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「成長したい」に感じる気持ち悪さの正体

意識高い系と呼ばれる人たちは「成長したいです!いや、絶対に成長してみせます」みたいな呪文を唱えるのが大好きです。
自分は他のやつらとは違うんだ」という思いから、他の意識高い系の人たちと同じようにセミナーとかに毎週参加して、同じように「成長したいです」と唱え続けます。

私はそんな「成長したいです」という言葉選びにとても違和感があります。
その理由は、「成長」とは自らするものではなく他者にさせてもらうものだからです。

彼らの言う「成長」とは、草木や子どもが物理的に大きく育つ様子から派生して、精神の成熟やスキルの上達をすることを言うのでしょう。
しかし、草木や小さな子どもが自分から「成長したい」と思って育つものでしょうか?
彼らはただ与えられたものを吸収するだけです。
大自然や親が彼らを育てるのです。

そこに、「成長したいです」という言葉への違和感が生まれます。
「成長したいです」という言葉からは「ただ与えられたものだけを愚直に吸収して育ちたいです」という意味を感じるのです。
もちろん、意識高い系の人たちは「そんなことまで考えてその言葉を選んでいるのではない」と反論することでしょう。
でも、それこそが彼らの「ただ与えられたものだけを愚直に吸収して育ちたいです」という姿勢そのものなのです。
どこまでもどこまでも本気で死ぬ気で「成長」というものを求めている人間が、「みんなが使っているから」なんていう浅い理由で言葉選びをするものでしょうか。
突き詰めて追い求めて「成長」にいたろうと思っている人間が、そういう違和感をおざなりにするものでしょうか?
ただ愚直に「意識高い系」のマニュアル化された「成長したいです」ノウハウにしたがって、思考停止して愚直にただ労力をかけているだけだから、何の疑いもなく「成長したいです」なんて陳腐な言葉を使い続けるのではないでしょうか。

口だけでなく、本気で「成長」を追い求めている人間なら、「成長したいです」なんて他人任せなことは考えないで、 「自分で自分を成長させるためにはどうしたら良いか」と考えるべきです。
自分を最大限に成長させてやりたいです」という第三者目線であらゆる試行錯誤をするはずです。

それができるかできないかが、「他のやつらとは違う何者かになりたい」と思うだけで結局型にはまった意識高い系に分類されるだけの人生を歩むか、
そういう型をぶち破って本当に何者かになれる人間の分かれ道だと思います。
ただ栄養を与えられるだけの視点をぶち破って、自らが自らを育てる側に回ったのなら、「どういう栄養を与えるのがもっとも成長に寄与するのか」と、愚直に誰かが作り上げたマニュアルに従うだけのバカとは違う視点で、バカみたいに体力任せの無理をするだけではなく創意工夫をするようになるはずです。

たった1つの言葉選びにこそ、その人間の生き方や思考の歪みが色濃くあらわれるものだと思うのです。

でも、きっとそんな事を言ったところで、意識高い系のみなさんは愚直で頭ガチガチのバカなので、「『成長したいです』と言ってはいけないんだ」という有形のルールにばかり気を取られて、また今までと同じように成長を与えてくれる場所を探して「ここなら成長できそうだから」と自らは何の創意工夫もせずにただ時間と体力を浪費して「キチョウナオハナシアリガトウゴザイマシタ」「人生観が変わりました」と毎週唱えながら満足感を得て何も変わらぬ何物にもなれぬ人生を謳歌することでしょう。
そんなクソみてぇな邪教をぶち壊して彼らが一歩抜け出せる日が来ることを願ってやみません。

と、ただ焦るだけで空回りしていた頃のバカみたいな私に伝えたいなと思いました。

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