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アートと生きた、女性の戦士たち。ローマ編 n.4。 聖天使城。

避難所から市国へ。

1943年9月から1945年4月まで、北部イタリアは実質ドイツ軍により軍事支配され、イタリア社会共和国 (RSI)、通称、サロ共和国が作られる。

1944年にサロ共和国より、全国の美術館館長はパドヴァに転居するようにという命令が発布される。従わない場合には、地位剥奪。だがヴァチカン市国はサロ共和国を国として認めていなかったので、サロ共和国の命に従わない館長も多くいた。

この状況では、避難所が見つかるのも時間の問題。ナチス軍により作品がドイツに運ばれる危険性が高まってくる。

ここで登場するのが、パルマ・ブカレッリと同級のジュリオ・カルロ・アルガン。

戦争が起きたときにどう作品を守るべきかを、ウルビーノのパスクアーレ・ロトンディと1939年の時点で話し合い、1943年には、ヴァチカン市国の許可を得て、市国と繋がるサンタンジェロ城を作品の避難場所にすることに成功する。

サンタンジェロ城

避難所からヴァチカン市国へと運ぶ作業が、水面下で始まる。ウルビーノへ行くのはボルゲーゼ美術館のアルド・デ・リナルディスの予定だったが、館内の庭園で店頭し骨折してしまう。

友人のエミリオ・ラヴァンニーノは、自ら申し出をし、ロトンディの待つウルビーノへと向かい、旧友との再会を喜ぶのも束の間、作品を運び出し、夜中にローマへ向けて出発する。

ロトンディは、食料が入手困難なローマの友人たちへ向けて、小麦粉、サラミ、オリーブオイルをトラックに積ませることを忘れなかった。

*****

ローマでは、パルマは、万が一に備え、マスク、消火器、ランプ、砂袋などをトラックに積ませてファルネーゼ宮殿へ向かう。途中までは、ヴィテルボへ向かうラヴァンニーノと一緒だ。

戦火のおいてトラックを使えるのは今日だけ。パルマは最重要作品のなかから、さらに作品を選択しなければならなかった。

ローマへ戻ったら、パルマはたったひとりで、自家用車に乗り込みすぐに引き返す。夜になるのを待ち、できる限り車に詰め込み、市国へ向けて出発する。前回紹介したメダルド・ロッソの作品も彼女の車に積まれていた。

すべての作品を市国へ避難し終えた頃、朝日が新しい1日を照らしていた。

*****

20世紀のイタリアを代表するジャーナリスト「インドロ・モンタネッリ」は、彼の著作でパルマ・ブカレッリをこう評している。

どんな男であれ、たとえ将官であっても、パルマのようにはできなかっただろう。空爆が起きようとも、ドイツ軍がいても、青白い肌で緑の目をしたパルマは、闘犬のような粘り強さで、イタリアの宝を守りぬいた。

さらに、こう続ける。

真鍮の空砲弾で作ったウエストベルトを締め、グレーがかった緑のスーツを着込んだパルマは自転車を乗り回っていた。ドイツ軍と同じ色に合わせることにより、自分が反対派ではないことを装うために計算されたものであり、ドイツ軍の将校達に強く印象づけるためでもあった。誇り高く好戦的な服に身を纏ったパルマを通して、将校達は、ゲルマン国の女戦闘士ブリュンヒルドを見たかもしれない。

「冷たい血をしたパルマ(Palma e sangue freddo)」という名前は、そんな彼女の態度からついたのかもしれないが、戦後においては、別の意味を帯びるようになる。冷淡な女性。つまり、次から次へと甘い声をかけてくる男性陣を、まるで素知らぬふりをして適当にあしらうパルマの態度からです。

「冷淡な女性」という異名をつけられたパルマ。彼女はいったいどんな女性だったのでしょう。次回は戦後のパルマをご案内します。

次回へつづく。


書き続けていたら長くなってしまったので、分けることにしました。
ですので、今回は1000文字以下の文章です。
次回もまもなく投稿できると思います。

日本はすっかり夜中の時間なので、
もしよろしければ、明日にでもお立ち寄りください。

7月16日は最終話二話を続けて投稿する予定です。


最後までお読みくださり、
ありがとうございます。

創作大賞にも応募しています。
ぜひ応援をお願いします。

次回もお越し頂けると嬉しいです!
よろしくお願いします。


参考文献:
Regina di quadri. Vita e passioni di Palma Bucarelli, Milano, Mondadori 2010 by Rachele Ferrario

参照表示のない写真は、わたしが撮影したものを掲載しています。











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