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世界一周5か国目:ネパール美術(2022年9月9日~9月22日)

インド→ネパール→ブータン入国を断念

 インドでは入国後すぐ警察に捕まりかけるなどトラブルの嵐でしたがなんだかんだ乗り越えて出国し、ネパール入国しました。ここでのお目当てはネパール最大の祭りの1つ、インドラジャトラ。入国日が初日で1週間ほど続きます。
 9/23新規観光客受け入れ開始のブータンに照準を合わせてこの進路で来たのですが、元々ハードルが高いブータン入国がコロナによる規制改定で2泊3日でも20万円はかかるという状況に。
 一方で大統領逃亡によりもう行けないと思っていたスリランカに最近行った人によると、治安はむしろ以前よりいいとのこと。

 メディアと規制改定に振り回される世界を回ることの難しさを日々痛感しながらも、やっぱり来てみたら来てみたで休む暇を与えてくれないくらい美しいもので溢れている現実を見ているその乖離に、余計なフィルターで覆われてる「現実」も垣間見てます。
 目の前のインドラジャトラも楽しみつつ次の一手を悩んだ2週間でした。

チベット文化圏でよく見られる、お経などが書かれたカラフルな旗タルチョ

カトマンズ

カトマンズ盆地

 世界最高峰の山々ヒマラヤ山脈を背後に、天然の要塞とも言える地理的条件下で神秘的な文化が集積したカトマンズ盆地。
 遡ること1億年以上前、アフリカとインドは陸続きでした。インドとアジアが海で隔てられていて、地殻変動によって徐々にインドプレートがアフリカから離れアジアの方に近づき、アジアプレートとぶつかったときに隆起してできたのがヒマラヤ山脈です。そのためヒマラヤ山脈ではアンモナイトが大量に出土するとのこと。
 インド人は南に行くほど肌の色が黒く、北に行くほど白くなります。それはこのことと無関係ではないでしょう。

 以上のような経緯でできた盆地がカトマンズで、ネパールの文化の中心地です。三王国の都が乱立した当時の宮殿跡がそれぞれ名所となっていますが、中でも重要なのはハヌマーン・ドーカ・ダルバール広場。ヒンドゥー教と仏教双方の寺院や神社が建ち並びます。12世紀から18世紀建立で、どれも緻密な彫刻で装飾されています。信仰心に厚く高い文化を持つネパールの人々を象徴する広場です。

カトマンズ・ダルバール広場

ネパールの祭りインドラジャトラ

 入国日から1週間続いた祭りインドラジャトラ。ジャトラはサンスクリット語で旅を意味するyatraに由来します。神々が街中を旅する特別な期間で、朝から晩まで市内各地で仮面舞踊などが繰り広げられます。
 日本の阿波踊りと同じで多数の連のようなのがあり、面白そうな音がする方に行くという楽しみ方でした。

 神々に扮した人々による仮面舞踊が各地でゲリラ的に行われます。上の映像1つ目はヒンドゥー教の最高神の1人シヴァ神が姿を変えた一形態、バイラヴを中心に、悪魔を引き連れた仮面舞踊です。
 バイラヴはネパールで祀られる数多くの神々の中でも特に厚く信仰されていて、至る所に彫刻や絵画が見られます。これら広場内にあるバイラヴに対し、インドラジャトラ期間中はプージャも捧げられます。チベット仏教特有の曼荼羅を穀物などで作って燃やし、豊穣を祈願します。このプージャの残骸はダルバール広場各地に炭となって残り、他の場所ではまた新たな火と煙が立ち上り、祈りが捧げられている様子を五感で感じます。

 バイラヴはシヴァ神が破壊神と化した姿ですが、シヴァ神は破壊と創造をつかさどるとされる神です。穀物で曼荼羅を創り燃やすことで破壊し、破壊することで新たな創造を祈願する流れにおいて、バイラヴは欠かせない存在なのだと思われます。

プージャが捧げられた後

 このバイラヴもといシヴァ神、その妻であるパールヴァティの一形態ドゥルガーとバイラヴが対になる状態で絵画や彫刻に表現されることが多く、ドゥルガーはネパールの守り神タレジュと同一視されています。

ドゥルガー(左)とバイラヴ(中央)

 このタレジュが身体に宿る生き神として祀られているのがクマリです。特定の地域限定で祀られる複数のローカル・クマリと、全土で祀られる唯一無二のロイヤル・クマリが存在し、ここカトマンズのダルバール広場にいるのがロイヤル・クマリです。

 そしてそのロイヤル・クマリを一目見ることが叶うかもしれない千載一遇のチャンスが、神々が街中を旅するインドラジャトラなのです。


生き神クマリ

クマリに遭遇

 複数いるクマリの内、最高位のロイヤル・クマリ。カトマンズのハヌマーン・ドーカ・ダルバール広場内クマリの館に住んでいます。

 インドラジャトラ最終日、遂にクマリに遭遇しました。ネパールで最も神聖な存在、神として崇められる少女クマリ。上の映像や写真は奇跡的に撮影が実現した実際の様子です。見ることも簡単ではないクマリにおそらくここまで近づいて撮影した日本人は初ではないでしょうか。クマリの館に行った際には外国人は入れないと言われ諦めていましたが、たまたま遭遇してなぜか側近的な人に手招きされ撮影できました。

クマリ

山車で巡行中のロイヤル・クマリ。
このように沈黙している状態で拝顔できると幸運をもたらすとされている。

 クマリはヒンドゥー教の女神ドゥルガー、またネパール王国の守護神タレジュと同一視されています。32もの細かい条件を満たすネワール族から選ばれ、チベットのダライラマ選出方法と似ているようです。また仏陀はネワール族の中でも釈迦一族出身。クマリもこの一族から選ばれることが多いとのこと。
 つまりヒンドゥー教の神としても崇められ、仏教徒から選ばれ、その選出方法はチベット式となります。多民族のネパールを信仰を通してまとめ上げる唯一の存在です。実際に、王朝が変わった際にもクマリは存続し続けました。インドと中国という2カ国の間にありながら、この小さな国を国として存続させ続けているのは、きっとヒマラヤ山脈の存在だけではありません。

 クマリ選出方法の一例としては、初潮を迎える前かつ傷が無い少女であること、動物の生首などが並べられている部屋にいても泣き叫ばないこと、などがあります。初潮と傷については、出血によって女神タレジュが体外に出てしまうと考えられていること、また怖いはずの部屋の中でも動じなければ全てを見据える神として見なされ得るなどの理由があるようです。

 ネパールには史実を遡る史料が少なく、クマリの起源についてはわかっていません

クマリと天皇に見る共通点

 起源が明確にわからないということが、おそらくこの生き神信仰が現在まで受け継がれていることのポイントです。史実を遡れないため、神の力を宿すという伝承が歴史のように信じられてきたならば、この強固な文化的基盤にも納得です。
 その点、クマリは日本で言う天皇と同じ存在と言えます。史料が無いためネパールの古代史を辿れないという状況は、日本の古代史を古事記・日本書紀でしか辿れないという状況と重なります。これらは皇族の命によって8世紀初めに編纂されたもので、天皇が国民の象徴となる戦後まで、神として崇められていた所以とも言える書であり、日本最古の歴史書でもあります。

 神話と史実との境界が曖昧なことで、生き神クマリを神秘のベールで包むことがより可能になります。これがクマリなどの神話的伝統が今も力強く生きている理由だと思われます。
 王の戴冠式もクマリにより執り行わる慣習でしたが、2008年にネパール王国から共和国に移行してからは政治的行為は行われていません。この点においても大日本帝国憲法廃止以降の天皇の位置づけと似ています。

 インドラ・ジャトラ期間中のクマリによる山車巡行は、マッラ王朝1200年 - 1769年最後の王ジャヤプラカー シャ・マッラにより開始されました。その後1846年から1951年まで100年以上の鎖国を経て、現在に至るまでロイヤル・クマリに会えるチャンスでも在り続けています。

クマリの山車巡行を待ち構えるネパールの人々


ネパール美術の発展過程

ダルバール広場

ダルバール広場の寺社に見られる浮彫装飾
ダルバール広場の寺社に見られる浮彫装飾 拡大

 クマリを代々輩出する一族であり、カトマンズ盆地を定住地としているネワール族。建築、金銀細工、石細工、木細工などを得意とした職人たちでもあります。
 今でこそカトマンズの街中各地にネワール族の緻密な仕事を見ることができますが、ネワール美術が本格的に開花したのは13世紀のマッラ王朝に入ってからでした。マッラ王朝の下彼等が腕を振るった作品の数々がダルバール広場に見られます。信仰と共にあるネパールの人々の生活文化を広場全体に視覚化したような、広場全体が1つの作品となっています。
 モンゴルも同様に造形活動が開始されたのは13世紀以降です。きっかけは造形活動が盛んなチベット仏教など諸文化の流入でした。

ダルバール広場の寺社に見られる浮彫装飾

 クマリなどの信仰対象が生きている状態で存在しているために造形物をつくる必要がなかったことがその理由の1つに考えられます。着実に継承されているからそれを史料や造形物などにして後世に残す努力をする必要がなかったのかもしれません。
 そのため反って、他の国では古代の壁画に描かれているような内容の現象を、今この時代に目の当たりにできるネパールの特異性に感激でした。

ダルバール広場の寺社に見られる浮彫装飾
ダルバール広場の寺社に見られる浮彫装飾

"A nation stays alive when its culture stays alive"
 権利か文化か、様々に問題視されているネパール文化ですが、インドと中国という大国に飲まれること無く独自で在り続けているその軸に文化を感じ、それを目の当たりにした身としては、上記の有名な言葉が響きました。

文化遺産保存・修復や工芸品・お土産品に今も活きているネワール族の技術

ボダナート

チベット仏教のゴンパ内にある壁画

 1950年頃、中国に弾圧され逃れてきたチベット人たちが住む町ボダナート。カトマンズ郊外にあります。チベット仏教の寺院ゴンパが各地にあり、壁画が圧巻でした。

 服の柄、背景、動物の毛皮の毛並み、一筆一筆にかける気迫、画面上の全てにおいてどこにも手を抜いていません。画面全体を見て圧巻の壁画も、大体細部を見たらこれは金で雇われた人が役割分担させられて描いたなとわかる部分が必ずあります。しかしここに関しては、そう思える箇所は見当たりませんでした。

チベット仏教のゴンパ
明治時代に日本人で初めてチベット入国した河口慧海の記念碑。緑の戸で覆われていた。店主に開けてもらわなければ存在にも気づかない。
明治時代に日本人で初めてチベット入国した河口慧海の記念碑



ネパールのまとめ絵日記


参考文献

宮脇檀・中山繁信『神々と出会う中世の都カトマンズ』エクスナレッジ 2012
中原佑介『ヒトはなぜ絵を描くのか』フィルムアート社 2001
肥塚隆・宮治昭『世界美術大全集 東洋編 第14巻 インド(2)』小学館 1999
山口しのぶ『カトマンドゥにおける生き神信仰―多宗教・多民族共存の象徴としての「ロイヤル・クマリ」―』
太田満夫『ネパール 神々の住まう天空の国』光村推古書院 2002
ウィリアム春美『ぶらりあるき天空のネパール』芙蓉書房出版 2012
ラジャ・ラトナ・スタピット『素顔のカトマンドゥ』弦書房 2011


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