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障害や発達の話は浴びるのではなく掬うものだと気づいた私の話

「障害があると思っているの?」
「そんな所に行ったら学校にいきづらくなるよ」

ラインに流れてきたあまりにストレートな文章に、私は正直、「一瞬心臓とまったかな?」って思うくらい、体が硬直してしまいました。

これは私が直接言われたわけではなく、私のママ友が、ご主人に言われたという言葉です。
この言葉が出てくるに至った経緯を、ここからぽつりぽつりとお話していきたいと思います。

それは2年前のこと

私には、自閉症で知的障害の小学1年生の息子と、2歳の娘がいます。

2年前、まだコロナもなく、ソーシャルディスタンスという言葉も3密という言葉も流行っていなかった頃のことです。
私は娘を連れて、地域の赤ちゃん広場に定期的に通っていました。
私は仕事をしていなかったし、当時幼稚園の年中だった息子が幼稚園に行ったり療育に行ったりしていた午前中の時間は、充分娘のために使えたのです。

息子の障害は重く、当時も、それから2年がたった今も、言葉を1つも話すことはできません。
幼稚園と療育を掛け持ちしつつ、病院にも通っていたので、娘はいつも「○○くんの妹」としていろんな施設に連れまわされる毎日でした。
だからこそ余計に、私は赤ちゃん広場だけは「娘だけのための時間」として、必ず確保するように努めていたのです。

娘は社交的な性格で、赤ちゃん広場でたくさんのお友達と楽しく過ごしていました。
0歳の赤ちゃんだった娘も、当然まだしゃべりません。
だから「赤ちゃん広場どうだった?」と感想を聞くことはできなかったけれど、きっと楽しんでいたと思います。

そして娘だけでなく私にとっても、赤ちゃん広場は憩いの場でした。
娘と同じ歳の子どもをもつママ達と、たわいもない話でもりあがる時間。
言葉を一切話さない2人の人間と朝から晩まで一緒にすごしている私にとって、「会話できる」喜びがなによりの幸せな時間でした。

赤ちゃん広場は毎回人が変わる、とてもゆるくて自由な空間でしたが、何回も通っていると、「また会いましたね」というおなじみの顔ぶれができていきます。
そんなおなじみさんになった何人かのママ達とは連絡先の交換もして、私は地域に知り合いが増えていくことも嬉しく思っていました。

真昼の突然の出会い

ある日のことです。

本当にたまたま、買い物帰りに娘が寝たので、ちょっとお茶でもしていこうと、スーパーの近くのカフェにふらりと入ったことがありました。
すると、店内で同じように赤ちゃんを連れて涼しげな飲み物を飲んでいる、ひとりの女性と目が合ったのです。

なんということでしょう。
それは、赤ちゃん広場でよく一緒になった、連絡先も交換したママでした。
「あれーーーーー!偶然!!!!!」
なんて言いながら、本当に偶然だったので、そのままお互い子どもはねんね中というラッキータイムを、一緒にお茶して楽しむことにしました。

お相手のママは、娘と同じ歳のお子さんの他にお兄ちゃんがいるそうで、お互い上の子がいて色々大変だということで、話はもり上がりました。
そんな中で、私は上の子には障害があって、幼稚園の他に地域の児童発達支援センターにも通って療育を受けているという話をしました。

「障害児」

なんて一般の人からしたらヘビーなワードかもしれませんが、私にとっては「男の子」「女の子」くらい日常的なワードです。
ついつい抹茶ラテ片手にぺろっと話してしまうのです。
(悪い癖かもしれない)
ただ、こういう話をすると、相手によく「まずいことを聞いてしまった‥‥‥」という気まずい反応をされるのですが、そのママの反応は意外なものでした。
「発達障害」「自閉症」「療育」「児童発達支援センター」‥‥‥それらのマイナーワードに、興味津々に食いついてきたのです。

「およよ‥‥‥?なんかよくあるパターンと違うぞ‥‥‥?」

なんて頭の中でうっすら考えながら話していると、そのママは言いました。

「うちの子、なーんか幼いんですよね‥‥‥発達が遅いというか、なんかちょっとみんなと違うというか」

予想外の告白に、私は驚きました。
そして、こう言っては良くないですが、そのセリフは、息子と同じ種類の障害がある子の親御さんが決まって言うようなセリフです。
だから、「たぶん‥‥‥お仲間かな?息子とは比べ物にならないくらい軽度だろうけど」とうっすら思いました。

ムクムクと起き上がるおせっかい心という魔物

そこからは、私は娘が突然の覚醒をして話がぶったぎられることがないよう細心の注意を払いながら、その方の上のお子さんのお話を聞いていました。

話の内容は、まとめるとこんな感じでした。
小学生なんだけれど、遊びの内容が幼く、ちょっと困っている行動もあって、どうしたらいいのか悩んでいるということ。
でも、これまで発達でどこかに相談にいったことはなかったということ。
発達障害という言葉を聞いて、もしかしたら‥‥‥と気になっていたということ。

ちなみに、ここで少し私の息子のことに触れます。
私の息子は、当時幼稚園の年中さんで、発語が1つもなく、身辺自立もできていない、療育手帳ではっきり中等度知的障害の判定が出た、正真正銘の知的障害ありの自閉症児です。

息子くらいの遅れがあれば、小学生になるまで一度も発達相談に行かず、声もかからないということはありえません。
つまりその方のお子さんは、もし発達障害があったとしても軽度かグレーなのでしょう。
普通級に行っていることを考えても、「知的の遅れはないんだろうな」というのが、話を聞いた上での私の感想でした。

ですから私はとりあえず、「児童発達支援センターに相談に行ったらいいと思う」ということを伝えました。
児童発達支援センターとは、地域の発達に課題があるお子さんや障害があるお子さんの支援のための中核的な施設で、必要に応じて療育を行ったり、相談を受けたりしています。
ちなみに私と息子は児童発達支援センターに毎週通っている、もはやズブズブの関係です。

私にとって児童発達支援センターは、スーパーに行くくらい日常的な場所で、先生たちもそこで会うママ達も顔見知りで居心地がよく、赤ちゃん広場と同じかそれ以上の憩いの場でした。
だからとても気軽に、「そういう場所があるんだよ~」と勧めてみたのです。

すると、その方はそういった施設があることをこれまで全く知らなかったと言いました。
だから私は、ついついおせっかい心がもり上がってしまい、児童発達支援センターや療育について、あれこれペラペラ説明し始めてしまったのです。

乱れ飛んだ言葉の矢

家に帰ってから、私は勝手な充実感でいっぱいになっていました。

息子のことや療育のことを話してもひかれなかったこと、むしろ興味を持ってもらえたことが、嬉しかったのです。
発達のことって相談しづらいし、悩む気持ちはよくわかります。
しかも、これまで支援に全くつながってこなくて相談もしてこなかったというのは、つらかっただろうな‥‥‥と思いました。

「私の話が、少しでもあの人の役に立てたら嬉しい」
そんな気持ちでいっぱいでした。
だから、私はついついラインをしてしまったのです。
話しきれなかった、児童発達支援センターのことをもっと伝えたくなったのです。
この時期はすごく混むから、行くなら急いで予約をとった方がいいことなど、いつも行っているからこそ知っている情報を、つらつらとラインにしたためました。
そして、返信を待ちました。
すると‥‥‥冒頭の言葉に戻ります。

「障害があると思っているの?」
「そんな所に行ったら学校にいきづらくなるよ」

今日、私から聞いた話をご主人に話したその方は、そう言われたというのです。
その後、なんとなくちょっと気まずくなり、ラインは終了しました。

家庭内のこと、夫婦間のことは、私にはわかりません。
でも考えれば考えるほど、なんだか悪い方に思考が行ってしまうものです。

「もしかしたら本当はあの人自身も、私からこんな話を聞くのは嫌だったかもしれない」
「子どもに障害があるかもしれないなんて、親だったら誰でも考えたくないことだ」
「それを、有益情報だという大義名分でズカズカと踏み込みすぎてしまったかもしれない」

そんな考えが止まらなくなりました。

よくよく考えれば、息子のように重い障害の子でなければ、困りごとはあっても特に支援は受けず、なんとなくやっていけたりするものなのかもしれません。
だからあの人は、本当は支援の受け方が知りたかったわけではないのかもしれないのです。
ただ話を聞いて、「大丈夫だよ」と言って安心させて欲しかっただけかもしれないのに‥‥‥私はそれができませんでした。

本当のところはわかりませんが、世の中、「正しさ」だけが全てではないものです。
相手のためと思ってしたことも、相手からしたらただのおせっかいだったということは、よくあることです。
そう考えると、私は酷く申し訳ない気持ちになりました。

でも、その時私が落ち込んだのは、それが理由なだけではありませんでした。

「障害があると思っているの?」
「そんな所に行ったら学校にいきづらくなるよ」

この言葉が、ずっと私の心を締め付け続けました。

「息子が通っている場所は、私が大好きなあの場所は、『そんな所』なのかな。『障害』って、そんなに忌み嫌われるものなのかな」

多くの人が心の中にもっている『そんな所』や『障害』についての偏見を、突きつけられたような気がしたのです。

息子は当時、幼稚園の年中さんで、就学先をどこにしようか考え始めた時期でした。
息子は結局、特別支援学校を選びましたが、その当時は普通の小学校も考えていたのです。

「幼稚園でお友達と楽しく過ごしているように、小学校でも障害が無い子どもたちの近くで一緒に過ごせたりしないかな」

そのかすかな思いが、ボキッと折られたような気がしました。
「『そんな所』にずっと通っていた息子は、『いきづらい』はずだ」と思ったからです。

もちろん、その方には何の悪意もないと思うのですが、ご主人が放った言葉の矢は、巡り巡って私の胸にグサッと食い込んだのでした。

あの失敗があったから

その時のことは、私に次の4つの大きな教訓を残しました。

・人の子どもの発達について、余計な助言をすべきではない
・たとえ相談されても、必要以上に答えすぎるべきではない
・自分の「教えたい」という欲求を、人にぶつけてはいけない
・有益情報も、行き過ぎればただうっとおしいだけのものになる

情報は、相手から求められた時、求められた分だけ届くからこそ価値を発揮します。
溺れるほどの情報や、ましてや求められてもいないのに押し付けたら、それはおせっかいとなってしまうのです。
そんなつもりはなくても結果としてそうなってしまった時、傷つくのは自分です。
相手にも自分にもメリットのないことは、するべきではありません。

だから私はそれから、娘のお友達で「あれ‥‥‥?」と思うことがあっても、一切何も言いません。
本人のお母さんと話していてそんな話題になっても、一切こちらから不安をあおるようなことは言いません。
肯定も否定もせず、何も言及しません。
必要な情報は人からシャワーのように浴びせられるものではなく、自分で川に行って掬ってきたからこそ身になるのではないかと思ったのです。

とはいえ、障害がある子どもを育てていて、本当につらくて情報がなくて困った経験をしていると、つい思ってしまうことがあります。
「同じような境遇の人の力になりたい」「なんとかしてあげたい」と、またおせっかい魔物がムクムク出てきてしまうのです。

そうなった時、その気持ちを正しく解消するために、私は色々な情報発信コンテンツを始めました。
Twitterにブログにnote。
そして、あれよあれよと電子書籍まで出版しました。
全て、このできごとの後に始めたものです。

だから、私の情報発信を見つけてなんらかの情報をくみとり、役立てて下さっている方がいたら、私は夜中でも窓を開けて大声で「ありがとーーーーーーーーー!!!!!」と叫びたいほど嬉しいのです。

それに、リアルな世界で自分も子どもも素性がはっきり知られている相手に、子どもの発達というナイーブな相談をするのは、少々荷が重いかもしれません。
変な噂がたたないかなと不安になったり、なんとなく周りに対してこうでありたいという見栄があったり、家族から口止めされていたりする人もいるかもしれません。
そんな風に、本当は相談したいけれど、色々な理由があって、身近なママ友や先生には相談できずにいる人のためにこそ、できる支援の形もあると思っています。

インターネット上の世界なら、気楽に「お、この人ちょっと気になること書いてるな」と覗いてみることで、子どもの発達や療育の知識を得られるのではないでしょうか。
リアルな世界ではどうしても相談できない人は、匿名の自分で匿名の相手だったら、素直に相談できるかもしれません。

だからこそ、私はインターネット上で活動することで、そういう隠れた不安に押しつぶされそうなママを救いたいと思ったのです。
救うなんて超絶おこがましいけれど、そっと背中に手を添えたいのです。

だから、これからもみなさん、障害があってもだれにも後ろ指をさされることなく、楽しく学校に通っている息子と私と家族のあれこれを、また見に来てください。

これからも、末永くよろしくおねがいします。

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