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「カサンドラ症候群」2023―後編―


大前提として

この記事を書くきっかけ

は、前編に書いています。前編はこちら↓です。

ASD当事者の方、カサンドラ症候群の方、カウンセラーの先生、様々な立場の方々からの意見を聴きながら、私がこの言葉を今後どう使うかについて考えたことを、まとめてみたいと思います。

私の夫と息子には、ASDの診断がついたことがあります。
誤解されたくない大前提として、私は「発達障害のある人はない人よりも劣っている」「発達障害者が悪い」とは一切思っていません
「カサンドラ症候群」という言葉を扱うだけでそういう誤解を招くことがあるため、大前提として最初に断言させていただきます。

ASDとは

自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害(ASD)は、「対人関係や社会的なやりとりの障害」「こだわり行動」という2つの基本特性がある発達障害です。ASDとは自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害の英語表記である、「Autism Spectrum Disorder=ASD」の頭文字をとったものです。

リタリコLIFE

発達障害とは

発達障害とは、生まれつき脳機能の発達の凸凹(でこぼこ)が激しく、その子の周囲の環境や人間関係とのミスマッチから社会生活上の支障が生じる障害のことです。

リタリコLIFE

私は、リタリコさんのセミナーに参加したことがあります。
「本人の脳に障害がある」のではなく、あくまで障害は「この社会で生きる上で発生するもの」という考え方を理念とされており、非常に納得しました。本人が悪いとか脳が劣っているとかではなく、「環境とミスマッチな時に困り感が出る」のです。

では、本題に入ります。


「カサンドラ症候群」の定義は

「カサンドラ症候群」という言葉は精神疾患の診断基準『DSM-5』には記載がなく、医学的な疾患名ではありません。なので、定義が人によって異なる解釈になってしまっているように思います。

インターネットで検索すると・・

WikipediaやGoogleの検索結果を載せます。

カサンドラ症候群(カサンドラしょうこうぐん、: Cassandra affective disorder)、カサンドラ情動剥奪障害(カサンドラじょうどうはくだつしょうがい、: Cassandra affective deprivation disorder)」とは、アスペルガー症候群[注釈 1]を持つ配偶者、あるいはパートナーと情緒的な相互関係が築けないために配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す言葉である[1]

Wikipedia

カサンドラ症候群とは、パートナーや家族などが発達障害の一つであるアスペルガー症候群(ASD)のために、コミュニケーションや情緒的な相互関係を築くことが難しく、アスペルガー症候群の人の身近にいる人に不安や抑うつなどの心身の不調を来す状態のことを言います。

大阪メンタルクリニック梅田院

カサンドラ症候群は、家族やパートナーが自閉スペクトラム症(ASD)であるため、うまくコミュニケーション等がとれず、心的ストレスがかかることで不安障害や抑うつ状態といった症状が表れている状態のことをいいます。

LITALICO仕事ナビ

様々な言い回しの中でも、ほとんどの検索結果のページの説明において、
・パートナー(等)がASD
・コミュニケーションや情緒的な相互関係の難しさにより
・心身に症状が出る状態のこと
は、共通で説明されている点でした。

(私はずっとこれが正しい定義だと思ってこの言葉を使ってきました。)


いただいた意見への考察

1.「ASDでも起こるよ」

「カサンドラ症候群という状態はASDの人にも起こりうることです」というご意見をいただきました。私ももともとそう思っています。そもそも、定義を検索しても「定型発達者限定で起こること」という説明はどこにも見当たりません。ASD者が同じ苦悩を抱えるケースがある、当然のことです。

ASD特性により心がとっても鈍感な人もいればそうでない人もいます。
・ASD(情緒交流苦手)×定型発達をイメージしがちですが、
・ASD(情緒交流苦手)×ASD(情緒交流ほしい)も当然あり得ます。

情緒交流の難しさによって起こる「カサンドラ症候群」という状態は、「ASD者だから起こらない」と言い切れるわけがありません

2.「相手がASD以外でも起こるよ」

「カサンドラは相手がASD以外のコミュニケーション困難でも起こり得る症状です。適応障害だからです。」というご意見もありました。

確かに、適応障害はASD者との関わりに関係なくいろんな場面で起こります。ただ、「適応障害のことをカサンドラ症候群と呼んでいる」という認識は、ちょっと違うのではないかと私は思います。

定義に「ASD者との」が含まれるのであれば、起こった症状が同じだとしてもそれは「カサンドラ症候群」とは呼ばない、という考え方もできます。どの「定義」を参照するかの話になります。私が思っていた定義は、「ASD者以外との間に起こるコミュニケーション困難による適応障害」とは全く別の物でした。(あくまで「私が」です。)

ただ、同じような現象でも「ASD以外」とカウントされるケースとして、下記はあると思います。

①その「ASD以外」と言われている相手が、「困り感満載であることを隠して定型発達者として生きている人」なのかもしれない。病院へ行くことを嫌がる人、たくさんいます。診断がついていないので「ASD以外」に分類されます。

②その「ASD以外」と言われている相手は、社会で適応できてきたがために「ASD」という診断は不要だったのかもしれない。家庭に属した瞬間にその環境とのミスマッチで「ASDの困り感」が出てきたというケースもあろうかと思いますが、ずっと社会で適応できてきた優秀なその人は、「ASD以外」です。

③また「失感情症/アレキシサイミア」の方もASD者のような難しさを抱えることがあるようです。それによって「心の通じなさ」を感じるパターンもあり、それを「カサンドラ状態」と感じる方もいるのではないかと思います。

Wikipedia等には「ASD者との情緒的な相互関係が築けないために―」と書かれていますが、未診断の方のこと等を考えると、それ以外もあると言えばあるのだと思います。

3.「名前を変えてほしい」

カサンドラという言葉はASD差別の印象がついてしまったので、「アスペルガー」が「ASD」になったように、名前を見直すべきだという意見もありました。

カサンドラという言葉を使わずに別の言葉でこの状況を表したとしても、この言葉の扱いに気をつけなければまた同じルートを辿ることになりそうだし、「適応障害」と言ってしまうと、この限定的な言語化の難しい悩みに対して「同じ悩みを持つ人」と繋がったり共感しあえたりすることは難しくなってしまいそうです。

自助グループや回復プログラムでは当然行われているような二次被害を生まない工夫の面で、「カサンドラ」はまだそのノウハウが弱いという側面の指摘もありました。SNS上でそれについて語る時には、十分な配慮がないと被害が連鎖する。いや、配慮していても連鎖する。その視点が私自身も抜けていたと感じます。被害の連鎖を生まない工夫が必要。その通りだと思います。

4.「言葉の再定義が必要では」

「カサンドラとは」という概念がとっ散らかっているという意見もありました。私もとてもそう思います。人によって「カサンドラ症候群」を色んな意味で使っているように思います。


SNS上での現状《言葉のひとり歩き》

先ほど「カサンドラ症候群の定義」を挙げましたが、そこからは外れているのではないかという使われ方について、あくまで私個人の視点として挙げてみます。
※「そのつらさ」を否定しているのではなく、「そのつらさは確実にあるが、それは本当にカサンドラ症候群というものの定義に当てはまるのか?」という印象を私が持つものです。つらさの重い軽いの話では全くないです。

①「わかってもらえないつらさ」

「わかってもらえない、周りから理解されない」は、その名の由来となった「誰にも信じてもらえなくなるという呪いをかけられてしまったカサンドラ王女」のギリシャ神話によるものです。

ここだけを言葉の文字通りに捉えて定義にしてしまうと、例えば友達もいなくて頼れる親族もいない場合にも「誰にも私のつらさをわかってもらえない」になります。つまり、【優しい親さえいればわかってもらえたのに】というケースまで含まれてしまいます。優しくてどんなに理解のある親がいても、それでもどうしても理解されないような、そんな苦しみがあるのではないかと思います。

②「発達障害の家族がいるつらさ」

「発達障害の家族がいること」によるつらさは、いろいろ起こります。

例えば、
・子の発熱時にゲームに熱中してしまう
・おっちょこちょいな伝達ミスが頻繁に起こる
等々。

いろんなつらさは確かにあります。が、「情緒的な相互関係が築けないため」という限定的なつらさからは外れているものも多いように思います。

③「パートナーの二次障害によるつらさ」

発達障害を抱えて生きてきた方には、二次障害を抱える方も多いです。
特に、結婚ができるほどに魅力的なパートナーには「生きづらさを抱えながらもめちゃめちゃ頑張ってきた」という方が本当に多いです。今まで苦しみながら頑張ってきた過程で二次障害を抱えているというケースがとても多いと感じます。

その二次障害により、ASD特性と直結しない部分についてコミュニケーションのトラブルが起きる夫婦も多いように思います。

わかりやすい例で
・暴言を吐く
・DV
等。

これは起こりうるつらさではありますが、本来「カサンドラ症候群」として語られるつらさとは別のものではないかと思います。

④「思い通りに夫が動かないつらさ」

ASD特性のある人には、こちらの想定しない行動ばかり取る人も多いです。が、それが繰り返されるうちに妻側のストレスがどんどん積み重なり、「私の思い通りに動かない」という全てのことについて「カサンドラ症候群」という言葉を使ってしまうというケースもあるのではないかと思います。
「普通こうでしょ」の押し付けと「カサンドラ症候群」は、全く違うと思います。

⑤番外編「カサンドラという名札」

一部で起こっているように見えるのが、BIOに「カサンドラ症候群」とついていたり過去に「カサンドラ症候群」と名乗ったことのある人の愚痴や嘆きについては、全て「カサンドラ的な悩みについての発言」だと捉えられてしまう問題。

「カサンドラ症候群でありながらDV被害者でもある」ということも起こりうると思うのですが、「私は今日夫に殴られて悲しかったよ」と呟いたときに、「カサンドラはASDを悪く言う人間だ!!」という反発が起こったり、しています。

「カサンドラ症候群でありながら頭痛持ちである」ということも起こりうると思うのですが、「今日は頭痛がひどかった~」と呟いたときに「何でもかんでもASDの夫のせいにするな!!」という反発が起こったり、しています。

なぜこんなに悲しいことが起きているのか。
私は、少し立ち止まって考えてみようと思いました。


過激な発言をする人について

カサンドラ症候群を名乗る人にも、ASD当事者の方にも、時々見受けられる「過激な発言をする人」について、私はとても問題だと思っています。

「ASDしね」「ASDは消えろ」「カサンドラは殺人者」「カサンドラは差別主義者」・・・いろいろな発言をする人がいます。

その発言に至るまでの苦しみがあったのかもしれない。
そう言わずにはいられない加害を受けた過去があるのかもしれない。

でも私は、「属性を一括りにしてSNS上で過激に批判する」は、あってはならないことだと思います。今苦しんでいる無関係な人が、更なる傷つきを負います。それは、あなたがつらい段階だからってやっていいことではない。やられたからって、やっていいことでもない。


「カサンドラ症候群」の正体とは

苦悩が「そこだけ」の人はかなり少ないのではないか

なぜなら、
・困り感が「ASD部分のみ」の大人が少ないと思うから
・本人もまた別の問題を抱えている場合があるから
・発達障害育児に奮闘中の方も多いと思うから
・日々を一生懸命過ごすだけでも大変な世の中だから

そして
「そこだけの段階」ではなかなか気づけないことも多いと思います。
拗れて拗れて拗れた結果、やっと気づく方も多いと思います。

共感者とつながるメリット

「そういえば子育てってこういうところが大変だよね」
「あーわかる!うちも昨日こういうことがあってさ」
と、話が多岐に発展していくこと、よくある話です。

共感できる部分は「カサンドラの定義」の部分だけではないのです。

繋がって共感を得てそういう雑談をすることによって自分自身の息抜きになり、そのおかげで家庭で夫に優しくできることがあるという実感が、私にはとてもあります。

SNS上の姿と実態の差

SNS上での姿は「その人の全て」ではないです。
SNSで「夫ほんとむかつく」と呟いたその人のその瞬間の発言だけを見てその人の人格まで想像して全否定するようなSNSの閲覧の仕方をしてしまう側に、心の問題や心の奥底の苦しみがあると思います。

私も「夫ほんとむかつく」と思う瞬間はある。
夫も「妻ほんとむかつく」と思う瞬間はあると思う。
それをSNSで呟くぐらいどうぞと思うし、私もします。

その数時間後には仲良く手をつないでいるかもしれない。
深い愛情があるからこその「むかつく」かもしれない。
そんなことを呟きながらも幸せな夫婦なのかもしれない。

SNS上の片方の発言だけでその夫婦の関係性までを他人が判断することは、どう考えても無茶です。


「私は」どうするか

前編で伝えた通り、私には「カサンドラ症候群」の定義を変える力はありません。でも、「自分がこの言葉をどう使うか」は自分で選べます

定義からズレているように見える人に対して

「併せ持つ可能性」を考えると、「あなたはカサンドラ症候群ではないのでは?」といちいち指摘をするのはナンセンスです。そのつらさも経験した上での他のつらさも併せ持っていると考えるほうが自然です。

SNS上の「過激派」について

棲み分けます。それしかない。

お互いに「差別者」「ルール違反」「誹謗中傷」と捉えられるものについては粛々と通報で良いと思います。(私の考えです。)

多分ですが、「カサンドラ症候群」という言葉をこの世からなくしたい人の苦悩は、「カサンドラ症候群」という言葉がなくなったとしても解消されないです。

多分ですが、「ASD消えろ」と発言する人の苦悩は、この世からASDが消えたとしても解消されないです。

とはいえ無関係な人を傷つける可能性

もちろん、気をつけます。
ただ、私がどれだけ気をつけても防げないこともあることは事実です。

私が「ケーキを食べました」と呟くだけで、
・ケーキアレルギーの人が傷ついたり、
・ケーキを食べられない経済状況の人が傷ついたり、します。
そこは私の範疇ではない。私の力ではどうにもできない。線を引きます。

私がカサンドラ症候群なのかどうか

たぶんそうだと思います。もちろん自称です。
「違うだろ」と言われたら「そうかもね」という程度の、自称です。

定義が医学書に書かれていない。「これに当てはまればカサンドラ」という公式チェックリストもない。なので、みんな「自分が思うカサンドラ症候群に該当している」でしかない。みんな自称です

「あなたの思うカサンドラ的なつらさ」と「わたしの思うカサンドラ的なつらさ」が必ずしも一致しない可能性は大いにあります。

言語化できないような誰にもわかってもらえないようなつらさのことなので、「私が思うのはこんな感じ!」とは感じますが、それが相手の思うものと一致しているかどうかは確かめようがありません。

でも、「なんか寂しい感じだよね」の部分で共感できたり、全く別の日々の軽い愚痴の部分で共感できたりということは、それぞれの家庭や夫婦関係においてプラスに働くことも多い。この共感の場がなければ、私は夫のことをもっとつらい言葉で罵っていたかもしれません。私にとっては「カサンドラ症候群」というものを自称することでプラスに働いた部分は、確実に存在します。

今、私は幸せです。
自分の思う「カサンドラ症候群」のつらさを感じる瞬間は、あります。
でも、幸せです。

その語をSNSで使うことのリスク

みんながSNSの基本的なマナーを守って健全にSNSの利用ができれば良いのですが、そうもいかないのが現状です。

「非公開の場でやって」の声に即対応して非公開の場を作ると「非公開にしたことによって差別発言が飛び交っていないという潔白が証明できない状況を作った」とか言われるのがSNSです。

これは界隈に限った話ではありませんが、
SNSはいろんな人がいるということをわかった上で使いましょう
・自分の心は自分で守りましょう
でしかない。私はこれを徹底します。

最後に、私にできることとは

私は「カサンドラ症候群」の状態がつらかったです。自分が自分ではなくなっていくような気がして、苦しかった。こんなはずじゃなかった。

これまでに述べてきた通り、「自称カサンドラ症候群」の皆様は、個々にいろんな苦悩を持ち併せている可能性も高く、またそのパートナーさんも色々持ち併せている可能性が高いです。

よって、「この方法で楽になるよ~!」というマニュアルは、誰にも作れない。個々で異なった道筋になるはずです。

私は自分のつらい時期がつらすぎたので、今つらさを感じている人の心が少しでも軽くなったらいいのにという思いがとても強いです。私の発信が参考になる人は是非受け取ってご自身の人生に活かしてほしい。もちろん、全然参考にならないよという人もいて当然だとも思います。全員に好かれようとは思っていない。参考になるよと言ってくれる人がたった一人でもいれば、その人のために私はできることをします。

だらだらと一気に書きなぐりましたので、長くなりましてすみません。

言いたいのは、これだけ。

「私があなたがカサンドラ症候群かどうかは別にどちらでも良くて、
 ただ、がんばっているあなたの心のつらさが軽くなることで
 あなたもあなたのパートナーも幸せになれたら、私もうれしいです」

ASD特性のあるパートナーとの暮らしで、何か寂しさのような言葉にできない孤独感や虚無感を感じていても、あなたは決してひとりではない。
情緒的な温かさを必要とするあなただからこそこの言葉に辿り着いていて、あなただからこそこの部分につらさを感じています。
あなたが大事にしたいところはしっかりと大事にしながら、幸せを感じられる人生を送ることを、私は心から応援します。

aromi

サポートしようかななんて思ってくれたことに感謝します✎𓈒𓂂𓏸 もしもサポートしていただけたら、 辛い思いをしているカサンドラさんの心休まる場所を作りたいな𖤣𖥧𖥣𖡡𖥧𖤣