梅雨時の天使
大粒の雨が降りしきる中、遠方の友人に宅急便を送ろうと、普段行かないエリアのコンビニへ行った。
先端恐怖症のわたしは、尖ったところの多い傘がたくさん集まっている光景が苦手だった。できれば、人通りの少ない道路を通りたかった。賑やかな駅周辺から逆方向で、墓地の真横にあるというロケーションの、お客のあまり来ない、いつ訪れても閑散としたコンビニへ向かっていた。
墓地の入り口に差し掛かった。墓地の敷地内は砂利が敷かれた地面に飛び石が埋め込まれていて、砂利とアスファルトの境があるところが入り口になる。特に門などはなく、歩道と墓地を仕切るために、紫陽花をずらりと並べて植えているようだった。白や紫の紫陽花の花が、無慈悲な雨に打たれていた。
わたしは足を止めて、数歩後ずさった。紫陽花の根元に、成人の男の人が、うつぶせで倒れていた。ぐっしょり濡れた白いスーツの前面が泥にまみれていた。
雨水が当たらないように、宅急便に出す小箱を用心して抱え、身を屈めて声をかけた。
「大丈夫ですか?」
昼間から酔っ払ってるのか? と思ったが、そうでもない様子だった。
男性は呻き声を発した。体のどこかが痛むように、苦し気だった。
「大丈夫です。……お恥ずかしい。見なかったことにしてください。自分で起き上がれますから」
「はあ」
わたしは男性を振り返りながら、コンビニへ向かった。
彼は、気力も体力も潰えたように、絶え間なく降り続ける雨粒に、濡れるがままになって倒れていた。
コンビニからの帰り道、彼の姿はなかった。
しばらくして、また雨の降る日、傘を差してそのコンビニに行った。スマホで撮影した写真をプリントしたかったのだ。
墓地の紫陽花沿いに歩いて行くと、入り口でまたあの男性が倒れていた。白かったスーツは全体的に泥水が染みて、「モカ」と表示するのが適切な色になっていた。
わたしは駆け寄り、
「あの、すみません、大丈夫ですか?」
と、すこし大きな声で呼びかけた。
男性は顔を伏せたまま、
「大丈夫……です」
と、不明瞭な声で呟いた。
「全然、大丈夫じゃないですよね? この前もここで倒れてましたよね」
「いえ、本当に」
「何か、わたしにできることはありますか?」
「いえ、わたしは……」
「はい」
「実は、わたしは……」
「はい」
「……驚かないでください」
男性がそう言うと、背中がぱあと輝いた。男性の背中に、彼の身長ぐらいある純白の翼が現れた。しゃがみこんでいたわたしは、その弾みでバランスを崩して、よろけた。
「雨のせいで翼が重くなって、羽搏けなくなってしまったのです」
彼は、初めて顔を上げた。日本人で言うところの黒目が、黄金色をしていた。
「この翼を乾かしたいのですが、夏になるのを待つしかなさそうです」
わたしは、ぐらぐらしていた体勢を持ち直した。
「乾けばいいのですか」
「そうです」
「それだったら、うちで乾かせばいいですよ。近所だし」
こんな羽根を持つ人と交流する経験はめったにないだろうと、わたしは内心、興奮していた。それにわたしは、尽くすタイプなのだ。
「見ず知らずに人に迷惑をかけるのは、どうも」
彼は、金色の眼をしょんぼりとさせ、睫毛を伏せた。
わたしは、尻込みする男性を強引に引っ張って、アパートへ連れて行った。背中の翼は見えないようにしてもらった。
男性のスーツは泥まみれだったので、ワンルーム六畳の部屋にレジャーシートを敷き、そこに座ってもらった。翼を出してもらうように言うと、背中が発光して、濡れそぼってはいるが、美術館に展示してある大理石の彫刻のような、豪勢な翼が出現した。
「この羽根を、拭いていいですか」
「はあ」
彼は、ぼんやりした表情で、上の空で応えた。この展開に戸惑っているようだった。
わたしは、雨の雫が滴りそうな羽根を、バスタオルでポンポンやさしく叩いて、水気を吸い取っていった。あらかた水分がなくなると、羽根にドライヤーをかけた。
乾き始めた翼はふさふさとして、触るだけでも軽くなったことがわかった。
「どうですか、そろそろ飛べそうですか?」
彼は体育座りのまま、試すように翼を広げた。狭い部屋が、白い羽根でいっぱいになった。
「うん、これなら飛べます。ありがとうございます」
彼はレジャーシートの上に立ち上がった。さらに大きく、壮麗な翼を伸ばした。
全身が燦爛と輝いた。土色のスーツが漂白されるように白く変わり、それも光に覆われて、光が白いのか、スーツが白いのか、判別できなくなった。
彼はわたしを、金色の目で見つめ、パチ、パチパチ、と、モールス信号のように瞬きした。
彼から発せられる光が、恒星の爆発のように、突然強くなった。
直視するのが耐えられず、わたしは目を瞑った。数秒、目を閉じていただけだったが、目を開けると、すでに彼の姿はなく、光も消失していた。
いつものわたしの部屋に、泥水のついたレジャーシートが残されただけだった。
また数日後、墓地の脇のコンビニへ行った。雨ではなく、久々の晴天だった。ぽかんとしたような空が眩しかった。
コンビニに用事はなかったが、あの男性のことが気がかりで、ちょっと様子を見るつもりで墓地の入り口を通って、コンビニでコーヒーでも飲んでこようと思っていた。
相変わらず、墓地に沿って、紫陽花が鬱蒼と葉を茂らせていた。青っぽい花を盛んに咲かせている。
墓地の入り口、男性が倒れていたあたりに、テニスボールぐらいの、白い光の球体が、宙に浮かんでいた。
なんとなく、わたしを待っていたような温かさを感じた。
その物体は、チカ、チカチカ、チカ、と、点滅した。
(ありがとう、とか、わたしは無事です、みたいな意味かな)
わたしは勝手に解釈した。わたしは密かに微笑み返し、
(どういたしまして)
と、心の中で呟いた。
それは、空中で停止したまま、ふーっと息を吐くように薄らいで、消えた。
わたしは発光する球体が消えてなくなるのを、立ち止まったまま見届けた。
ふと気づくと、わたしを取り巻く風景は、一昨日も昨日も今日もいつも同じような、すこしだれた日常の気配が漂っていた。紫陽花が咲き競っているのを眺めても、降り注ぐ陽光を感じても、毎日が切れ目なく続いていて、変わったことなど何もなかったかのようだった。