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アートは何のためにあるのか

カメラと写真が大好きで、noteにその愛をぶちまける喜びを知ってしまったので、ここ数日いろいろと書いておりますが、本業ではクラシック音楽にまつわる文章を書いたりお話をしたりしています。Amazonで「飯田有抄」で検索していただくと、わたくしが手がけました、曲の解説をしながら音楽を聴いてもらうオーディオブックコンテンツや、紙の書籍など、もろもろ出てきたりいたします。

今日も今日とてカメラを首からぶら下げながら、近所を歩いていたときに、ふと思い出したんですよね。
ピアニストで、めちゃくちゃ写真が好きな人がいたなぁと。ボリス・ギルトブルクさんという方。

かつて雑誌のインタビューをした時、カメラが好きで、夜の渋谷で3時間もシャッターを切り続けたっていう話をしてくれたのが印象にのこっていました。

どんな写真を撮っているのかな?と検索したら、写真家としてのギルトブルクさんのウェブサイト発見。そうか、こういう写真を撮っていたのか。

「写真を撮るという行為と、音楽を奏でるという行為が、あなたの中で何か共鳴し合ったり、影響を及ぼし合ったりするようなことはありますか?」

もしまたインタビューできるチャンスがあったら、そんな質問をしてみたら面白いかな。ぶらぶら歩きながらそんなことを考えた。

でも案外、外国人アーティストって、質問に対してあっさり、
「ん〜…別にないよ!」
とか言ったりするんだよなぁ。
質問の意図がうまく伝われば、すごく思索的な回答をしてくれるかもしれないけれど。

それで、ふと同じ質問を、自分自身にも投げかけてみたんですよね。
もしも私が同じように尋ねられたら、なんて答えるだろうか、と。
私は演奏家ではないけれど、たまに演奏活動はしているし、音楽を言語化する上でのいろいろな取り組みはやっているので、「自分は音楽家だ」とは思っている。

それで、
写真を撮り始めてから、圧倒的に、音楽を語る語彙に影響が出ているな思いました。

たとえば、「階調」という言葉とか、「焦点」といった言葉は、写真をやる以前から使っていたかもしれないけれど、あきらかに実体験としての生々しい感覚を自分の中で宿しながら、より意味を乗せて、より実感をもって、使うべきところで使えるようになった気がする。

写真を撮る行為が、自分の言語感覚、音楽について語る・書くという別の表現行為に影響を与える。あらたな捉え方の切り口になったり、それまで言語化できなかったものがうまく言語化できるきっかけ、輪郭を与えてくれたりする。

そんなことを、ぐちゃぐちゃ考えたのだけど、
ふっとシンプルな考えにストンと落ちた。

芸術とは、
アートとは、
新たなものの見方や捉え方を、
与えてくれるものなのだ、と。

なんだ。これに、尽きるな、と。

コロナ禍であらゆる公演活動が中止になったとき、「音楽の力とは?」「音楽は不要不急なのか?」とか、いろいろな人や媒体が叫んだりしていたけれど。

芸術は人間に、いつでも、
新たなものの見方や捉え方を与えてくれるから、
だから人類にとって必要なのです。

その「新たなものの見方や捉え方」は、
凝り固まった思想や感性に揺さぶりをかけ、解きほぐすもの。
時にそれは、たとえば平和につながるものかもしれないし、
他者性を知るきっかけになるものかもしれないし、
世界は自分の見えているところだけに収まらないのだという、
厳しさを突きつけてくるもの。それが人間には、必要だってこと。
だって、人間は、時にとても愚かだから。

かつて、ショパン国際コンクールを取材し、ピティナnoteで記事にしていたのですが、小林愛実さんの弾いた「前奏曲」についての投稿に大きな反響があったことも思い起こしました。
決して美しいだけが芸術ではない。ときに、心がズタズタに引き裂かれるほどの痛みを伴ってまで、人に激しい揺さぶりをかけてくる。


芸術は、アートは、人間にいつでも、
新たなものの見方や捉え方を与えてくれる。

言葉にしてしまえば、このシンプルなことが、
ストーンと自分の中で着地して、
「なぁんだ」
ってなった。

だから私はこれからも、この分野に関わり続けてまいります。
明日もきっと、音楽について原稿を書いていると思います。




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