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「エレファントカシマシ とスピッツの研究」  (第八回)

「仮装」と「嘘」の『意志力』


 もし人間論的にリルケを研究しようとするなら、彼が母親から受け継いだものに最大の力点をおかなくてはなるまい。
(「ゲオルゲとリルケの研究」昭和35年11月10日 第一刷発行 手塚富雄著 株式会社岩波書店 P128)

 

 詩人リルケはドイツ系の家族としてオーストリア・ハンガリー帝国はプラークという激動の地に生を受けた。
 父ヨーゼフは陸軍士官を目指したが志をとげえず、鉄道会社に勤めていた。
ヨーゼフのルーツはボヘミアの農場主であったとされているが、代々家にはケルンテン公国の貴族の裔だとの言い伝えが残っていた。伯父は州会代議士で世襲的に騎士に叙位された華やかな経歴を持つ。
 自然、リルケも自分の家系のルーツが貴族であるという説を信じたがっていた。

 このプラークという都市でドイツ系のアイデンティティを持つということは、社会的地位においては上層階級に列することを意味した。
 
 『ゲオルゲとリルケの研究』によればオーストリア・ハンガリー帝国、中でもプラーク市は、多数の異民族の集合体であり、衝突と不安定さと複雑さと多様性に満ちた、超民族的な文化圏を作り出していた。その土壌風土の中で、中世末期よりドイツ民族の優勢さの著しく、都市の外容はドイツ的なものを物語るものがが多くなり、19世紀中ごろには人口も半ばドイツ人となるほどになっていた。

 この都市でのドイツ系の地位の高さはこの名残であった。

 しかし、その裏では庶民階級が巻き返しを狙って常に対立抗争を起こしていた。チェック人(チェコ人)の闘争である。

 「プラーク」という都市の名はドイツ語の呼び方で、チェック語では、「プラハ」である。現在のチェコ共和国の首都がプラハであることを思う時、この都市がその後も激動の歴史の大舞台であったという事に、出不精な島国暮らしの私めは未知なる感慨を抱かずにはいられない。



 リルケが生まれたのは、チェック人の巻き返しによりドイツ人の人口比率が激減していった時期である。

 リルケは後退していくドイツ系の、華やかな表舞台、というよりはその裏庭の日陰の家柄でのびのびと、しかしどこか世間全体を投影したような影の差したムードを感受していた。

 言語圏としてはここプラークは元々、チェック語圏の中にあるドイツ語の島のような状況であった。

(前略)この市のドイツ語は、ひろい民衆生活に根ざしたドイツ語ではなかった。一種の人工語の中に育ったことを、リルケ自身が歎いている。上述したドイツ人のありかたを思うなら、そのことは容易に理解されよう。そしてこの市がスラヴ圏を含めてヨーロッパ文化の各要素を含んでいることは、おのずと彼の感受をそれらにたいして開かせることになった。ロシヤ的心情への彼の共感、若い彼がチェック人の独立運動にたいして寄せた理解、ユダヤ人にもつことのできた同情等は、出生地からくる当然の結果といえるのである。しかも、それらの要素と現実的に結ぶ根のつながりはなく、自身は政治的に後退しつつある民族に属するのであるから、やがて彼があらゆる積極的行動性から離れ、芸術を唯一無二のおのが場として選ぶ根拠は、充分にそなわっていたのである。そしてその芸術自体がおのずから故郷性をまったくもたぬ一種の普遍的性格に傾くこととなった。この最後の点ではプラーク出身のユダヤ系であるヴェルフェル(Werfel)、カフカ(Kafka)もまったく規を一にしているのである。
(「ゲオルゲとリルケの研究」昭和35年11月10日 第一刷発行 手塚富雄著 株式会社岩波書店 P125〜126)

 詩人リルケの感受性を鍛えたこの激動の環境に、さらに拍車をかけたのは、母ゾフィアの存在であった。

現実上の幻滅は、彼女をして虚構によってその取り返しをつける決意を固めさしたということができ、日々の生活を通じて彼女の流儀を押し通す意思力はまことに異例である。先に生まれて死んだ女児のかわりに幼いルネを女装さして育てたということは、この少年の繊弱化と共に生の最初の段階において、彼を仮装と演出の空気でつつんだことになる。
(「ゲオルゲとリルケの研究」昭和35年11月10日 第一刷発行 手塚富雄著 株式会社岩波書店 P127)
※ルネ:リルケのファーストネーム

 リルケの母ゾフィアは裕福な商人の娘でプラークの一等地にあるバロック様式の邸宅で育っている。

 旦那のヨーゼフの肩書きや経済力に幻滅し、リルケが9歳の時に別居する。

 一筋縄ではいかなさそうな女性である。

 人生の幻滅を打ち破るために、母は家柄の良い上流貴族出のシングルマザーを演じた。

 リルケを女装させて育てたのも、幼くして長女を亡くした悲しみを打ち破るための仮装演出だとすれば、そのような感性に包まれて育ったリルケの自身にも計り知れない影響を与えたであろうことは確かに想像に難くない。

作品においてリルケは仮装の心理の理解において達人であることを示している。『マルテの手記』で、主人公がその少年時代に戸棚のなかの古衣装を着て壁鏡の前に立ったくだりは、読者の多くに忘れがたい印象をとどめていることだろう。その鏡の中のマルテの手は「どうみてもいつものわたしの手とは思えなかった。手は俳優のようにひとりでにうごき、—おかしな表現だが、自分の演技に見とれていると言っていいほどだった。しかし、こんな仮装も、わたしをあかの他人のように感じさせるというほどではなかった。それどころか、さまざまに様子を変えれば変えるほど、わたしはわたし自身の存在をいよいよ確かに信ずるようになった。わたしはますます大胆になり、いよいよ思いきった演技に輪をかけた。⋯⋯ 」現実生活におけるリルケは、「ただ手を洗うときでさえ詩人であった」といわれている。
(「ゲオルゲとリルケの研究」昭和35年11月10日 第一刷発行 手塚富雄著 株式会社岩波書店 P128)

 母がそうであったように、リルケの詩と生涯もまた、「仮装」「演出」を貫くことで到達し得たといえる。
 
 大袈裟なくらいの貫徹さである。

 形はどうあれ、日本人にはこのような初志貫徹のアティテュードは好ましく思われているように思う。職人気質を貫徹するということは並大抵のことではないからだ。

 リルケが「仮装」に仮託して詩を作り出したように、ロックミュージックにおいて「嘘」に真実を託した詩人がいる。次回はその「嘘」の職人の仕事を観ていきたい。


                             つづく 




 

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