卒園式で岩になった息子と、絶望を希望に変える児童発達支援の話

今年度も終わろうとしている3月末、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
前回のnoteで息子が幼稚園を卒園したことを書きましたが、先日、児童発達支援施設も卒園しました。

まず先に、「児童発達支援」という専門用語にピンと来ない方のために、簡単に説明します。
児童発達支援とは、簡単に言えば、障害があったり発達に課題があったりする未就学の子が通う療育の事です。
説明すると長くなるのでとりあえずこの文章内では、「障害がある子が通う幼稚園や保育園に近いもの」と捉えて頂ければ充分かと思います。

息子はこれまで、一週間のうち3日は幼稚園、 2日は児童発達支援施設に通っていました。
知的障害を伴う自閉症の息子にとって、療育はなくてはならないものです。
でも普通のお子さんとの関わりも大切にしたいと思い、幼稚園と児童発達支援施設の並行通園という形を取ってきたのでした。

今回は、息子の児童発達支援施設の卒園式がどうだったのかということを皮切りに、幼児期の終わりとともに終わりを迎えた、息子と私にとっての児童発達支援について書いていきたいと思います。

「え、奇跡?」息子の児童発達支援の卒園式

息子が卒園した施設は、児童発達支援の中でも結構大きめの施設でした。

幼稚園や保育園などと同様に、入園式や卒園式はもちろん、運動会や発表会などの年間行事もたくさんあり、在籍する児童も職員もかなり大所帯でした。

卒園式も、コロナの影響で縮小しアットホームな式ではありましたが、ちゃんと「式」感があるものでした。

息子は幼稚園の卒園式で卒園証書の授与を拒否し、寂しさと悲しさに耐え切れずに感情を大爆発して大泣き、という暴れん坊な姿を披露してきました。

だから私は今回の卒園式もとても不安でした。

ですがそんな不安と裏腹に、児童発達支援施設の卒園式の息子は、本当に本当に、驚くほどちゃんとしていたのです。

まずは入場。

人とのソーシャルディスタンスが広すぎる息子が、なんと先生の介助なしで、お友達と手をつないで入場したではありませんか。

不安でいっぱいだった卒園証書授与。

息子は自分の名前が呼ばれると、先生に促されて真ん中に歩み出て、きちんと自分の足で歩いて園長先生の前まで行きました。
そしてなんと、ちょっとだけお辞儀もしたのです。
卒園証書を園長先生からもらうために自分から手を差し出し、無事証書をもらうと大人しく席に戻りました。

お別れの歌の時間。

卒園児たちはほとんどの子が上手におしゃべりできないので、お別れの歌は先生たちが歌い、子供達はその場に立ってリズムをとったりしていました。
息子は、というと、隣のお友達と手を繋いで左右に揺れているではありませんか!

そしてなんとなんと、式中一度も席を立つことなく、大人しく座り続けて素直に退場したのです。

え、奇跡‥‥‥。
一般的には、「そんなの普通では…」と思われるかもしれません。
でも重い知的障害を持った自閉症の子がこれだけのことを成し遂げて式を終了するという難しさ、同じような子を持つ障害児ママの皆さんならきっとわかってくれると思います。

幼稚園の卒園式はそれはそれで素晴らしい思い出になったけれど、その時とは打って変わった完璧な息子の姿に、頼もしさと果てしない安心感を覚えて、私は窓から晴れた3月の空を見上げたのでした。

それで終わるはずがない…別パターンの息子の別れの惜しみ方

これで終われば、「本当によかったね!めでたしめでたし!」とこの記事も終わることになったでしょう。

できればそうあって欲しかった。
いや、 これはこれで息子の成長……とも言える。

私は完全に油断していました。
卒園式が終わり、花道の準備が整い、卒園児たちが保護者と一緒に職員の皆さんに見送られながら児童発達支援施設を後にする、という感動的な演出でした。

その花道を歩いている最中、息子は自分の教室の前に差し掛かると、突然脱走したのです。

当然のようにスッと教室に入り、そのまま座り込んで岩のように動かなくなりました。

お友達が全員花道を通って出ていっても、息子はそこに居座り続けました。
おそらくですが、息子の中にこんな考えが浮かんだのでしょう。

「あ、そうだ!おわかれしたくなかったら、ここからうごかなければいいんだ」

めちゃくちゃ間違ってる。
間違ってるけど、とても素直でわかりやすい行動です。

息子はそのまま教室にしばらく居座りましたが、先生達の説得のおかげもあり、癇癪を起こして泣きながらですが玄関まで行きました。

しかし今度は、玄関で座り込んで絶対に靴を履かなくなりました。
きっと息子は思ったのでしょう。

「どうしてもおれは、ここをでていかなきゃならないらしい。
でもでていっちゃったら、もうみんなとあえなくなっちゃうからぜったいいやだ。 ねばろう。」

私、天を仰ぐ。

今度は園長先生が出てきてくれて、「まぁ1回お茶でも飲んで落ち着こうよ」ということで息子を椅子に座らせてお茶まで出してくれました。

私と息子に寄り添いながら、「これ飲んだら帰ろうね」と息子を優しく諭してくれる園長先生。

しかし息子は、いつもだったら一気に飲み干すようなお茶を、永遠に飲み終わらないんじゃないかなっていうような驚異の亀スピードでちびちび飲み、一向に終わらす気配がありません。

その間も後ろでは先生たちがせわしなく式の後片付けをしていて、私は申し訳なさでこれ以上ないほどに肩身が狭くなり、涙も完全に引っ込みました。

それでも園長先生のおかげで、息子はようやく「もうどうにもならないのだ」と諦め、別れを受け入れたようでした。

ボロボロ泣いて、叫んで、靴を履いて、本当にしつこく行ったり戻ったりしながらも、ようやく施設を後にすることができました。

幼稚園の卒園式と全く逆。
本当にまた違うベクトルで、思い出深い卒園式でした。

児童発達支援を彷徨った息子の出会いと別れ

息子は今回卒園した施設に通う前に、いくつもの児童発達支援を経験してきました。

色々な事情があって、ジプシーのように様々な施設を転々としてきたのです。
1年や、短いと3か月しか通わなかった所もあります。
そんな中、今回卒園した施設は息子が最も長く通った児童発達支援だったのです。

この施設は、私にとっても、おそらく息子にとっても、過去最高の児童発達支援施設でした。
もちろん、他の施設にも大変お世話になり、感謝しているのですが、この施設への思い入れと深さは格別でした。

息子も本当に、毎日楽しかったんだと思います。
先生もお友達も、大好きだったんだと思います。

色々と落ち着かない幼少期を過ごしてきたけれど、息子にとってようやくたどり着いた、「おれの居場所」だったんだと思うのです。

先に卒園した幼稚園よりも長く通っていたので、息子にとっては当たり前の日常すぎて、どうしても卒園を受け入れられなかったのかもしれません。

幼稚園を卒園して寂しくても、「こっちがあるからまだおれは大丈夫!」と思っていたのかもしれません。

息子は言葉が喋れないので、彼の本心は予想するしかありませんが、彼なりに幼稚園の卒園式という経験を経て、どうしたらお別れを回避できるか、冷静に考えを巡らせた結果だったのかもしれません。

誰だって居場所を失うことは怖い。

それは大人でも子供でも、健常者でも障害者でも同じです。

これまでたくさんの出会いと別れを経験してきた息子だからこそ、今回の「卒園」というお別れを自覚する行事で、6歳の胸には抱えきれない悲しみや不安を抱いてしまったのでしょう。

「出会いがあれば別れがある」
言うのは簡単ですが、息子にとってそれを受け入れるのは、相当の試練です。

そんな「別れ」を理解した息子の葛藤とそこから導き出した行動は、的外れでもあるけれど 、彼の愛すべき成長の形でした。

息子にとって、それだけ失いたくない居心地の良い居場所が作れたことに、私はただただ感謝しています。

児童発達支援に通って変わったのは息子だけでなく私

児童発達支援施設を卒園するにあたり、大きな悲しみをぶつけてきた息子。

でもその別れが寂しくて悲しいのは、息子だけではありませんでした。
私もまた、その施設を息子が卒園するのが寂しくて悲しくてたまらなかったのです。

私は今回の児童発達支援施設に出会うまで、ママ友と言える人がほとんどいませんでした。

息子は他の子のように子供同士おしゃべりすることも一緒に遊ぶこともできないので、どこにいっても激しい疎外感と申し訳なさで、正直どう接していいかもわからなかったのです。

普通の子の親サイドから言ったら「気にしなくていいのに」と思うかもしれません。
でもそれは無理です。

自分で他の子と一切の言語コミュニケーションが取れない子の親は、常に子供とセットで動かなきゃならないじゃないですか。
どうしたって普通の子の親御さんと同じ感覚ではいられません。
子供同士楽しく遊ばせて、親同士は話に花を咲かせて気分転換する、その横で子供にひっついて冷や汗かきながら動き回っている私‥‥‥その惨めさは誰が解消してくれるのでしょうか。

普通にお友達と喋れて、一緒に遊べる子供の親御さんからしたら「気にしなく」ても、はりついた笑顔で「ありがとう」しか返しようがなかったのです。

そんな私にも、今回卒園した児童発達支援施設に入って初めて、やっと同じ感覚で、本当に心を許して話せるママ友が何人もできました。

ママ友たちとのおしゃべりの時間が毎日の息抜きでしたし、同じような境遇で育児をしている仲間と話すと、自分でも驚くほど気持ちが前向きになりました。
人格も明るくなったような気がしました。

そして、不思議なものなのですが、障害児ママ仲間のママ友ができると、今度はその流れで普通の子のママたちにもずっと話しやすくなったのです。

これまでのように無理せず、息子の事をごまかして障害を隠したり、過大評価も過小評価もせずに、等身大の自分と息子で関わっていけるようになりました。

ママ友ができたということ以外にも、私が変われた理由はありました。

息子が通った施設は、保護者へのサポートが本当に手厚かったのです。
先生との面談の数もこれまででダントツに多かったですし、療育とは関係ない福祉サービスについても、相談員さん自ら動いて使える事業所を探してきてくれたりもしました。
いつも息子だけじゃなく、親の私にも寄り添って、障害児育児をサポートしてきてくれました。

だから私は、精神的にも時間的にも余裕ができて、 心の健康と本来の自分を取り戻せたのです。

出会えたママ友たちにも、お世話になった施設の職員さんたちにも、もうこれまでみたいに会えなくなるのが寂しすぎて、 本当は息子のように私も泣きたかったです。

絶望を希望に変える、児童発達支援の大きな意義

息子は児童発達支援に通って、本当に大きく変わりました。

特に今回卒園した施設での成長の幅は大きかったです。
ですがそれ以外のこれまで通ってきたいくつもの児童発達支援、そのひとつひとつで、「あそこではこれができるようになったな」「あの時期にこういう壁を乗り越えたんだよな」という思い出があります。

約5年間の児童発達支援を経て、息子は本当に育てやすくなりました。

障害は無くなっていません。
軽くなってもいません。

でも、今私が感じる「困りごと」は、そんなに多くないのです。

様々な専門職の方からの的を射た指導、そして療育のプロである先生方の根気強い関わりや愛情で、息子はできることをどんどん増やしていきました。
これは、私だけでは絶対に無理なことでした。

そして息子だけでなく、私もこの5年で考え方がガラッと変わりました。

息子が周りの子たちとはちょっと違うと思った1歳の頃、私は「自閉症」という言葉を検索しては暗い部屋の中で落ち込み、絶望の淵にいました。

息子は違う、息子には障害なんてない、普通の子だ、そのうちきっと追いつく‥‥‥。

そう思い込むことでなんとか自分を保っていました。

心療内科に通い、外に出て他の子と息子を比較してしまうのが嫌で、何もできない息子を見られるのも嫌で、家に引きこもって廃人のように暮らしていました。

それが今ではどうでしょうか。

自ら「障害児ママ」を名乗って、SNSでもnoteでもブログでも発信しまくっています。
書籍も出しました。

日常生活でも、「息子、自閉症で知的障害があるからー」っていう言葉をあまりにサラッと口に出せるようになりました。
抵抗感は皆無です。

そして何より、自閉症で知的障害がある息子のことを、心から可愛くて愛しいと思えるようになりました。

息子は自閉症で知的障害だけど、本当に素直で可愛くて、面白いのです。

昔はこういうことを言う障害児の親を、どこか強がってるように思っていたかもしれません。
でも、「あ、本心でこう思えるようになる日ってくるんだな」とやっと思えました。

あんなに絶望に包まれていた息子のことが、私の希望に変わりました。
甘いかもしれないけれど、息子の将来も、どこかでなんとかなるような気がしてしまっています。


児童発達支援を受けたからといって、別に障害が治るわけじゃない。

言葉が喋れるようになるとも限らないし、おむつが外れるわけでもない。
年齢が上がることで、障害の判定が重くなることだってある。

それでもじゃあどうして療育を受けるの?
児童発達支援を受ける意味って何なの?

‥‥‥て思ったら、それは子供が少しでも生きやすくなって、未来に希望を持てるようになること。

そして、可愛い赤ちゃんを産んで、希望に溢れた未来を描いていたところから一気に絶望に突き落とされた私たち幼少期の障害児の親が、もう一度その絶望から這い上がって希望をもてるようになること。

そこにもうひとつの意義があるんじゃないのかな、と思うこのごろです。

たまたま私がそう思えただけで、別に全ての障害児ママと児童発達支援にあてはまることじゃない。

障害受容なんて大層なことができたわけでもないと思うし、そもそも障害受容なんて他人が促すようなものでは決して無い。

だから、私の気持ちの変化が万人に通じるものだと拡大解釈され、「あなたもがんばりなさい」と無理やり背中を押すことには繋がってほしくはないのです。

だけどどうかこれを読んでいる全ての障害児とそのママたちの未来に、少しずつでも希望の光がさしていくことを、いつも心から願っています。


この記事が参加している募集

子どもの成長記録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?