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『ロッコク・キッチン』 食の記憶を探して 国道6号線を行く

少し前になるけれど、福島県の双葉町と大熊町における2週間の滞在作品制作を終えた。『ロッコク・キッチン』というプロジェクトで、キッチンや食を通じて、暮らしを紐解きつつ、一冊の本と映画を作っていくというなかなかの長期プロジェクトだ。ロッコクとは、仙台から日本橋まで続く国道6号線のこと。まずはロッコク沿いの町に住む人々に呼びかけ、食にまつわるエッセイを募集するということろからプロジェクトは始まった。通常私は、自分が取材して書くという立場なのだが、今回は他の人が書くものをぜひとも読んでみたい!と思った。私という他者によって編集された言葉ではなく、その人自身が書いた言葉を。


募集ちらし


端的にいえば、私たちの興味は「ロッコク沿いに住むみんなは、何を食べて、どう生きているのか」ということだった。どんなキッチンで、何を食べているのか。誰かと一緒なのか。ひとりなのか。何を楽しんで、何がイヤで。何を考え、何を忘れ、何を覚えているのか。

ロッコクは、福島第一原発の横を通る道で、震災のあとは通行止めに。いわきから浪江町まで走ると、崩れそうな建物の横に真新しい建物ができたり。この間あった場所が取り壊されていたり。流れていく時と、流れていかない時をごちゃごちゃと混在させながら、ロッコクは常にそこにあった。ただし、全町避難が続く双葉町や大熊町は人影はなく、周辺はずっとバリケードが張られて、ただ、通り抜けることしかできなかった。

しかし、いまその状況は大きく変わりつつある。双葉町や大熊町に人が少しずつ還りはじめている。2023年の12月時点では、住民の数はそれぞれ103名と1120名。大熊町はだいぶ多く見えるけれど、避難指示解除からもう4年以上が経過しているということがひとつの差になっている。また人口の半数以上が東京電力の関係者であることも大きな特徴だ。双葉町の方は、2022年の夏に避難指示解除が行われたばかり。双葉町に至っては、避難生活は11年半も続いたのだった。

エッセイを募集したものの、誰か書いてくれるかなという不安はあった。でもまあ、今まで色々な講座やコンテストに関わってきて、一部の人は機会さえあれば、何かを表現したいといいう気持ちを持っていることは知っていたので、あまり心配しすぎてもいなかった。こうして蓋をあけてみると、本当に書いて送ってくれた方がいた。とても嬉しかったし、ありがたかった。

私たちのほうは、エッセイを書いてくれた人たちのキッチンを可能な限り訪ねて歩いた。取材をOKしてくれた人は相当な数にのぼり、2週間の滞在中、私たちは本当に忙しかった。

それまで、私は何度かこの周辺を訪ねていたのだけど、旅行者として表面的に見ていたレイヤーから一歩、二歩と町の奥に進んでみると、そこにはたくさんのユニークな人たちが暮らしていた。元々の住民の方はもとより、縁あって移住してきた人も多い。インドやバングラデシュ、中国など海外から来た人にも出会った。

じっくりと腰を据えて滞在することにより、(ほんの少しだけ)そこに暮らす人の目線になれたかもしれない。「食べる」「暮らす」という点において、何が不便で何が課題で、どんなところが魅力なのか。同じような場所をウロウロしているうちに、挨拶する人も増え、一緒にご飯を食べたり、同じお店に通ったり。さまざまな人のキッチンを訪ね歩く毎日。


双葉町のあるお宅で 写真:一之瀬ちひろ


大熊町も双葉町も大きな転換点・過渡期にある。
ニュースでとりあげられる双葉町や大熊町のイメージは「被災地」というものだけど、いつまでも「被災地」の文脈だけで語られると、そこで暮らす人は疲れてしまうだろうな、とも思った。「忘れたくない」と「忘れたい」と「忘れるな」「もう忘れよう」は常にせめぎあっていている。

当たり前のことだけど、町には、喜んで取材を受け入れてくれる方、逆に取材的なものはもう受けたくないと感じる方、両方の方がいる。取材を受けたくないと感じることも、そこに日々暮らしていれば当然のことだ。

実際にいま住んでいる多くの方が、何らか理由で移住してきた新しい住民である。行く前は予想していなかったんだけど、20代や30代の若い人たちにも驚くほどたくさん出会った。仕事がきっかけできた人もいるし、遊びにくるうちに気に入って、という人もいた。研究や勉強が目的で通ってくるうちに移住してしまったという人も。新しくできた学校「学び舎 ゆめの森」に惹かれてきたという家族もいる(これが本当に魅力的な学校!)。

滞在しながら、実際に見えてきたのは、元々の方も新住民の方も入り混じって同じ釜のメシを食う姿だった。そこには、大きな希望を感じた。

飲食店は数が限られている。特に夜やっているお店は片手で数えるくらいしかない。だから、みんなお互いの家をいったりきたりしていると口を揃える。訪問してみると、これが本当に楽しそうだった。単純に、仲良い友達が近くにいる生活はいいなあと思う。やっぱり誰かと一緒にご飯を食べたいものだ。(私も滞在中、中華丼や湯豆腐や餃子、具沢山味噌汁などをご馳走になった)

ご飯の会には、もともとこの町に住んでいた人も、新しくきた人も入り混じっている。一度は人がいなくなった町だから、誰もが比較的フラットな関係で、それも心地よく感じる人もいるのかも。私もこうしてしばし滞在して、知り合いが増えるうちに、妙にこの土地に惹かれるようになり、徐々に大熊町や双葉町に移住してくる人の気持ちもわかるようになった。


そのほか、印象に残ったことが書ききれないほどあるのだけど、ひとつは「苕野神社」の再建である。

浪江町の苕野神社は、請戸漁港の近くに位置している。とても歴史ある神社で、創建は8世紀ごろらしい。はるか昔は、請戸地区の沖にあった島にあったらしい。請戸は津波被害が激しく、大方の建物が流された場所で、時を経て、ようやくいま社殿が再建されたばかり。

真新しい社殿の周りにはなにひとつなく、土地の造成工事が急ピッチで続く。何台もの大きなショベルカーが行き交う中に神社だけが新しい神社がポツン佇む。

頭に浮かんだのは、どうして?という言葉だった。

いまこの土地の造成すら済んでいないこの段階で、なぜ神社を先に建てたんだろう??


浪江町の苕野神社  写真;川内有緒

頭に浮かんだものの、深く考えることもなく日々忙しくしていた。しかし、2週間の滞在制作の最終日、どうしてももう一回見ておきたくなったのがこの神社だった。眺めていると、一組の男性と女性が工事をつっきって、社殿の中に入っていった。

そっか、ちゃんと人が来る神社なんだなという当たり前のことを思った。

東京に帰った後になって、ようやく私は以前、北極冒険家の荻田泰永さんと話した町の「機能と祈り」という話をまざまざと思い出していた。

そうか、これは荻田さんが話してくれた「機能と祈り」の話なんだ。
そう思うと、ぽんと腑に落ちた。

人生にも土地にも、必要なのは「機能」だけではない。道が整備され、駅が再開し、コンビニができ・・・と便利になることは「機能」。でも機能だけあっても生活は成り立たない。そこには「祈り」が必要なのだ。
だからこそ、まずは神社の再建だったのかな。

https://note.com/ogitayasunaga/n/nbf30b9d14f01

「機能」で語られる部分というのは、代替可能、入れ替え可能な領域だ。お父さんの例で言えば「給料を持ってくる」というのは、そのお父さんである必要性がなく、何なら年収が倍のお父さんが別にいれば「そっちのお父さんの方がいいじゃん」ということになる。つまり、代替可能なお父さんだ。
しかし「休みの日にキャッチボールをするのが好き」と語られるお父さんは「そのお父さん」じゃなければダメである。もっと野球の上手いお父さんが別にいても、うちのお父さんでなければダメなはずだ。「祈り」で語られる領域は、代替不可能なものだ。

荻田泰永「機能と祈りで書店を考える」より


「祈り」は宗教施設である必要はない。自分の願いや希望を託せること。そのような場所であれば、それは「祈り」の場所になるのだと思う。

私にとっては図書館とか本屋さんとかも「祈り」の場だ。自分がほっとできる喫茶店や、深く考えごとができる公園のベンチや東家も祈りかもしれない。信仰の形態が多様化した現代の日本において「祈り」の場所はパーソナルなもので、それぞれの人によって違う。

滞在中、何度か、大熊町の夜だけ開く野外の本屋さん「読書屋・息つぎ」を訪ねた。そこは、本当に何もない更地に囲まれた場所だし、そこ自体も実は更地で、あるのは農業用ビニールハウスの骨組みだけ。頭上には恐ろしいほどの数の星がまたたいている。人の営みが少ない部分、町は暗く、空気はすみきっていて、星や空が綺麗だ。

そこでは、店主の武内優さんが、楽しそうに読書をしている。彼は週に5日間、板金加工の仕事が終わったあといったん家に帰り、ご飯を食べて夜の本屋さんを開く。ここは、もともと彼の祖母が住んでいた場所だそうだ。そういう意味で、彼にとって、ここは代替不能な場所であろう。

ただでさえ住む人が少ない場所だけだ。「商売」として成立しているかはわからない。冬の夜は、肌が出ている箇所がちょっとじんじんするほど寒い。でも、話によれば、ちらほらと日々誰かが来るらしい。じっくり本を選んだり、焚き火に当たったり。とはいえ、誰もこない日もある。武内さんは、誰も来ない静かな夜も好きですと言う。そういうとき、彼は読書をしているとか。

いい。とてもいい。私が大熊町に住んでいたら、そこがあることが小さな支えになる気がする。もし一人になりたくなければそこに行けばいいし、たとえそこに行かなくても、今日もあの本屋がある、と思えば、ひとりきりの長い夜を乗り越えていけるだろう。

機能と祈りで言えば、まさに「祈り」だ。しかし同時に、本が買える「機能」でもある。武内さんは、毎日並べる本をしっかり選んでいるし、注文や取り置きも受け付けている。いま本屋さんがない市町村も多いから、こうした本屋さんがあるのは素晴らしい。私が言ったのはとても寒い夜だったけれど、その時偶然にも熱々のクラムチャウダースープを持ってきてくれた人がいた。なんだかそれ自体も奇跡みたいだった。

読書屋 息つぎ 写真:一ノ瀬ちひろ


震災前からあった軽食・喫茶レインボー(大熊町)、ペンギン(双葉町)が場所や形態を変えて復活したことも「祈り」かもしれない。「昔ながらの場所」というものががほとんど存在しない町において、昔のことを感じられる数少ない場所だし、その厨房には、元々お店に立っていた人たちがちゃんと今もいるのだ。そういう意味では、本当に代替不能な場所としてそこにある。軽食・喫茶レインボーで私が好きなのはナポリタンで、ペンギン(双葉町)はカツサンド。どちらもすごいボリューム!そして、とても美味しい。

「お母さん、今日の日替わりなに?と言いながら寄る人も多いんです、お母さんっていう呼び方はどうかと思うけど!」とペンギンの山本敦子さんは笑いながらいう。こうして、レインボーもペンギンも、日々さたくさんの人の胃袋を満たしている。そうか、だから、この二つのお店は機能であり、祈りでもある。


軽食・喫茶レインボー(大熊町)のナポリタン 写真:一之瀬ちひろ

私から、ささやかな提案がある。これから、まちづくりを考える人は、ぜひ「機能」の充実だけではなく、いかにしてそれぞれの「祈り」の場所を増やして行けるのかを考えてみたらどうでしょう。スーパーとかフードコートとかだけじゃなくて、散歩したりできる場所や、個人が経営するパン屋さんとか本屋さん、喫茶店だってあるといい。小さい映画館だっていいかもしれない。個人の顔が見える代替不能なお店や場所が増えれば増えるほど、その町は居心地がよくなる。今からから作り上げる町だからこそ、それを折り込むことは可能なのではないだろうか。

ポジティブな面もたくさん感じつつも、同時に福島第一原発事故の影響の途方もない甚大さも改めて感じた。本当に本当に、途方も、ない。

町を歩いていると、あちこちに解体された家の跡に残った更地がある。家がなくなり、道路や門だけが残されている。これは他の地では見ることのない、とても奇妙な風景だ。

どうして門だけ残っているのだろうと思っていたら、国からの解体の費用が出るのは母屋だけなので、門だけが残されているとも聞いた。しかし、門や塀だけが、誰かがそこに住んでいたという証でもあるから、なくなったら寂しいかもしれない。

こうして残された町並みは、糸がほどけてバラバラになり、もう元の柄がわからなくなってしまったタペストリーのよう。エッセイの中で「歯の抜けた櫛のような町」と表現した人もいた。実際に多くの大熊町民が暮らす大川原地区という場所は、元々は田んぼがあった場所で、そこに、ゼロから住居や役所、交流拠点を作ったのである。もともとの繁華街とは離れているが、大熊町の中では、たまたま放射線量が低かったことなどから、この場所が選ばれた。放射線量が低く済んでいる理由は明確で、原発事故の当日に吹いた風が北西に流れたからだ。全ては風向き次第だったということを私たちは覚えておかねばならない。

ほどけてしまったタペストリーを一度織り直すのは、そこに暮らしていた人だけではなく、新しくやってくる人たちでもある。
こうやって編まれ、浮かび上がってくる柄は昔とは同じではないけれど、その土地の柄になっていく。こうして土地は誰かが過去を背負い、誰かが今日を生き、誰かが明日を作ることで生まれ変わっていく。

もうすぐ3.11だ。「震災を忘れるな」「福島を忘れるな」という言葉も、ぽつりぽつりと聞こえてくる。しかし、実際、震災や福島第一原発事故について日常的に考えたり、この地の出来事に関心を持ち続けている人は極めて限られているように感じる(私もそうなのだ)。

東京と福島は遠くないし地続きなのに、とても遠く感じる。私は、毎日、国道6号線を走りながら、そして、ああ、この道路は日本橋まで繋がっているんだな、ずっとこの道を行けば東京に着くんだなと思う。でもその実感は少ない。風景が違いすぎるから。いずれ仙台から東京・日本橋までロッコクを走ってみたい。あちこちの風景を見ながらいくとしたら、3日くらいは必要だろうか?いや、もっと時間をかけてもいいのかも。考えるとちょっとワクワクする。いろんなものが見えてくる、そんな予感がする。

とはいえ、私たち取材する方としては、自分たちが見たもの、目の前に見えているものが全てではないということを心に留めなければ。そして今回、なかなか会えなかった方、そして家が帰還困難区域などにありなかなか還れない方たちにも思いを馳せながら、自分はどんな作品を作るのかを考えていく。まだ答えが出たわけではないので、今後も通いながら考え続けたい。
というのが、今日のところの雑感だ。


『ロッコク・キッチン』という小さな冊子は、もうすぐ完成する(たぶん5月くらい)。ロッコク沿いの土地から生まれたエッセイ12遍、そして私の書き下ろしエッセイ/滞在記、写真家・一之瀬ちひろさんによる写真という三部構成の本。これは、なかなかありそうでない構成の本になったように思う。私の名前がいちおう表紙にはあるけれど、みんなの本である。


ロッコク・キッチンのロゴ

限定500冊限定。いろんな人に読んでもらいたい。だから、ぜひ読みたいという人の元に届けられる仕組みも考えていかなければ(置いてもいいという本屋さんも募集しよう!)。5月の文学フリマでデビューさせようと思っていたのに、抽選に外れてしまった。我ながら間抜けだ。

これをきっかけに、いずれは一冊の長い本を書いていこうと思うけれど、そう焦らずに、しばらくは大熊・双葉町と行ったりきたりして、色々なキッチンを訪ねて食べ歩きたいと思う。


写真:一之瀬ちひろ


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