるということで、余計な物語をなくして、その人物のパーソナリティに集中させる意味もあるのでしょう。


 
眠って、眼を閉じている、という姿は、何かしらの夢想を感じさせます。
 
多分西洋を含む絵画で、目を瞑った像として一番多く描かれたのは、キリストの十字架像だと思いますが、死と直接結びついているため、なかなか重い話になってしまいます。
 
そういえば、AI作成のイラストでは、眼を閉じている絵が案外少ないようにも思えます。勿論、技術的には可能でしょうが、作り手側に、眼を閉じている姿を作る需要があまりないのか、結構興味深いところです。



 
  
眠りを描いた人物画で高名なのは、ジョルジョーネの『眠るヴィーナス』あたりでしょうか。死の気配も感じさせながら、どこか甘美な部分があるのが、眠る肖像画の特徴かと思います。基本的にはギリシア・ローマ神話系の女神系が多いでしょうか。
 
そうした神話抜きで、眠る肖像をかなり印象的に描いた画家で私が思い浮かぶのは、イギリスのフレデリック・レイトンやアルバート・ムーアといった、19世紀末の画家です。どちらも「唯美主義」といわれる、イギリスの古典復興運動で出てきた画家です。


 
  
フレデリック・レイトンは、1830年、アルバート・ムーアは1841年イギリス生まれ。前者は商人の家、後者は代々画家の家系というバックグラウンドの違いはあるものの、どちらも、小さい頃から絵の才能を発揮し、イギリスのロイヤル美術アカデミーの会員になって活躍したのは、同じです。
 

フレデリック・レイトン自画像


更に、両者の共通点は、本来アカデミーに反発していた、ラファエル前派との交流も積極的に行っていたことです。
 
ラファエル前派は、19世紀の中頃、ロセッティやエヴァレット・ミレイらによって始まった反アカデミーの運動です。

アカデミーが好んだ「ラファエロ風」の絵画でなく、詳細な自然の描き込み、聖杯伝説といった中世の神話の活用、赤毛の女性といった旧来に囚われない美の規範の創造を行っていました。

ミレイ『オフィーリア』
テート美術館蔵
ラファエル前派の特徴がよく出た名作


その波も一旦はおさまり、最も画力の高かったミレイが、アカデミーに回帰したこともあって、彼らの影響は、拡散してアカデミー側にも伝わるようになりました。



 
 例えば、レイトンの『燃える6月』を見てみましょう。

レイトン『燃える6月』
ポンス美術館蔵


 
まさに、燃えるようなオレンジ色の美しい古代風のドレスを着た女性が、身体をよじるようにして眠っています。

遠近感を上手く狂わせるように、脚のなだらかなラインが、流線型を描いていて、この女性自身が、燃えるようなオレンジ色にくるまれて眠っているような印象を受けます。
 
レイトンは、ギリシア神話を題材にした絵画も沢山残しています。しかし、このように、神話とは結び付かない、けど何かしら神話のエッセンスを感じさせる(同時代の印象派と比べると明らかです)、美しい絵も残しています。

タイトルが象徴的なのに、何を表しているのか、謎めいているのも、非常に良い。
 
これは、古代のギリシアやローマの美からの解放を目指したラファエル前派抜きでは考えられない作品のように思えるのです。




 
年下のムーアになると、その謎めいた美は、更に加速します。例えば『真夏』は、やはり燃えるようなオレンジの衣に身を包んだ女性が、花冠の飾られた玉座で眠り、おつきの2人の女性に見守られています。


ムーア『真夏』
ラッセル・コート美術館蔵


 
一体この眠る女性は何者なのか、これはいつの時代のことなのか。全く解読できません。調度品や衣装は、古代風ではあるけれど、どの時代か特定できないように巧妙に組みあわされています。

物語のかけらはあるのに、それが像を結ばず、ただ、古代の薫りだけが、漂ってくるのです。



 
彼らの絵の背景には、ラファエル前派だけでなく、ヴィクトリア朝のイギリスの発展があったこともあると思われます。
 
ヴィクトリア朝は、産業革命後にまさに世界の帝国になったイギリスの様々な側面が顕れた時代でした。急激な工業化、都市化は、反対に、古代への憧憬をも呼び覚まします。
 
しかし、そこでの古代は、あくまでも、近代的な都市生活の中の断片です。以前フランスのアカデミー絵画について「古代のなんちゃってコスプレ」といいましたが、そういう側面もこのイギリスの画家たちにはあります。

 
しかし、同時に、神話から解放されることで、「眠る人物」という題材を出すことも可能になりました。
 
衣装と雰囲気は、古代風だけど、眼を閉じて眠っている人物は、決して物語を演じていない。眠ることで、外界から閉じて、自分の内面に深く入り込んでいくような、甘い夢想を誘う感覚があります。

これはまた、喧騒に満ちた都会の生活と対比して、人々の心のよりどころを探る作品でもあるように思えるのです。



 
レイトンの『母と子(さくらんぼ)』は、これを、現代の家で表現してみせた、美しい絵画です。
 

レイトン『母と子(さくらんぼ)』
ブラックバーン美術館蔵


肘をついて横になって眼を閉じている母親に、愛らしい娘が、さくらんぼを口に渡そうとしている。薄桃色の母親のドレス、白い娘の衣装、背景を飾る白い百合の花、といった美的な要素がちりばめられ、甘美な雰囲気があります。
 
全体の美的な調度品と、母親の気怠く夢想的な眼を閉じた顔が、さくらんぼの甘さをも体験させる絵になっています。

ぎりぎり嫌味になる寸前のところで、その美が甘いままに絵画にまとまっている好作品です。そして、それをまとめているのが、「眠り」という主題なのです。


 
 
眠る人物の絵画とは、観る者にとってもまた、どこか夢想に誘うものがあります。
 
喧騒に満ちた現代の生活の憩いとして、眠りは存在する。それはまた、他人との輪を断って、自己の内面に向き合う時間でもあります。甘美であり、どこか死にもつながる危うさもある。
 
それゆえ、ドラマや神話を排した美しさがあります。レイトンやムーアの絵画が「唯美主義」といわれるのは、そうしたある意味、過激な美の発露であり、実は、現代にもなかなかない絵のタイプのような気がします。

その夢想に誘う「眠り」の絵画を考察してみるのもまた、一興かと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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