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新しい気づき

✅他人と目を合わせること
✅周りの人に頼る(素直にヘルプを呼ぶ)

が苦手だった。

きっかけは何だったか忘れたが、社会人になった頃には既に下を向いて歩くような人物だった。
会社の廊下を歩く時、反対側の人とは、なるべく目を合わせない。
そのおかげで(?)ずいぶん人脈を狭くした。

アイコンタクトができないため、車の運転時は「おじぎ」で誤魔化すのが常だった。

会社から帰宅して、長女の体調が悪かった時、医者に連れて行って自宅に戻ると19時を過ぎていた。
「なんでもいいので(次女に)ご飯を食べさせておいてもらえませんか?」と予め姑にお願いしていたが、何もしていなかった。
(今思うと頼ろうとしていた自分があまかった)
「私が食べさせたことで、お腹でも痛くしたらいけないと思って」
それは完全な言い訳だ、と直感的に理解した。
何故なら実の娘の子供達には上げ膳据え膳なのだから。
ある時は、仕事から帰宅した私をつかまえて、遊びに来ていた実の娘の子供を医者に連れて行って欲しい、と言われた時もあった。

姑とのやりとりで、ある時を境に「人に頼る」ことは一切やめた。

それが…

新しい場所で働き始めたことで、この2つの「苦手」が解消されつつある。

いや、もしかしたら私は、ずっとこのコンプレックスみたいな苦手意識から、自分を解放させたかったのかもしれない。

お客様とのやりとりは「お金」の受け渡しが発生するため、必然的にアイコンタクトが必要になる。

しかし、最初は目をあわせられなかった。

今までは「無理」で済ませてきた。

だが「無理」の向こう側に行きたくなったのだ。

目のあわせ方。声の出し方。
幼い頃には当たり前に出来ていたことが、生きるプロセスの中で制限されてしまうんだよ、と何かで聞いた時「確かにそうだな」と気づいた。

小さな子供が大きな声でワンワン泣いても、その声がかすれてしまうことはない。
ところが大人になると声の出し方を意識してしまうため、かすれてしまう、と。

「こういうのある?」
お客様からの商品問い合わせに対し、なるべく自分で対応できるようにしなくては、と思っていた。

他の作業をする従業員さん達の手を煩わせたくない、という配慮もあった。

だが、それこそが取り越し苦労だったことに気づいた。

レジ担当が持ち場を離れてしまったら、逆にお客様に迷惑がかかる、という当たり前の意識が足りなかった。

必要な時は、ちゃんと周りを頼る。

そう、頼っていいんだ、と気づいた。

「無理の向こう側」も「周りを頼る」ことも、誰かが連れて行ってくれるのではない。

自分しかその場所に連れて行くことは出来ないことにも気づいた。

今日もありがとうございます。

世界平和は、ひとりひとりの心の内にあります。 共に明るい世界を築けていけたら幸せです。 今日もありがとうございます🌸