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世界一周10か国目:ウズベキスタン美術(2022年12月~2023年1月)

 世界一周7か国目はインドネシアですが、インドネシア美術については以前部分的に記事を書きましたので、こちらをご参照ください。

国際情勢を読み、ウズベキスタンから世界一周再開

シルクロードの十字路

 シルクロードの十字路、青の都にやって来ました。8か国目日本、9か国目韓国を経由し、ウズベキスタンから世界一周を再開しました。
 街を歩くと行き交う人に契丹人かと聞かれます。契丹人と検索するといい感じの服を着ている人たちが出てくるので、そうだと答えたり、ヤポンヤ(日本人)だと答えたり、モンゴリヤだと言ってみたりしていますが、どのパターンも温かく歓迎してくれるとても心地のいい国です。さすが十字路。

国際情勢を鑑み

 ここに来た目的は青の都を満喫することは勿論、隣国のアフガニスタンへの最も現実的な経路を切り開くこと、そしてデモという「点」から革命という「面」に移行しつつあるイランについて近隣諸国の認識を探ることです。

 ウズベキスタン側の国境県はテルメズ、アフガニスタン側の国境県はマザーリシャリーフで、その間を両国の友好橋が繋いでいます。その橋をウズベキスタン運営の鉄道が走っていて、ウズベキスタンから国境を越えた目と鼻の先に、サマルカンドやイスファハーン、そしてイスタンブールにも勝るとも劣らないブルーモスクがあります。
 このブルーモスクがある町マザーリシャリーフについて、またこの町への行き方などについての情報は皆無に等しく、ウズベキスタンの首都タシケントにあるアフガニスタン大使館にて情報収集に努めましたが、ビザ申請要件などが今満たせるものではなく断念しました。また現在友好橋経由での陸路国境越えはできないとのこと。ここの国境越えが可能であれば、ウズベキスタンに無査証入国可能な日本人にとってテルメズから日帰りが可能で、バーミヤン石窟無き今、マザーリシャリーフ単体に的を絞った渡航でひとまずは十分だと踏んでいました。
 国際社会から正式な政党として認められていないタリバンの外面がいいという現地情報など、今が行き時だと判断した理由は複数ありますが、割愛します。


仏教が根付いた後にイスラム教へ

1世紀~3世紀にテルメズで描かれた壁画。タシケントのウズベキスタン国立歴史博物館蔵。
1世紀~2世紀テルメズ。タシケントのウズベキスタン国立歴史博物館蔵。

 テルメズを始めウズベキスタンやアフガニスタンも元々は、インド周辺で仏教美術を華開かせたクシャーナ族の活動領域です。現在はサマルカンドを中心とした青の都のイメージが強いウズベキスタンですが、歴史的に何度も繰り返された破壊行為以前はこの辺りも仏教美術で溢れていました。上の2枚目の写真は、インドのアジャンター石窟寺院でみた壁画やスリランカの天空宮殿シーギリヤで見たほぼ同時期の壁画とも類似していて、当時同じ文化圏内であったことがわかります。
 インドの仏教思想と古代ローマ・ギリシャの彫刻技術を融合させたクシャーナ族の活動については以下の記事をご覧ください。

 仏教が根付いた後に偶像崇拝を禁止してるイスラム教が広がったため頭部など上半身が破壊されていることもしばしば。アフガニスタンでタリバンが破壊したバーミヤンしかり、シリアでイスラム国が破壊したパルミラしかり、このような悲劇は今に始まったことではありません。


美術を破壊する意味

信仰対象を変えるとき

 上述したバーミヤン石窟の破壊とパルミラ遺跡の破壊はイスラム過激派によるジハード(聖戦)として、アッラーが唯一神であることを主張し布教するために行われたものです。異教の神々を象徴する偶像やそれを祀る建築を破壊しています。
 これは時代を遡っても、この周辺地域では脈々と行われています。

 712年サマルカンドはイスラム系勢力のアラブ軍に征服されました。イスラム教が強制的に布教されたのはこの時です。モスクを多数建築し、民家にアラブ軍人や役人を常駐させて布教に当たり、従わなければ人頭税を徴収していたようです。後述する金に目がないソグド人は抵抗を続けました。おそらくこの頃既に仏教美術の多くが破壊されています。

征服者が変わるとき

 そして1220年にはイスラム系勢力ではないチンギス・ハン率いるモンゴル軍の攻撃を受け、サマルカンドの街は徹底的に破壊され廃墟となりました。今の2代目サマルカンドはその約150年後にティムール王が復活させたものです。廃墟となった初代サマルカンドの街はアフラシャブの丘を拠点としていて、現場には何も残されていません。極わずかに残された壁画がアフラシャブ博物館に展示されています。

アフラシャブ博物館の壁画
アフラシャブ博物館の壁画

 チンギス・ハンは攻めた国のすべてを徹底的に破壊します。建築も壁画もすべて。このパターンは、イスラム系勢力による聖戦的破壊とはベクトルが違います。
 国の威厳、権力は、その国の技術や財力などを結集させた美術に象徴されます。そういった美術を破壊することはその国の誇りを、その国の在り方を否定し破壊することになります。チンギス・ハンでなくても、征服者たちがほぼ必ずすることが美術の破壊または略奪です。破壊は聖戦のように信仰の修正。略奪は自国での活用、また征服者として権力を誇示するためなどです。

現在まで破壊を免れたのが文化遺産

 一方で、人為的にも自然的にも破壊を免れて現在まで保存されたものは文化遺産として国の宝となり、誇りとなります。
 2022年12月現在、ルーブル美術館でサマルカンド展が開催中で、ウズベキスタン歴史博物館所蔵テルメズのガンダーラ仏とアフラシャブ壁画の一部が貸し出し中です。文化遺産の貸し出しは博物館の貴重な収入源でもあり、外国に宝を自慢できるいい機会でもあります。


教育機関としてのイスラム建築

サマルカンドの文化遺産

 サマルカンドにある綺麗な建築物は大体が神学校やモスクなど宗教教育機関、またはお墓です。
 特にレギスタン広場の3つのイスラム神学校マドラサでは、各時代の名のある学者たちが教育を行っていました。主に力を入れていたのは宗教教育でコーランなどアッラーの教え、イスラム法の枠組みと内容などですが、他にも数学、地理学、歴史学、科学、薬学、音楽、論理学、詩学、会計学、文学、アラビア語など各種教科もありました。
 ウズベキスタンにおいてマドラサは教育と科学の発展に大きな役割を果たしていて、多くの学者や芸術家を輩出しています。

 ウズベキスタンにおいて、またイスラム圏において、マドラサはまさに知の女神ミューズに捧げる館、ミュージアムの原型と言えます。宗教についてだけでなく、当時の社会を生きていく知識を、知恵を学ぶ場所だったのです。
 ミュージアムの原型について詳しくは以下の記事をご覧ください。

 古代ギリシャの場合は知の女神ミューズの偶像ありきでその捧げ物として宝物や装飾品があり、後に場所を変えて展示されたのが現在の博物館です。
 一方でイスラム教の神学校マドラサの場合、偶像はありません。コーランは文字または歌だからです。そのため紙面の文字情報に関する読み書きを教えること、学ぶことが必須となります。マドラサではアラビア語やイスラム書道の授業もありました。

 被支配者層に教育を受けさせない方が都合がよかった他の宗教圏とは対照的に、布教時に読み書きなど最低限の学力、特に語学を身につけさせる必要のあったイスラム圏。教育方法、カリキュラムの早期確立も喫緊の課題でした。


読み書き在りきのイスラム美術

美術が生まれる経緯

 人類の歴史上、文字は最初岩の壁面に、次に陶器に、鉄器に、続いて動物の毛皮に、そして紙に書かれるようになりました。
 読み書きが重要なイスラム圏で紙が重宝されたのは言うまでもなく、質のいい紙づくりも盛んで、8世紀半ばから19世紀半ばまでサマルカンド製の紙が各国に輸出されていたようです。
 たしかにコーランと言えば、上質な紙面に美しい文字が書かれ、その周りには緻密で華麗な装飾が施されています。

コーラン トルコ・イスラム美術博物館蔵(イスタンブール)

 古代エジプトなど絵が文字情報を代替する文明では、型を忠実に再現できる絵描きが最も優れた職人兼アーティストとして重宝されました。一方イスラム圏では文字を書きます。重宝されたのは絵描きではなかったでしょう。その美しさで名を馳せている青の都にも壁画は見られません。
 文字の読み書きができない庶民のための施策として美術が発達したという経緯が、マドラサを中心とした街づくりには当てはまらないのです。紙面上にも街中にも、あるのは緻密なアラベスク模様と美しい書体の文字のみです。

サマルカンド シャーヒ・ズィンダ廟群
サマルカンド シャーヒ・ズィンダ廟群

語学力を活かした文化の担い手

 語学力の高いサマルカンドに、当時拠点を構えていたのは商才に長けたソグド人。住民たちの精神的な拠り所であるマドラサやモスクには人が集まるため、隣接してバザールを設けていました。『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘はソグド人について、金儲けには目が無くすぐに人を騙す、と言っています。
 ソグド人はイラン系民族で、サマルカンドを拠点としてシルクロードでの商業活動に従事していました。彼らの話すソグド語はインド・ヨーロッパ語系でシルクロードの公用語となっていたようです。この武器を活かし、商業活動から文化交流の場へも活躍の場を広げていました。


シルクロード名物?の追い剥ぎ

 商業活動の道シルクロードは文化交流の道でもあり、戦争の道でもありました。追い剥ぎに遭うことや山賊に遭うこともあり1人で目的地に達することは困難だったためキャラバン(隊商)が組まれたとのこと。
 現在ウズベキスタンでの旅路は、案内標識が少なく、あってもロシア語表記などで人に聞く場面が多めです。別の人に引き継ぐときもあり、「あとはお前に任せても大丈夫か?ほんとに信じていいんだな?こいつのことを騙そうとしてるんじゃないだろうな!?頼むぞ!」と出会ったばかりの外国人、1旅行者のためにウズベク人同士で本気で怒ってくれるほどの優しさも見せてくれたりします。
 これは上記のような背景が実際にあるからでしょう。隣国アフガニスタンでは、都市間の陸路移動時に最もそのリスクが高まると言われています。どの国にも観光客から金をだまし取るときのパターンが少なからずありますが、ウズベキスタンでは今のところどのパターンも感じません。
 十字路であるがための寛容さと、教育を重視するお国柄がそうさせているのかもしれません。


参考文献

萩野矢慶記『ウズベキスタン・ガイド』彩流社 2016
矢巻美穂『はじめて旅するウズベキスタン』辰巳出版 2019

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