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爆烈乱闘篇 その0「開発前夜と周りの環境」SFCらんま1/2開発の思い出

 当時のゲーム開発現場の記録としても覚えているうちに書き残したかったのでnoteにこうして書いています。なにぶん、30年以上前の古い記憶なので思い込みだったり間違っていたりする箇所もあるかもしれません。
 当時を知る人で「ありが、そこは違うよ」というところがあれば、コメントやメッセージでご指摘してくださると嬉しいです。

 前回の「らんま1/2町内激闘篇」の記事はこちら


次にどんなゲームを作るか

 町内激闘篇のあと、契約満了でメサイヤから去る…とはならず、町内激闘篇の時と同じくつっちーさんから「ありが、もう一本ゲームを」と言われメサイヤ開発室に残留することになりました。まだ10代の若僧でキャリアも浅い私を評価してくれてたことには感謝しかありません。

 爆烈開発の後メサイヤを去る際に、つっちーさんとこれからの話をしたのが強く記憶に残っていてたまに思い出しますが、たぶん爆烈エピソードの最後はそのときの会話で締めくくるかと思います。

ふたりチーム

 開発最初期は町内激闘篇でプログラマーだった山本克利さん(以降、克さん表記)と私の二人だけでした。
 このnoteを書くに辺り、仮名にすべきかちょっと考えたのですが 克さんはそもそもゲームのスタッフロールに名前が出てますし、私視点の爆烈開発の話だと出番が多いのでこのまま進めます。

メサイヤ会報誌連載「ラッキーパラダイス」(作・斎藤智晴)の克さん。似てる。

 克さんから「ありがは、どんなゲームを作りたい?」と訊かれて、意見を求められたことで一人前に扱われてると感じて嬉しかったんですよね。ここぞとばかりに色々と考えてることを伝えてたと思います。
 遠い記憶となるのですがその時、SFCの機能で出来ることを踏まえた上で複数人数で遊べるゲームのアイデア出しをしていました。

 当初はらんま爆烈ではなく、そのまま開発していたら私キャラデザのオリジナルゲームとなる流れでした。この頃の克さんとの打ち合わせメモが残ってればここに貼ったのですが、残念ながら残ってません。
 残ってたとしても細かい仕様まで話が進んでおらず、ほぼ雑談しながらのラクガキメモなのでガンダムとかマリオとかロックマンとかタイムボカンメカのラクガキが散りばめられてるはず(メカものを意識してた)
 
 集団で遊べるゲームにしたかったんですが、らんま町内の開発ではキャラ領域が狭く、思ったようにキャラを動かせなかったので最初からもっとユニット的キャラデザにしたら良いのが作れそう…と考えていたこと。
 SFCはデフォルトのコントローラーが2つしかなくモトローダーやボンバーマンのような多人数同時プレイで進めるのは無理があるのでメイン画面はスゴロク形式、チームに分かれて順番にコントローラーを回しつつみんなでそれぞれマップ上を移動しながらギミックのあるステージに突入…マップ画面で移動&アクション面突入という構成はドラゴンバスターやゲゲゲの鬼太郎妖怪大魔境のイメージもあったかも。
 そんな感じでぼんやり考えてたのはスーパーマリオ3やシュビビンマン1… メサイヤ製のゲームとなるのでシュビビンマン1は意識してたと思います。

 遠い記憶と言いつつ、なぜここまで具体的に書けるのかというと、この時の集団戦とスゴロクはらんま爆烈の開発をするときに引き続き検討してるんですよね。

 フリーランス仕事は多くの場合、ゲーム制作がある程度進んで仕様が固まってから呼ばれるわけですが(前作の町内激闘も途中参加)爆烈の場合はふたりチームで開発の立ち上げからやってるのと自分のキャリアの中でも最初期だったというのもあって何をしようとしてたのかが印象に残っています。

ハマシュー

 この頃にはシュビ3の同期絵描きたち+はやしひろしさんがシュビ3のメインプログラマーである濱田信次(はまだしんじ)さん(スタッフロールに出てるのでそのまま表記)の元で「ハマシュー(ハマダ・シューティングゲームの略)」の開発に着手していました。

メサイヤ会報誌連載「ラッキーパラダイス」(作・斎藤智晴)の濱田さん。似てる。

 自分は関わってないので細かな実情は知らないのですが、傍から見てるとハマシューは絵描きそれぞれが自由な発想でステージやボスを作っていて、なんか凄い楽しそうでした。

 因みに、克さんと濱田さんは同時期にメサイヤで開発していた「重装騎兵ヴァルケン」に登場する「カーツ」、「ハーマン」のモデルになっています。

※うるし原先生から提出された同僚パイロットの顔グラ原画が届いてからメサイヤ開発室で「これ…克さんと濱田に似てね?」となり「カーツ」「ハーマン」と名付けられた流れだと記憶しています。

メガネが「カーツ」、ニヤッとしてるのが「ハーマン」。似てる。

 因みにハマシューは後に「超兄貴」として発売された有名ゲームです。
 自分とその周りの若者たちみんな、想うことやりたいことをゲーム作りにぶつけて時にはライバル視したり時には感嘆したり、同じ開発室の中でゲームを作る戦友だったような、そんな時代でした。

 ボス32体はなんとなく覚えています。ハマシューは爆烈チームだった自分の席のすぐ近くのブロックで開発されており、開発中に「ありがもボス(ステージ)作ってみないか?好きに作っていいよ」って声をかけられたんですが、それを誰に言われたのかちょっと自信ないな…たぶんそのまま作ってるとボスが足りなくなるので、声をかけてくれたんじゃないでしょうか。

 私は らんま爆烈の開発が大忙しだったのでとてもじゃないけど新しいアイデアと絵をまとめるのは無理なので断ったんですが、同期絵描きの珍妙アイデアなドット絵を見たり、葉山さんの曲が上がってきて聴かせてもらったり濱田さんの席で動いてるとこ見ながら、ちくしょー面白そうだなーいいなーって思っていました。

1992年のメサイヤとの契約形態

 そして思い返すとタイトル毎の契約じゃなく何月から何月まで(だいたい今の開発が終わるまで)っていうざっくりした契約で…っていうかメサイヤ(NCS)と契約書をかわした記憶がないです。

 時は1992年、ゲーム業界自体が若かったのでまだその辺のルールがちゃんとしてなかったんでしょうね。ちゃんとお給料はもらってたんで当時なんの文句も無かったですが…
 空いた時間に別のチームのドット絵を見に行ったり、試しに描いてこんなんどう?とかかなり自由にチーム間を行き来してても怒られず、むしろ面白そうだからちょっと描かせて、とか特殊な描き方してる場合、これどう描いてるの?とかの情報交換もしてたと思います。

 昨今では考えられないことですが、この当時は各自のモラルに任されていてNDAもありませんでした。

今宵、暇人は魔人と化す

 ウインズの創立メンバーの一人であり、フリーランスの先輩だった仲井さとしさん(当時の表記は「中井覚」※)も上記のヴァルケンの開発がはじまりメサイヤで合流することに。※表記名が違うのを気にするのが面倒なので、以降は「なかさん」とひらがな表記で統一させていただきます。

メサイヤ会報誌連載「ラッキーパラダイス」(作・斎藤智晴)に登場した なかさん。似てる。

 フリーランスになった自分をなにかと構ってくれて当時のなかさん家にもよく泊まりで遊びにいってたのですが、大量の生原画やゲーム開発資料ファイル、いい感じの喫茶店のちょっとお高い美味しいコーヒー、何もかも新鮮でした。

 で、なかさんが「会社まで行くのは全然良いんだが、朝起きられん」と言ってたのでヴァルケンで出社するまで私が毎日モーニングコールを入れる係になっていました。本当に寝起きが悪くて、じんりきスムース機能になって時間差で起きるまで何度も電話してたんですよね。

 斎藤智晴からは
「毎朝モーニングコール入れてるって、おまえはアイツの彼女かw」
とメサイヤ開発室で笑われていました。

 この時代のことを思い出しながら書いてると遠い昔のような、つい最近のことのような、なんだか胸がいっぱいになります。

らんまらんまで ナンダカンダと

 そんなこんなで克さんとふたりチームでオリジナルゲームの打ち合わせを進めてたのですが「SFCらんま格闘の続編を作ってほしい」と会社に言われてSFCらんま続編を作ることに。
 私自身はらんま町内でやり残したことが多いと思っており違和感なくそのままSFCらんま新作を詰める作業に気持ちが切り替わりました。

 自分デザインのオリジナルキャラでゲームを作りたくなかったの?と問われるとシュビ3のnoteにも書きましたが、シュビビンマン1、2でメインイラストを描かれてた うらべ・すうさんが3に関わらなかったことであくまで「ゲームは会社所有のコンテンツである」という意識がありました。
 自分のキャラデザメカデザは既にシュビ3にも登場していましたし、特に自分のオリジナルキャラをメインとしたゲームを作ることに固執しておらず、ゲーム仕事では良いドット絵を描いて面白いゲームが作れればそれで良かったんです。

 ある意味、ふたりチームで作るゲームが らんま続編と決まったことでふわっとしていたやるべき事が明確になり、そこからは克さんとふたりで「こうしたい」「ああしたい」のアイデアをどんどん詰めていきました。

らんま爆烈乱闘篇 開発の思い出 その1 に続きます。

▼メサイヤ時代▼


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