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【母方ルーツ#8】 釜石への祈り 後編 〜100年前の伝言を受け取る〜

今日は祈りの日でしたね。
それぞれの記憶の中に、あの日があることでしょう。
私自身も11年前のあの日、震度6強の揺れを経験することとなりました。
最近はようやく地震の夢を見ることも無くなりました。
辛い記憶も語り継いでいくことの大切さを身をもって感じることとなりました。

私のルーツの一つ、岩手県の菊池姓につながるお話、完結編です。


明治三陸津波の死者を追弔するために鋳造した銅像


曖昧な口伝に始まった先祖の銅像探しはここに着地することなりました。

菊池市蔵は文政12年生、私の五世代前の祖父です。

明治三陸津波があったのは明治29年(1896年)、今から120年以上前のことです。

中でも釜石地区の被害は甚大だったようで、市誌によると釜石町釜石は人口5274人のうち3323人が命を落とし、全戸数の8割に当たる791戸が被災とありました。

明治の頃は「地震が起きたら津波に備える」という発想をする人は少なく、津波が間近に来るまで気づかず、多くの命が奪われたとのことでした。

それ故、三陸海岸沿いには追悼の言葉とともに、明治三陸津波の教訓を次世代に残そうとその惨状を伝える文言が添えられているのだそうです。

それらをまとめたサイトがあり、ここでその像を見ることができました。

釜石市大只越町の石応禅寺にある向かい合う2体の青銅製延命地蔵菩薩像。

これこそが、口伝の銅像であり、明治29年の三陸沖地震津波の七回忌に当たり、石応寺と住民有志が建立したものでした。

その仏像の背面に添えられた碑文にもまたメッセージが刻まれ、建立に至る経緯が述べられています。

当時は「津波」ではなく「海嘯(かいしょう)」と呼ばれていました。

鑄造海嘯惨死者追吊紀念銅像之記

明治二十九年六月十五日海大嘯怒濤襲三陸沿岸其被害之所及
南北数十里死傷無算蓋本邦未曽有之大惨事也
然而陸中國釜石町披害最激甚曹洞宗石應寺
青銅製延命地蔵菩薩像背面碑文

上記のような形式で記述されているため、
以下に意訳文を引用します。


(碑文の意訳) 
大津波の惨死者を追弔する記念銅像を鋳造した記
明治 29 年 6 月 15 日、大津波が三陸沿岸を襲い、その被害は南北数十里に及び、数知れない死傷者を 出す未曾有の大惨事となった。陸中の国・釜石町の被害は最も激甚であり、曹洞宗石応寺の檀信徒ほか 同町の住民で溺死した者は実に 2,963 人であった。その中には、一家全員が死亡し、親族や姻戚もない者がおり、また遺体の数も非常に多かったため、二大合葬地を新設した。一つは石応寺境外の字唯越で 合葬者 700 人余り、もう一つは旧石應寺境外の字仲町で合葬者 220 人余りである。今、その第七回忌に あたり当時の惨状を思い起こし悲哀の情を禁じ得ない。
ここにおいて、永沢亀吉、金沢八弥、和泉安五 郎、岩館記平、菊地市蔵、浅田弘二、金沢トヨ、岩館マン、川畑マツホ、大巻チエ、岩間フジノ、岩館 キミ、近江タケ、長沢フクエ、町崎ヤエ、石応寺代僧の沼田雲門らは、同志から寄せられた拠出金を使 い、惨たらしく死んでいった者の慰霊の追弔、併せて祈念をするため、東京の鋳物師・西村和泉の鋳造 による青銅の延命地蔵菩薩像 2 基を二大合葬地に設置することとなり、その工事が完了した。主任が石鷹寺住職・菊地智賢師に委託してこのことを記した。
                          明治35年7月7日
岩手県津波被害・石碑広域マップ

同公園内には他にもいくつかの碑文が残されています。

長くなるので、ご興味ある方だけご覧いただければと思います。

120年前、映像記録として残すことができなかった時代の先人たちが、未来に生きる我々子孫へ伝承するため残したメッセージです。


(碑文の意訳) 
明治 29 年丙申 6 月 15 日午後 8 時、突如雷のごとく耳をつんざく轟音とともに巨大な津波がわき起こり、逆巻きながら押し寄せた。樹木はなぎ倒され、家屋は漂流し、人や家畜は悲鳴を上げながら浮き沈 みするなど、凄絶な有様であった。あっという間に海も陸も壊滅し、名状し難い惨たらしい光景となっ た。この日はちょうど陰暦の端午の節句にあたり、朝から小雨が降り、霧が立ちこめてぼんやりと暗い 中、弱い地震が数回あった。家々では家族や友人が集まり酒を飲むなど歓談、団欒の時を過ごしていたが、多くは水死してしまった。万死に一生を得た者は、腕を挫かれ、足を砕かれ、たちまち孤独になり、 家も衣服も食物もなく、病苦に呻き、雨露に曝され、死ななかったことを却って恨み、悲しみのあまり 声を上げて泣いたことは悲惨の極みであった。被災した家は 841 戸、溺死者は 2,979 人であった。海神は大声で怒り 目の届く限り痛ましい有様となった 家屋は没し 民の命は奪われた天皇におかれては その徳はあまねく 生者は愉しみ憂え 死者は■せず 實信が文章を作り、これを書いた。
      明治35年6月 津波被害の7周年にあたり、釜石町がこれを建立した。
岩手県津波被害・石碑広域マップ
水や火の凄まじい災に見舞われた死の惨さは甚だしいものであった。ましてや数万の屍があたり一面にあるなどは惨たらしさの極みである。
三陸の地の東側には海が果てしなく広がっている。明治 29 年 6 月 16 日の夜の初め、小雨が降り暗雲が海を覆うと突然波が万雷のごとく立ち騒いで漲り溢れ、轟音とともに山は崩れ、石は避け、木は抜かれた。驚くべき不吉な勢いは南北数十百里に及び、青森、岩手、宮城の三県はその害悪を酷く被った。千万の家々が一瞬にして流され、父子兄弟は引き離され、夫婦や友人たちは葬られ、魚が腹を出すように、または見え隠れしながら漂った。死者は弔われることなく、生者は家や衣類食物がなく、老人・幼児・病人は衰弱した。万死に一生を得たとはいえ却って酷く傷つき、大いに嘆き悲しんだ。

甚大な被害を受けた岩手県釜石町に田中製鉄所があり、その職員や工夫およびその一家の溺死者は 103 名であった。生き残った同僚たちは痛悼の情を禁じ得ず、東京本店と大阪支店の皆とともに、石応寺境域において招魂と追弔をもって冥福を祈るため石碑を建てることにした。寺主・智賢長老にお願いして切なる思いを文章にした。偈(仏の教えや徳を韻文形式で述べたもの)をもって 103 名の霊を慰め、併せて多くの溺死 者の供養を行う。
 溺れ沈んだ者三万  天地は深く沈んだ 天子の心は痛み 金を下さり 
 老人幼児は活力を得た 億兆の労りや思いやり ただ死者のためなす術もなく
 神を知り 仏の檀徒 数多く真実に帰す
 かたくなな石は法を説き 寺は粉々になり 分け隔てない法会で
 主人と客の区別なく 仏陀と凡夫の知恵を併せ (碑文の一部が不詳のため省略)

         特別に勅を賜り、性海慈船禅師・永平悟由が文章を作った
岩手県津波被害・石碑広域マップ

三陸各地にはたくさんの伝承碑が残されているようです。

先祖調査をしなければ、私はこんなに深く明治三陸津波について調べることはなかったでしょう。

フォローさせていただいている、ぺれぴちさんは三陸の津波の歴史について、身近な方の貴重な証言を交えて紹介してくださっています。
伝承がどのように生かされてきたのか、大変貴重な記事ですので、リンクを貼らせていただきます。


菊池市蔵の像について伝えた高祖母は、明治三陸津波のあった明治29年より以前の明治25年に同じ岩手県の飯豊村に嫁いでいます。
その後遅くとも明治42年には夫、子供らと北海道に渡っています。

親子といえど、当時の交通事情から鑑みて、内陸の飯豊と釜石の間を頻繁に行き来できたとは思えません。
家族の交流は絶えず続いたものと思われますが、高祖母でさえその銅像を見たことはないのかも知れません。

だから高祖母は子らへ

「釜石へ行くことがあったなら、菊池市蔵の名が刻まれた像を見てきて欲しい」


と、伝えていたのでしょう。

この事実を知ったのは、昨年の夏。

母にも調査結果を伝えたところ、大変驚いていました。
祖母から伝え聞いた言葉の中に津波、追悼といった文言の記憶はなかったようです。
きっと、天国の祖母も驚いているでしょう。
曽祖母は、もう少し明確に伝え聞いていたかも知れません。
高祖母は父の思いを後世に伝えたいと願っていたでしょうから、私が調査したことを喜んでくれているのではないかな、と思います。

120年の時を超えて、私は確かにこのメッセージを受け取りました。
まるで壮大な伝言ゲーム。

私もまだ釜石を訪れることはできていませんが、このメッセージを受け取ったからには、その地を訪れないわけにはいきません。

行かなければならない場所が、全国各地にあるのです。


東日本大震災から11年。
私たちが経験したこの日を忘れてはいけない。

謹んで哀悼の意を捧げます。

ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

あなたとあなたの大切な人が、穏やかな明日を迎えられますように。












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