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「機能と祈り」で書店を考える

2020年の10月から「冒険クロストーク」というゲストを招いての対談シリーズを始めた。

ゲストには、多様な分野の方を招き、たっぷりとお話を伺っている。これまで10回開催しているのだが、私にとって第2回のゲスト澁澤寿一さんの回が、決定的に印象に残っている。そして、私の中で思考の方向性を与えてくれた回でもあった。

澁澤寿一さんは、渋沢栄一の曾孫にあたる方であり、「里山資本主義」として有名になった岡山県真庭市での、木質バイオマスを活用したまちづくりなどをサポートしてきた方でもある。農学博士として、日本各地での森づくり、まちづくり、人づくりに尽力されてきた。

澁澤さんがクロストークの中でお話してくれた内容を書き出すと、それだけで本が一冊書けるくらいになってしまうので、ここでは省略するが、澁澤さんのお話を聞いている中で私の頭に一つのキーワードが浮かんだ。

それが「機能と祈り」というものだ。

これは、哲学者の内山節さんが著作のどこかで書いていた表現だった。どの本だったかが思い出せないのだが。

内山節さんは「機能と祈り」をこんな説明で書いていたと記憶している。子供に「お父さんはどんな人?」と尋ねたとする、そこで子供が「お父さんは働いて給料を持ってきてくれる人」と答えた時、これは父親の「機能」を言ってるに過ぎない。一方で「お父さんと休みの日にキャッチボールするのが好き」と答えた時、これは「祈り」の話をしている。という感じだ。私の解釈も混じっているので、この通りに書いているわけではない。

ここから先は、私の解釈が入る。「機能」で語られる部分というのは、代替可能、入れ替え可能な領域だ。お父さんの例で言えば「給料を持ってくる」というのは、そのお父さんである必要性がなく、何なら年収が倍のお父さんが別にいれば「そっちのお父さんの方がいいじゃん」ということになる。つまり、代替可能なお父さんだ。
しかし「休みの日にキャッチボールをするのが好き」と語られるお父さんは「そのお父さん」じゃなければダメである。もっと野球の上手いお父さんが別にいても、うちのお父さんでなければダメなはずだ。「祈り」で語られる領域は、代替不可能なものだ。

澁澤さんは、クロストークの中で、昭和30年代くらいまでの日本の農村では、田植えを集落総出で行っていたという話をしてくれた。現代では、農業機械が発達し、農薬や肥料なども発達したので個別に田植えもできるが、人力で田植えを行なっていた時代は、水の上げ下げくらいしか田んぼの管理ができなかったので、生育が揃っていないとコメが作れなかった。自分の田んぼだからと、一人で田植えをしていると時間がかかって稲の生育が揃わないので田植えは総出で一気に行っていたのだ、ということを教えてくれた。

この時、同じ集落に住む近所の人はどんな人か?さっきの子供とお父さんの例から考えてみる。近所の人は「一緒に田植えをしてくれる人」と答えた時、これは集落としての「機能」を語っているに過ぎない。一方で、隣近所に住む人同士の交流や、心の交情、もしくは煩わしい気持ち、これらは全て「祈り」の部分である。
「隣の山田さんと花見に行くのが毎年楽しみなんだよね」というのは、山田さんである必要がある。代替不可能性がそこにある。
ただ、一緒に田植えをするのは、必ずしも山田さんがいなければならないわけではない。田植えという機能を果たすのであれば、別の人でも良いのだ。

地方の山村に住む若者たちが、街に出て行ってしまい、帰ってこない現状についても澁澤さんは話してくれた。狭い集落では、高校生くらいの若者が女の子と並んで歩いているだけで、1時間後くらいには「あそこの息子が彼女と歩いてたぞ、あの彼女はどこそこの娘で、父親は誰それで」ということが、集落のおっちゃんたちの溜まり場で噂になっている、ということが若者にとっては嫌で仕方ない。こんなプライバシーもない煩わしいところは嫌だ、そう言って街へ出て行くのだ、と。

そのような山村には、ありがたさと煩わしさが同居している。私の解釈では、ありがたさは「機能」であり、煩わしさは「祈り」だ。一緒に田植えをしてくれる集落の人はありがたい。ただ、狭い集落の人付き合いには煩わしさも同居する。

祈りがあるからこそ、機能が果たされる。また、機能的であるからこそ、祈りが生まれる素地となる。言葉を変えれば、個人が集まるから社会が成り立つし、社会が成立してこそ、個人が育つ。

今日、私の書店に以前も一度遊びに来てくれた大学院生が来てくれた。彼女は心理学を研究しており、書棚からいくつか選んだ本の中に河合隼雄さんの本があるのを私は見つけた。
「心理学とかやってると、やっぱり河合隼雄さんとかは読むの?」
そう尋ねると彼女は答えた。
「読みますけど、研究の中では必須という感じではないですね。ただ、心理学の歴史的には大きな名前の方なので、読む機会もありますが」と言う。そして続けてこう言った。
「河合隼雄さんって、物語性を大事にする方ですよね。ただ、やはり最先端の研究という面からは数字で語られるデータが重要視されるので、数字で語ることのできない河合隼雄さんの例は、批判する研究者も中にはいます」と。

これは完全に「機能と祈り」の話だなと、私は感じた。そして彼女に澁澤さんの話の例、内山節さんが機能と祈りと書いていること、そして私の解釈を話した。
河合隼雄さんが、物語性を用いて心理療法を行う手法は、機能と祈りの調和であると私は思う。代替不可能な、対象者が持つ物語性を、心理療法という機能に落とし込んでいる。集落総出で行う田植えは、まさにこれだ。代替不可能な一人一人の村人の存在を、田植えという機能に落とし込んでいる。

大学院生の彼女は「数字のデータ」と「物語性」が、研究分野では衝突しているということを表現を変えて教えてくれた。数字のデータは機能であり、物語性は祈りである。

ただ、河合隼雄さんや田植えの例でもある通り、機能と祈りは衝突するものではないと、私は思う。これは、完全に左右の両輪であるはずだ。右と左の両輪のどちらの車輪が大事なのか?という議論ではない。両輪のバランス、回転比率の正常化こそが大切であるはずだ。

今の世界の中で、最大規模の機能とは「資本主義」であるだろう。昨今「資本主義は良くない!」という議論が流行っている。私の解釈では、資本主義という機能が悪いわけではない。資本主義という機能の回転数だけを高めていって、祈りの比率を小さくしていく、両輪の不均衡が最大の問題だと感じる。

1945年に敗戦を迎え、そこからの高度成長を果たした日本であるが、その当時の我々の祖父母や両親たちは、いま目の前にいる自分の子供たち、孫たちにひもじい思いをさせたくない、惨めな思いをさせたくない、そんな「祈り」によって、資本主義という機能をみんなで果たしていくことで、現在の日本を築いてくれたはずだ。
いつの日からか、我々は「祈りを忘れた機能」の奴隷となり、巨大なシステムに身を委ねることで「安心」する道を選んできた。
「安心」するためには「信頼」を放棄する必要がある。信頼とは、裏切られる可能性も受け入れた上で行う行為だ。裏切りの可能性を残している限り、100%の安心はそこにはない。逆説的に言えば、100%の安心をするためには、誰からも裏切られる可能性を排除し、誰も信頼しなければ良い。誰も信頼せずに生きるためには、人間という最大のエラー要素を外したところにある機能に身を委ねる必要がある。そうやって人は人から切り離され、孤立化し、ますます祈りから遠ざかっていく。電車で隣に座った人も、マンションの向かいに住む人も、コンビニのレジを打つ人も、みんな代替可能な「○○の人」でしかなくなる。
代替可能な「○○の人」同士の、ある特殊な事例の時のみに発生する連帯を「絆」と呼んで喜び始める。それは、絆ではなくただの機能的連帯である。ヤバイから助け合うしかない、それだけだ。用が済めば、また元どおりの「○○の人」に戻るだけ。いつまでたっても機能的で代替可能な「○○の人」だ。そこに煩わしさを同居させるつもりは毛頭ない。流行的に使われる「絆」とは「自身にとって都合の良い機能的連帯」のことを言う。

「安心」という機能と「信頼」という祈りは衝突するのか?これは衝突するものではなく、両輪として回転比率を均衡にしていくべきものであるはずだ。
心理学の研究においての「数字のデータ」と「物語性」も衝突するべきものではなく、回転比率の均衡化させていくべきものではないだろうか。

どちらが大事で、どちらが大事ではない、という議論ではない。ニワトリが先か卵が先か、である。ニワトリと卵のどちらが大事、というわけではない。機能と祈りも、どちらが大事か、ではない。問題は「祈りを喪失した機能」であり、それに伴う「機能の高回転化」である。
機能を高回転させていくためには、人間という最大のエラー要素を外すために、祈りを機能化させる。人間の根源的な祈りを「宗教」「芸術」そういったものに投げ入れておき、高機能化された社会の中で潜在的に失われていると感じる祈りの部分を担当させることで、安心感を得ようとする。安心感を得るという機能を、宗教や芸術が果たすこととなる。大いなるものへの畏れであった宗教は、自身の不安感への恐れへと変貌し、祈りの機能化は完成する。呪術からの解放だ。
芸術は気持ち良くなければ認められない人が益々増える。ましてや、税金を投入するような芸術祭などの場所で、不安を煽るような、人々を不快にさせるような、見ていて気持ち良くないものは認められなくなる。機能化された祈りの現場である宗教や芸術の場で、不快な要素が見え隠れすることは、安心という機能を担保できなくなってしまうのだ。

はじめの方に「お父さん」を機能と祈りの両面から語る例を挙げたが、一人の人間にも機能と祈りの両面がある。いや、一人の人間だけではなく、社会全体も、小さなコミュニティも、常に機能と祈り、代替可能性と不可能性の両側面が共存しているはずだ。

いま、私は書店をやっている。
書店とは、街にとっての一つの機能である。存在理由は、人々が本を買って読むことである。ただ、現在ではAmazonに代表されるような、便利で「機能的」なネット書店が隆盛だ。

それでも、わざわざ書店に足を運んでくれる人が、少なからずいる。例えば、近所のおじいちゃんおばあちゃん。ネットで本を買うなんて、自分ではできない。クレジットカードも持ってないかもしれない。本を買うには、本屋さんに行くしかない。様々な理由で、実店舗で本を買いたい人にとって、街の書店は機能的な存在となる。だが、もしそんな人の家のさらに近くに、別の書店が開店すれば、きっとそちらの店に本を買いに行くだろう。本を買うという機能を果たせれば良いわけなので、ウチの店である必然性はないかもしれない。

ただ、わざわざ遠方からウチの書店に足を運んできてくれるお客さんもたくさんいる。片道2時間かけてきました、とか、関西に住んでいるんですが出張で東京に来たので寄りました、という方など、実にたくさんいる。そんな人たちは、道中で幾つの本屋の近くを通過して、わざわざ来てくれたのだろうか。冒険研究所書店という、代替不可能性を求めてきてくれた人たちは、本屋としての機能を求めてやってきたわけではない。

これは、どちらも大事なはずだ。近所の人たちにとって、本を買うための機能的な、代替可能な本屋としての存在も、遠方からわざわざやってきてくれる、代替不可能性を求めている人たちにとっての冒険研究所書店も、どちらの顔もある。
これは機能と祈りの両輪だ。あとは、私の中でその回転比率を常に微調整しつつ、試行錯誤をやめない姿勢が大事なのだと思う。
そして、できることならば「機能的」であった書店をやがて代替不可能な「祈り」の書店に変えてもらえれば、こんなに嬉しいことはない。

「機能と祈り」というフィルターを使って、世の中を見渡してみると、実に様々なことが新しい視点で見えてくることに、この一年ほどは気付いている。
いつも通りに、書き始めからまったく展開も考えずに書き連ねてきたのでまとまらないし、文章があっち行ったりこっち行ったりしてすいません。

要は、私が言いたいのは、冒険研究所書店に来て本を買ってね、ということです笑


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