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”勇気”と”問いかけ”がイノベーションを起こす仮説

「成長企業の法則」という本を読んだ。

「Tribal Professional Academy」という社内勉強会の課題図書だ。


二律背反を共存させるG企業

本書は21世紀に入ってから成長を続けているグローバル企業を”G企業”と名付け、その共通項を”LEAP”というフレームワークに落とし込んでいる。

”LEAP”は本書の著者が独自に提唱しているモデルで、企業の「ビジネスモデル」「コア・コンピタンス」「企業DNA」「志」の4つの側面からG企業たる要件を以下のように抽出している。

L:ビジネスモデルについての要件
「リーン(Lean)」→「筋肉質」「低コスト体質」「無駄のない」
「レバレッジ(Leverage)」→他社の資産を「てこの原理」で活用する
E:コア・コンピタンスについての要件
「尖り(Edge)」→「ここだけは絶対負けない一芸」「特異点」「突出力」
「ずらし(Extension)」→「フラクタルに自己増殖する力」「変化への機敏な対応」
A:企業DNAについての要件
「こだわり(Addictive)」→「偏執狂的」
「適応力(Adaptive)」→「テスト&ラーン」「世の中の変化に応じた進化」
P:志についての要件
「大義(Purpose)」→「企業としての目的」「大きな志」
「一歩踏み出す(Pivot)」→「軸足を動かさず、もう一つの足で回転する」

なお、それぞれの領域における二律背反的な要件は、大本では静的な「構造的な強み」と動的な「破壊的な動き」に分類されている。

静的な「構造的な強み」
「堅牢性」「しぶとさ」「ブレない」「深化」
動的な「破壊的な動き」
「変容性」「身軽さ」「融通無碍」「新化」

本書の後半では、これらの二律背反する要素を共存させることによって成長を続けている”G企業”の実例が豊富に紹介されている。

が、その具体的な実例については本書をお読みいただくとして、私が興味を持ったのは全ての要件において共通する「二律背反する要素の共存による成長」についてだ。


昔、選択と集中は正義だった

「選択と集中」という言葉が日本で流行りだしたのはバブル崩壊後の1990年代だったと言われている。

以降、理論的には例えばポーターのプロダクトポートフォリオマネジメント、実績としてはGEのジャック・ウェルチによる「世界で1位か2位になれない事業からは撤退する」方針の成功などに裏付けられて、日本の企業経営において幅広く普及したように見える。

「選択と集中」は一つの例に過ぎないが、企業活動を抽象化し、整理し、フレームワークに落とし込んでいくという手法の普及が、日本企業の「失われた20年」と呼ばれる凋落と軌を一にしているように見えるのは、私にはやはり気にかかる。

※ちなみに90年代に絶賛され「20世紀最高の経営者」と言われたジャック・ウェルチだが、退任後のGEの苦闘によってその評価は一部で修正されてきている


「論理的な正解」がチャレンジしないことを正当化した?

本書において、著者の名和氏は「失われた20年」についてこう語っている

「あらゆる企業は、普通に経営していては失速する。成長を強く意識しないと、企業の継続は難しい」
~日本企業はリスクを取って成長を目指すことができませんでした。環境の変化に対して何もせず、ただ立ちすくんでしまったーこれが「失われた20年」の一番の要因です。

話がいきなり飛ぶが、私はこの箇所を読んで、山口周氏の「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」で書かれていた「アート」と「サイエンス」「クラフト」のアカウンタビリティ格差問題に通底するものを感じた。

アカウンタビリティというのは、絶対善のように思われている節がありますが、一方でリーダーシップの放棄というネガティブな問題も孕んでいる。意思決定の理由について、定量的で合理的な説明さえできれば、それが結果的に間違ったものであっても「あのときは、そのように判断することが合理的だったのです」という言い訳に用いられるからです。

つまり「立ちすくんでしまった」経営者というのは、本人の主観で見ればアカウンタビリティ(説明責任)を果たせる範囲で十全な努力をしてきたつもりだったのではないか、本来事業を成長させるはずの”定量的で合理的な説明”がチャレンジの恐怖から逃れるための”言い訳”として普及してしまったことが「失われた20年」を招いたのではないか、という疑惑を持ったのだ。


二律背反を乗り越えるイノベーションが成長をドライブする

では日本企業はいったいどうすれば衰退の道を歩まず、成長を遂げることができたのだろうか?

「成長企業の法則」において紹介されている”G企業”は、前述の「ビジネスモデル」「コア・コンピタンス」「企業DNA」「志」の4つの側面において、一見すると二律背反する要件を、それぞれの形で共存させることによって成長を掴み取ってきたと言える。

つまり、イノベーションを起こしたのだ。

ここで言う「イノベーション」とは任天堂の宮本茂が残した有名な言葉

「アイデアとは、複数の問題を一気に解決するものである」

の「アイデア」に近い。
彼らG企業は二律背反する要件を両立させる「アイデア」を具現化させる=イノベーションを起こしたと言える。

では彼らはどうやってそれを進めているのだろうか。

異次元の成長を実現しようとすると、いろいろな困難にぶつかります。そして、その困難を乗り越えるためにイノベーションが生まれます。ただし、イノベーションを生むためには、単に非連続な機会に挑戦するだけではなく、イノベーションの基盤となる軸足を持たなければなりません。

「成長企業の法則」には、繰り返し語られる”動的な「破壊的な動き」”である非連続な機会への挑戦と、”静的な「構造的な強み」”である基盤としての軸足の必要性が書かれている。

確かに必要条件としてはそうだろう。だが十分条件ではないはずだ。
(静的な強みを持った企業が非連続な機会への挑戦さえすればイノベーションを起こせるのなら、日本企業の没落はここまで進まなかっただろう)


イノベーションに必要なのは、新しい「問い」ではないか

もう1箇所、「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」から引用する。

論理思考というのは「正解を出す技術」です。私たちは、物心ついた頃から、この「正解を出す技術」を鍛えられてきているわけですが、このような教育があまねく行き渡ったことによって発生しているのは、多くの人が正解に至る世界における「正解のコモディティ化」という問題です。

同じ問いを出されれば正解を出せる人がたくさんいる=正解に希少価値がなくなった時代にイノベーションを起こそうとするならば、必要なのは既存の問いに対する新しい答えではなく、「新しい問い」自体ではないのか。

”動的な「破壊的な動き」”である非連続な機会への挑戦と、”静的な「構造的な強み」”である基盤としての軸足の必要性を両立させるための新たな問いかけ。

そして未だ正解が見えない”機会への挑戦”に取り組み続けるための勇気。

”イノベーション”を起こすために新たな問いと勇気が必要とするならば、それは昨年から私が興味を持っているアートシンキングとつながるように思う。

そんなわけで、次回はアートシンキングとイノベーションについての記事を書きたい。



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