今日は祈りの日でしたね。
それぞれの記憶の中に、あの日があることでしょう。
私自身も11年前のあの日、震度6強の揺れを経験することとなりました。
最近はようやく地震の夢を見ることも無くなりました。
辛い記憶も語り継いでいくことの大切さを身をもって感じることとなりました。
私のルーツの一つ、岩手県の菊池姓につながるお話、完結編です。
明治三陸津波の死者を追弔するために鋳造した銅像
曖昧な口伝に始まった先祖の銅像探しはここに着地することなりました。
菊池市蔵は文政12年生、私の五世代前の祖父です。
明治三陸津波があったのは明治29年(1896年)、今から120年以上前のことです。
中でも釜石地区の被害は甚大だったようで、市誌によると釜石町釜石は人口5274人のうち3323人が命を落とし、全戸数の8割に当たる791戸が被災とありました。
明治の頃は「地震が起きたら津波に備える」という発想をする人は少なく、津波が間近に来るまで気づかず、多くの命が奪われたとのことでした。
それ故、三陸海岸沿いには追悼の言葉とともに、明治三陸津波の教訓を次世代に残そうとその惨状を伝える文言が添えられているのだそうです。
それらをまとめたサイトがあり、ここでその像を見ることができました。
釜石市大只越町の石応禅寺にある向かい合う2体の青銅製延命地蔵菩薩像。
これこそが、口伝の銅像であり、明治29年の三陸沖地震津波の七回忌に当たり、石応寺と住民有志が建立したものでした。
その仏像の背面に添えられた碑文にもまたメッセージが刻まれ、建立に至る経緯が述べられています。
当時は「津波」ではなく「海嘯(かいしょう)」と呼ばれていました。
上記のような形式で記述されているため、
以下に意訳文を引用します。
同公園内には他にもいくつかの碑文が残されています。
長くなるので、ご興味ある方だけご覧いただければと思います。
120年前、映像記録として残すことができなかった時代の先人たちが、未来に生きる我々子孫へ伝承するため残したメッセージです。
三陸各地にはたくさんの伝承碑が残されているようです。
先祖調査をしなければ、私はこんなに深く明治三陸津波について調べることはなかったでしょう。
フォローさせていただいている、ぺれぴちさんは三陸の津波の歴史について、身近な方の貴重な証言を交えて紹介してくださっています。
伝承がどのように生かされてきたのか、大変貴重な記事ですので、リンクを貼らせていただきます。
菊池市蔵の像について伝えた高祖母は、明治三陸津波のあった明治29年より以前の明治25年に同じ岩手県の飯豊村に嫁いでいます。
その後遅くとも明治42年には夫、子供らと北海道に渡っています。
親子といえど、当時の交通事情から鑑みて、内陸の飯豊と釜石の間を頻繁に行き来できたとは思えません。
家族の交流は絶えず続いたものと思われますが、高祖母でさえその銅像を見たことはないのかも知れません。
だから高祖母は子らへ
「釜石へ行くことがあったなら、菊池市蔵の名が刻まれた像を見てきて欲しい」
と、伝えていたのでしょう。
この事実を知ったのは、昨年の夏。
母にも調査結果を伝えたところ、大変驚いていました。
祖母から伝え聞いた言葉の中に津波、追悼といった文言の記憶はなかったようです。
きっと、天国の祖母も驚いているでしょう。
曽祖母は、もう少し明確に伝え聞いていたかも知れません。
高祖母は父の思いを後世に伝えたいと願っていたでしょうから、私が調査したことを喜んでくれているのではないかな、と思います。
120年の時を超えて、私は確かにこのメッセージを受け取りました。
まるで壮大な伝言ゲーム。
私もまだ釜石を訪れることはできていませんが、このメッセージを受け取ったからには、その地を訪れないわけにはいきません。
行かなければならない場所が、全国各地にあるのです。
東日本大震災から11年。
私たちが経験したこの日を忘れてはいけない。
謹んで哀悼の意を捧げます。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
あなたとあなたの大切な人が、穏やかな明日を迎えられますように。