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さらっとデザイン史3〜グラスゴー派とウィーン分離派の活動〜

さらっとデザイン史2〜アールヌーボーからアール・デコへ〜の続きです。

ウィリアム・モリスが機械生産に異議を唱え、工芸復興を呼びかけることで生まれたアーツアンドクラフツ運動は、様々な思想や様式を生み出していきます。
用の為の美にこだわり続けたモリスの思想とは相反し、スコットランドの工業都市グラスゴーの展開にはへの著しい傾倒も見られるようになってきました。

グラスゴー派の活動

グラスゴー派の中心人物として添えられるのは建築家であったチャールズ・レニー・マッキントッシュです。彼らの特色は幻想的とも思えるほど入り組んだ曲線装飾にありました。この装飾様式の由来はゲルト文明にまでさかのぼることもできますが、その造形の質はそれに世紀末的な妖しさが加味されたものでした。

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チャールズ・レニー・マッキントッシュ(画):wikipedia

グラスゴー派の幻想的な曲線装飾は「奇妙な装飾の病」として、当時の多くの芸術家からも酷評されてきました。
しかし、1893年に創刊された美術工芸の雑誌「ステューディオ」はグラスゴー派に対する批判が強まる中、唯一反対の立場をとり、1897年、グラスゴー派の活動を大いに紹介します。
この記事の掲載が、同じ年のウィーンの美術家と工芸家によって結成されたウィーン分離派の造形運動に影響を及ぼすこととなります。

マッキントッシュの代表的空間 ウィロー・ティールーム

また、建築家であったマッキントッシュは一連のティールーム装飾の設計やグラスゴー美術学校の設計でも注目を浴びます。
これらにはそれまで用いられていた曲線を使わずに垂直や水平が律儀的に配された構成を多用されています。

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ウィロー・ティールーム 写真:wikipedia

この時期には、マッキントッシュの代表作であるハイバックチェアも初めて登場します。用をほとんど無視しながらも垂直と水平の端的な構造を備えた姿からは極めて、近代感覚に優れていたことが見て取れますし、以後のモダンデザインにも影響を及ぼしたと考えられます。

ウィーン分離派(ゼツェッシオン)の活動

「時代には時代固有の芸術を、芸術にはその自由を」1897年にウィーンで結成された分離派は、この精神を信条としていました。彼らが目指したのは分離派のその名の通り過去様式からの<分離>であり、新時代を切り開く芸術の創造にありました。
ウィーン派の中心人物には近代建築の父と呼ばれた建築家オットー・ワグナーの弟子であるヨーゼフ・マリア・オリブリヒヨーゼフ・オフマンがいます。

オットー・ワグナー:ワグナーの建築に対する姿勢は過去様式からの分離を目指しており、新時代に照応した材料や構造を駆使するところに求められた。1895年の著書「近代建築」でその骨子が提示されたことによってワグナーは「近代建築の父」としての名が与えられている。

分離派結成の翌年1898年、このグループの拠点として建てられたオリブリヒの分離派館も基本構造は近代建築を思わせるほどにシンプルな構成ではありますが、中央屋上には金色の植物がおおい茂っており、全てが合理では説明することができない佇まいをしています。

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分離派館 写真:wikipedia

恣意的な形象は抑えられ、だからと言って冷たい幾何学が優先するものでもない、合理と非合理が混在する分離派館では独特なスタイルが確立されています。
一方ホフマンはウィーンの地で1903年、工芸家集団「ウィーン工房」を設立します。ウィーン工房の代表作としてはブリュッセルの地に建てられたストックレー邸があります。

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ストックレー邸 写真:世界遺産オンラインガイド

外観の角ばった形が目に入りますが、壁面には大理石が厳選され、壁面の白い方形を際立たせているのは入念な細工のある青銅の縁取りでした。
ホフマンは1932年までこの種の優雅さを持続させていきました。それは近代デザインの歩調からは遠ざかった位置での活動でした。

装飾と罪悪:装飾からは逃れきれないウィーン派の活動は1908年建築家アドルフ・ロースによって強烈な批判を受けることになります。材料の持つ質感をもっとも良く示す事がロースの心情であり、何故に装飾を施すのかという精神をロースは持っていました。この考えはまさに近代合理主義へ、ロースからコルビュジェへ、一筋の歴史の軸線が繋がろうとしていた重要な過程であると考えられます。

さらっとデザイン史4〜AEGとドイツ工作連盟の活動〜

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