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アートと生きた、女性の戦士たち。ローマ編 n.5。 パルマという女性。


パルマの好きなこと。

パルマは、美術館を自宅のように感じていた。

美術館内にある図書館は、まるで瞑想をするかのように静まりかえった空間。この静かな図書館に身を置き、仕事をし、本を読み、考えに耽る。

彼女にとって極上の時間だった。戦後、美術館の一部が彼女の住まいとなり、夢のひとつが叶うことになる。

参照:bat

パルマには趣味がいくつもある。車を運転するのが大好きで、男性を助手席に乗せ、運転するのは常に彼女。冬になると冬季オリンピックが開かれたコルティーナダンペッツォへスキーに行き、一度などコースから外れて滑り落ちたりもしたが、何食わぬ顔で戻ってきてスキーを楽しんでいる。

その彼女が、なによりも愛したものがある。それが洋服。美貌と容姿に恵まれたパルマにとって、美しい服は、それらを際立たせ、さらには、ほぼ100%の男性社会において、その美しさを武器に立ち回るためにも、美しい服に身を纏うことは、彼女にとっての戦闘服だったかのかもしれない。

参照:le rosse di scendono dai gatti

文化人、政治家、アーティスト、文学者。彼女の美に当てられた男性は、枚挙にいとまがない。「冷淡な女性」や「シャム猫のような女性」と呼ばれたのも、あながち嘘ではないだろう。

参照:Istituto Luce
参照:Istituto Luce
参照:Istituto Luce

当時のローマのオートクチュールのアトリエ、ニコラ・ゼッカ、アウローラ・バッティロッキ、ソレッラ・ボッティ、カローザ、ソレッラ・フォンターナ、フェルナンド・ガッティーニ。すべてのアトリエの顧客リストに、パルマは名を連ねいていた。

彼女が好んだ、いまも活躍しているブランドには、ディオールやエミリオ・プッチが挙げられる。

参照:latpc.altervista.org
参照:latpc.altervista.org

ローマ国立近代美術館の女性館長、パルマ・ブカレッリ。彼女はローマのモード界を牽引していた。パルマが身につければ宣伝効果にも繋がるので、無償で提供したアトリエも少なくない。

1944年にサロ共和国より、全国の美術館館長はパドヴァに転居するようにという命令が発布されるが、パルマもこの命令に従わなかったひとりだ。そのため、給料が差し止められる。

今日の食事は簡単なサラダだけ。美術館の敷地に菜園を作らなければならないわ。

パンが手に入らなく、お金がないときでも、パルマは呟く。

洋服を買うためのお金は残しておかなければ。

彼女の美術館で展示会が開催されるときはもちろん、欧州そしてアメリカの美術館に招待されるとき、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展への出席など、公の場に出ることが多い。劇場では常に最高の席を招待される。

参照:Face Book Museo Boncompagni Ludovisi
参照:Face Book Museo Boncompagni Ludovisi

華やかな場はパルマを好み、パルマはそれに応えるように、一輪の百合のように芳しく、凛として、華やぎをもたせていた。

«La vera eleganza consiste nell’avere il senso dell’opportunità, la donna elegante non segue la moda ma la adatta alla propria personalità, conferisce la propria impronta, il proprio tratto».
本当の気品には、その場に相応しい振る舞いや着こなしも求められます。洗練された女性は流行を追いません。自身の性格に合わせて、着こなし、個性を表現します。

パルマらしい言葉。パルマだから、出てくる言葉である。

参照:frammenti darte

ローマの日本大使館の目の前にあるボンコンパーニ・ルドヴィジ美術館(Museo Boncompagni Ludovisi)。2023年3月8日から、パルマ・ブカレッリのドレスを展示する特別な小部屋が設けられている。パルマが亡くなる際に、寄進したものである。

パルマの恋。

パルマ・ブカレッリを紹介する第一回目で、「政治ジャーナリストに恋焦がれ相思相愛になるも、既婚男性であるので禁じられた恋であった。戦争が勃発したことで、彼とは離れ離れになり、これを最後に、パルマは一人で人生を歩いて行くと心に誓う。」と書いたが、実は、続いていたのである。

ふたりの愛は、相手が既婚であることも、19歳の年の差も、戦争も超えた。

いまのようにSNSでサクっと連絡を取り合うことができない時勢。手紙を交わし続け、政治ジャーナリストという視点からパルマに助言をし、たったひとりで対峙しなければならない諸所の問題を抱えたパルマは、彼に手紙を書くことで、心の拠り所としたことだろう。

相手の名はパオロ・モネッリ。20世紀を代表するイタリアのジャーナリストと言われ、彼の死後「New York Times(ニューヨークタイムズ)」に
「半世紀に渡り、イタリアで最も著名なジャーナリストであり最も有名な小説家のひとりであった」記載された。

参照:arta part of culture

そんな著名で有名なパオロは、パルマをひとりローマに残して気が気でなかったらしい。パルマが大使館のカクテルパーティに出席し、そこには親しいドイツ人の友人もいると告げる。

ドイツ人にフレンドリーな奴なんてひとりもいない。彼らが、侯爵だったり有名なジャーナリストでもだ。どうか、気をつけてくれ、パルマ。あの人とは近づきになってもいいけど、あとはダメだ。ほかは女好きばかりだ。

パルマが外出するとき、彼女の隣には、ほぼ常にエミリオ・ラバンニーノがいた。ふたりに友情以外の感情がないのはわかっている。だが、パオロは書かずにはいられない。

(ラバンニーノの隣で、君は楽しいんだろう。)
わたしは、おまえのラバンニーノの石膏になりたい。

時は経ち、パルマ53歳。パオロ72歳。パオロの妻はずっと前に他界していた。

1963年6月27日。パオロの家には、ごく親しい友人達が集まっていた。司教が結婚式を始める。出会いから30年後のことである。

若い頃の「恋」は遠い昔のことだが、お互いを慈しむ「愛」は変わらない。パオロの体調が芳しくなく、これを機に、パルマが結婚することを望んだのだ。

参照:Istituto Luce

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1944年はまだ戦争中で、イタリア全土の美術館が閉鎖されていたが、パルマは同年の11月に、イタリアで初めて美術館を再開する。

これは、世論を騒がす、パルマの進撃が開始される合図でもあった。

次回へつづく。

アートと生きた、女性の戦士たち。ローマ編 
記事リンク

第1話:パルマ・ブカレッリ 
第2話:キャリアの第一歩。
第3話:時間との勝負。
第4話:聖天使城。
第5話:パルマという女性。(本編)
第6話:パルマの進撃。


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ボンコンパーニ・ルドヴィジ美術館

参考文献:
Regina di quadri. Vita e passioni di Palma Bucarelli, Milano, Mondadori 2010 by Rachele Ferrario

参照表示のない写真は、わたしが撮影したものを掲載しています。










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