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澄んだ神話を見つめる -『北欧の神秘』展の面白さ


新宿のSOMPO美術館で開催中の、『北欧の神秘』展に行ってきました(6/9まで)。
 
スウェーデンや、ノルウェー、フィンランド等、北欧スカンジナビアの近代の絵画に焦点をあてたこの展覧会。

ムンク以外あまりこの地方の画家を知らなかったのですが、非常に楽しめ、かつ色々と考えさせられる展覧会でした。




展覧会の構成は、ロマン主義のスカンジナビア絵画から始まり、象徴主義的な絵画、そして、印象派の影響を受けた、都市を描く絵画へと続いていきます。
 
私が最初に気になったのは、ロマン主義時代の絵画です。それは、はっきり言えば、クロード・ロランやターナーのような、明るい森林と黄金色の光線に溢れた「理想的な風景」でした。
 
実のところ、同時期のアメリカの画家たちも、このような、ターナーの後追いのような風景画を手掛けています。

フランスやイタリアに比べて文化の「周縁国」であるこうした国々では、まずは「中心国」の絵画の模倣から始まっているとも言えます。
 
同時に、ロマン主義の、ある種の弊害のようなものも感じてしまいます。
 
ロマン主義は崇高で、理想的なものを描くのが、良いとされました。その「崇高」とは、誰にでも分かるからこそ、様々な国に広まることになった。しかし、同じ概念ゆえに、違う場所の自然を描いても、どれも同じに見えてしまうのです。


マルクス・ラーション『滝のある岩場の景観』
スウェーデン国立美術館蔵




そんな「どこにでもありそう」な絵は、段々と、スカンジナビア独自の色彩を、持ち始めます。
 
具体的に言うと、澄んだ青の水です。フランスやイタリアの絵画には決して見出せないその、透明で神秘的な紺碧のブルーは、まさにここに北欧の自然があるという感覚を、鑑賞者にもたらしてくれます。


ヴァイノ・ブロムステット『 冬の日』
フィンランド国立アテネウム美術館蔵


そして、一連の象徴主義的絵画のパートでは、民族の神話や特徴を入れることで、どんどん独自性が出てきます。

暗い森と夜の清浄な空気感。赤々と燃える炎といった、真に独自の表現を手に入れるのです。
 
特に、テオドール・キッテルセンという画家は、展覧会のメインビジュアルにもなっている『トロルのシラミ取りをする姫』等、御伽噺をキッチュではなく、ダークで静寂に満ちた表現で描いています。同時代の象徴主義画家と比べても遜色ない完成度です。


テオドール・キッテルセン
『トロルのシラミ取りをする姫』
ノルウェー国立美術館蔵




しかし、興味深いのは、最後のパートの都市を描く段階になると、またそうした独自性が薄れ、どこかフランスの印象派が捉えた光景のような印象を与えることです。

 

エウシェン王子
『工場、ヴァルデマッシュウッデから
サルトシュークヴァーン製粉工場の眺め』
スウェーデン国立美術館館蔵


勿論、子細に見れば違いますし、北欧特有のクリアな光を感じることはできます。

しかし一連の北欧神話画に比べて、独自性だけでなく、そのオーラもくすんでしまっているような印象を受けてしまうのです。




そう考えると、改めて、周縁国であることの難しさも感じてしまいます。

例えば、印象派の画風で、日本やアメリカの都市を描けば、それだけで、独自の絵画になります。印象派はアメリカや日本を描かなかったからです。
 
しかし、北欧の都市の場合、多かれ少なかれ、ヨーロッパの都市の外観を持ってしまっている。それを印象派風に映すと、先行者の影がちらついてしまう。

私たちは絵画の流派を、単に技巧で区別しがちですが、どこで何を描くかという選択もまた、重要なファクターだと気付きました。




そして、もう一つ気付いたこと。

私は象徴主義や神話画というのは、ある種キッチュで、ここにはない世界を描くものだと、捉えてきました。

しかし、この北欧の画家たちにとっては、自分たち独自のヴィジョンを築くのに必要な、「今ここ」の表現だったということです。
 
自分独自の何かを切り拓いていると作者が思っている時に、作品は独自の緊張感と、艶を持つ。北欧神話を彼らが描くことで、それは、ナショナリズムを超えた、新しい美となっています。
 
象徴主義とは、そういう意味で、西洋絵画を支配していた規範からの、ある種の解放だったのかもしれない。

自国の神話というものは、決して後ろ向きな逃避ではなく、自分が何者であるかを知り、表現するための、新しいパレットだったのかもしれないと感じたのでした。


テオドール・キッテルセン
『アスケラッドと黄金の鳥』
ノルウェー国立美術館蔵




そして、それは、インターネット・AI時代の現代においても、未だに汲みつくすことのない独自性を持っているとも思いました。
 
人間というものは、見たままを描いているように思えて、実は自分の中の意識に沿って、その現実を描いています。

子供たちが同じ風景を写生しても、一つとして同じ絵にならないのと逆に、その目の前を捉える意識が、同時代の主流と変わらなければ、それは、同じ絵画になります。
 
だから、本当に大事なのは、独自のヴィジョンを自分自身の中に持つことなのかもしれません。




この展覧会では、部屋によっては鳥の啼き声やアンビエントなBGMも薄く流れていて、北欧絵画の雰囲気に浸ることが出来ました。
 
私は北欧神話については『カレワラ』ぐらいしか知らないのですが、興味深いのは、そこで天地を創造するのは、大気の女神イルマタルだということです。


ロベルト・ヴィルヘルム・エークマン
『イルマタル』
フィンランド国立アテネウム美術館蔵


北欧といえばヴァイキングのような海の荒くれノルマン民族を思い浮かべますが、彼らにとって、世界の始まりは「大気」だったのかもしれません。
 
それはつまり、自分たちの源は、雪の森の中の澄んだ空気であると、彼らは捉えているということなのかもしれない。

そのような澄んだ空気、つまりは自分たちの魂をこの世に表そうとして、試行錯誤の末、神話によって捉えることができた。
 
そんな、普通の絵画史とは一味違う、独自の味を楽しめるこの展覧会。機会がありましたら、是非一度ご覧になっていただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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