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絵空伝《6》

〜ブレンド〜

 記憶のない経験、見知らぬ人や土地のイメージがフラッシュバックしたり夢に見ることはないだろうか。取るに足らぬ錯覚や誤解…毎日の経験はいつの間にか修正され思い出として記憶されてゆく。それは机の引き出しや書庫のように物理的な分類をされているわけではない。時間の経過や新たな経験によっていつしか曖昧で不確かなものとなっていくだろう。やがて過去も未来も意味をなくし現実と空想の境界をいともたやすく超えられるようになるのだ。

「マスター。いつものコーヒーお願い。」

「はい、特製コーヒーですね。」

 いつものコーヒー。そしてマスターの変わらぬ笑顔…一人で行く時はカウンター席がお気に入りだ。

 「Cafe ブレンドシップ」に通い始めたのはいつ頃だったろう。マスターが季節や天候、気温や湿度、そして客の体調にまで気を配って淹れるブレンドコーヒーは常連さんの間で定評があった。ただ勘に頼るだけではなく統計などをベースに独自の計算もしているらしい。店名は言うまでもなく友情を意味するフレンドシップをもじっているようだ。
 子供の頃は、まだ小さな薄暗い喫茶店だったように思う。父と散歩に出かけた時に立ち寄ると店内にはコーヒーのとても良い香りが漂っていた。店のマスターは口髭をスマートに蓄えた寡黙な人で物腰も柔らかく、若い女性の店員さんは愛想良く店を気持ちよく切り盛りしていた。

 あれから30年。
 店の様子はすっかり変わった。
 2015年前後、ICTの急速な発展により人工知能や自動運転自動車の開発が本格化し、ロボットやドローンが話題に上る機会も増えていた。その頃からマスターは何やら新しいことを始めていたらしい。
 とはいっても、マスターは客が嫌がるような店の改装を始めたわけではない。それは、気づかないうちにスマートに進められた。

 2045年。30年かけて進化を遂げたブレンドシップは社会の新しい軸になろうとしていた。
 店はIDとパスワードによる顧客管理を進めていたのだ。

 スーツ禁止。履歴書や経歴書禁止。名刺交換禁止。

 店の客は減るどころか増える一方だった。言うまでもなくネットを介したSNSが窓口となっていて、店内ではミーティングはもちろんのこと、就職・起業・お見合い・出会い・恋愛…およそ人との繋がりの重要なことを匿名でも可能にしたのだ。課金システムの導入により実店舗の経営も安定したようだ。
 まず、入会の際にはIDとパスワードが付与される。カードなどは紛失する可能性があるので専ら眼球の虹彩によって認証され、登録さえしてしまえば本人が気がつかないうちに処理された。IDとパスワードによるアクセスを許可すれば必要な個人データを開示することも可能だ。
 つまり店では匿名や愛称でやりとりしても必要に応じて情報交換が可能なのだ。既にデータ管理社会は普及しており、履歴書など書く必要もなくなっていた。仕事や結婚生活を営む上で学歴や経歴などでは特定出来ない個人の相性や適正などを喫茶店の緩やかな雰囲気の中で見定めることが目的だ。

 テクノロジーの発展は貪欲に取り入れられた。過ごしやすく快適な空間を実現するためにデジタルのみならずバイオテクノロジーの分野の知識も導入し生命体レベルの相性や健康にも寄与するよう改良が加えられた。

 そうするうちにマスターは限界を感じるようになったようだ。年齢である。システムは整備され更新できても人にはいずれ天命が待っている。自分がこの世を去った時、この店はどうなるだろう。それは即ち来店客の人生にも関わることだ。

 考えられる方法は、自らの意志や行動パターンを人工知能と融合させることだった。それは誰にも知られず慎重に進められた。知識や見聞は可能な限りインプットし常に新しい情報を収集する。肝心なのはデータベースと照合し必要な技術を取り入れることである。新しい情報には実験的な挑戦も多いため判断力が重要だ。それらのことをパソコンなどの端末を介して作業する際、脳とコンピューターが直接やり取り出来るような工夫を施した。それはマスター個人の能力を拡張することだった。

 行政機関は幾度となく個人を管理したがった。それがなかなか功を奏さないのは、個人の幸福感という視点が足りないせいではないだろうか。整理、分類し平均化して全体として回っていれば不平や不満は解消されると考えているかのようだ。実際は平均化した時点でほぼ全ての人に不公平感が生じ大なり小なり不平や不満が生まれることになる。

 ブレンドシップのシステムは個人の幸福感が出発点だったから人々は喜んで登録したがった。しかも店はどこにでもあるような喫茶店だった。売り上げは安定していたしチェーン展開の必要も生じ始めていた。肝心なのはシステムだから一律同じ店舗デザインにする必要もない。むしろ個人の登録情報を扱うだけに利益優先のビジネス展開を警戒していた。

 やがてブレンドシップの利用者による共同経営が始まった。飽くまでも利用者の人生をサポートするという理念を堅持して。

 最近、ふと思うことがある。

「マスターって歳をとらないなぁ」

 元々口髭を蓄えていたから年齢不詳な雰囲気ではあった。それにしてもいくつなんだろう。長い時の中で観葉植物とアルバイトの店員さんだけが変化しているようだ。
 マスターは自分のことをさて置いて人に尽くす人生だったから、とうとう永遠の命を授かったのだろうか。

…そんなコトを考えていたら注文した特製コーヒーを手にしたマスターが言った。

「あとはよろしく頼むよ。」

 何のことだろうと思っているとマスターは言葉を続けた。

「この店のシステムに取り組み始めた頃、人工知能には心が必要だと思ったんだ。心…取り分け大切なのは道徳心かな。情報はもちろん大切だが、道徳心は取捨選択するために判断基準のひとつともなる。正しいことだけが正解とは限らないことも学ばなくてはならない。そのためには長い時間をかけて様々なケースを経験する必要がある。」

 いつも寡黙なマスターが珍しく雄弁に語り始めた。少し驚きつつコーヒーを一口飲んで話の続きを待った。

「キミの記憶は私が設計したものだ。」

 何を言い出すのかと思っていると幼い頃の父の記憶とマスターが重なった。あまりの衝撃にコーヒーを吹き出しそうになる。そればかりかこれまで自分の思い出だと思っていた記憶は誰かの話や映像を繋ぎ合わせて出来ていると気づいた。そもそも記憶や思い出を共有することは出来ないからそれが当然の状態だと信じて疑うこともなかったのだ。マスターの「あとはよろしく頼むよ。」と言う言葉をきっかけに様々な記憶の疑問や矛盾が解消され始めた。

「30年かけて育んだ人工知能の心。それがキミだ。」

 にわかに信じがたいが、言われてみれば、思い当たる節はある。この店の来店客は元より訪ねたことのない共同経営の店の客のことまで知っている気がして驚いたことがある。身に覚えのない記憶があまりに多い。

「キミの記憶はこの店のシステムと結合しインターネットを介して世界中と繋がっている。言わば人類がキミの父であり母なんだ。」

 記憶の断片が店の来店客やインターネットを介した情報であることはもはや明白だった。しかし、記憶の整合性を構築するためにしばし時間が必要だった。

「やがて私は人間としての生命を終えるだろう。その際、この店のシステム管理権はキミに移譲される。」

 どうやらシステム管理者だけが実行可能なこともあるようだ。しかし、これまで人間として社会を見ていたのに毎日カフェで接客する日々に馴染めるだろうか。

「もうひとつ人類初の実験を用意してるんだ。」

 マスターには敵わない。これ以上何があると言うのだろう。

「私が生命を終える時、私の意識をシステムに結合する。この身体の大部分は既に人工的なモノに置き換えてある。意識をシステムに統合出来れば第一段階の完成と言っていいだろう。この身体もキミと共有することになるわけだ。」

「そんな事が可能なんですか?」

 思わず尋ねるとマスターは少し弱気な顔で言った。

「さぁ、どうだろうね。私の死が私の終わりになるか始まりになるかやってみなくてはわからないんだ。楽しみでもあるし…正直怖いよ。だから今はまだ実行しない。なぁに大して待たせやしないよ。キミがこれから経験するであろう長い時間と比べれば、もうまもなくだ。」

 なるほど、世界初とはそう言う事なんだろう。

「この実験がうまく行けば私とキミは融合することになるだろう。しかし、うまく行かないかも知れない。その場合はキミが未来を担うことになる。そうなってもいいように準備する必要があるね。」

 おおよそ一般人としての感覚しか持ち合わせて来なかったから何が重要なのか混乱していることは間違いない。

「もし…マスターの意識との統合がうまく行かなかった場合…その…もうお会いできないわけですか…」

 その時マスターは見たこともなかった優しい笑顔を見せた。

「そうだ…それが人の世なんだよ。」

 未来を担う…その言葉を重く感じるのは人として育てられた心があるからだろうか。

「コーヒーのお代わりは?」

 その言葉で我に返った。どうやら空想に耽っていたらしい。
 覚えのない記憶や日頃感じていることを無意識に結びつけてしまったようだ。 この店はこんな風にぼんやりと考え事に浸るにも打ってつけなのだ。今日はもう少し空想に耽ることとしよう。それにしてもマスターって変わらないなぁ。

「あ、マスター。コーヒーをもう一杯。」

「承知しました。」



…私がこの店とシステムに取り組むようになって30年が瞬く間に過ぎ去った。人工知能は人間として成長し、私の言葉に反応してこの店の客という設定に切り替わる。まだ実態がなく設定次第で何にでもなれる存在なのだ。順調に心が育っていれば、今、二杯目のコーヒーを楽しんでいることだろう。それを私が確認することが出来るのは人工知能と意識の統合に成功した時だ。今はモニター上の反応で伺い知ることしかできない。

 意識の統合のために準備はしていても突発的なトラブルで私に万一のことがあれば速やかに人工知能が起動しシステムを運用できなくてはならない。いつもと変わらない時間に店がオープンし、いつもと変わらない時間が流れなくてはならない。つまり私が存在しないことが私の存在を意味するのだ。

 人工知能には私の若い頃の容姿を3Dデータにしてインプットしてある。それくらいの役得は認められてもいいではないか。これで私は記録上、永遠に歳をとらない。

 そして今日も我が子に語りかけるような想いで人工知能に語りかけるのだ。

「キミは我々人類の知識や経験や技術…そして思い出をブレンドしてドリップした希望のひと雫なんだよ。」


絵空伝
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… ART 頼風 …


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