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「ジョーカー」のラストシーンは最強のプロモーションである~あるいは、こんなタイトル番外編~

『やりなさいと言われたことはちゃんとやる』
「やられて嫌なことは人にしない」
「ちゃんと親孝行する」

これって誰もが間違いじゃないと思う、

絵に書いたような「良い子ちゃん」像ですよね。

でも、この全てに忠実に生きることは、果たして幸せを呼ぶのか、誰にもわかりません

むしろ、そんな良い子ちゃんとして地に足つけてしっかり立っている方が難しいかもしれない、と思わされるのが「ジョーカー」でした。

ということで今日は「ジョーカー」についてもうちょっと話させてくれ的な番外編です。

一つ一つ捨てていく

この回でも少しお話しましたが、この作品の前半部は、障害を抱えた自分が「良い子ちゃん」として正気を保つために依存しているものを一つ一つ紹介していく展開だと思っています。

週一回のカウンセリング、薬、母からの優しい言葉、つらいけど稼ぐための仕事、そして最後に、憧れの司会者が出ているコメディショー。

笑ってしまう発作と漂う不気味さに埋もれてしまってるところもありますが、描かれているのは、大好きな芸能人がいて、非日常に密かなあこがれをもつ、「良い子ちゃん」の典型的な姿だと思います。

でも、はじめに紹介された「カウンセリング」の終わりとともに、「銃」という反逆のための力を得た彼は「良い子ちゃん」である自分の輪郭を作っていたものを一つずつ、今度は手放していきます。

薬もカウンセリングの終了とともに奪われ、自分を保つための手段は、「銃」のみになってしまいます。

やっと手にした反逆の手段のせいで仕事も解雇され、お金さえ失ってしまうアーサー。

そこで、「人にやられて嫌なことはしない」、やり返さない「良い子ちゃん」の精神がついにぶっ壊れるのが、エリート3人虐殺シーンです。

ココは意外というよりも、「やっぱりな」って展開ですよね正直。でもだからこそ、僕はもっとここにカタルシスを持ってくるのではと思っていました。そしたら意外とさらっとしていて。

だからこそ、まだまだ行くぞって感じがしました。まだまだ、どんどん沈んでいく、もはやこっからが始まりなんだと言わんばかりの。

「すすり笑い」が今作の白眉

その勢いそのまま、突入していくのは、自分の出生の秘密についてです。出生というのはひとのアイデンティティに関わる重要な部分で、そこが揺らぐというのは大変な精神的負担なことが用意に想像できます。

ましてや、「母を支えている」というのがかなり少ない自己肯定感の源泉になっていることがわかるシーンもありますからね。

もうココでのアーサーはグワングワンです。病院で母親のカルテを強奪したあと、踊り場で笑いの発作が起こって鼻をすすりながら笑っているシーンは今作の白眉だと思います。

ついでにもう一つ好きなシーンを挙げると、前半のシーン。ソフィーに「銃をもって押し入る」といったあとに「面白い人ね」と返されるシーンです。

僕正直あのシーンの時点では、こいつ銃で誰か撃ち殺すんだろうな、っていうのは予想ついてて。

だからこそそのセリフで鳥肌が経ったんですよね。コメディアンへの強いあこがれがある彼にとって、そして自己承認欲求が自己実現へと変わりゆくタイミングの彼にとって、「面白い」は最大の肯定その行なんです。だからこそ、行動に直結してしまう。その行動が銃をもって押し入る、なのは

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て感じなんですよね。ぞくぞくするシーンです。

話を戻して自分のアイデンティティの根幹さえも失ってしまって、しかも、自分が疎まれる原因、自己肯定感が下がった原因である、この発作さえ、原因は母の虐待であったことがわかります。これは相当ショックでしょ。

俺が今虐げられているのは、俺がいま弱者なのは、おまえのせいだったじゃないか、そしてお前が愛していた、、お前が一番頼っていたやつも結局は、俺のことを「素顔が見せられないやつ」と罵ったじゃないか、お前のせいで俺は弱者になった!

とそこまで感情移入してしまいました。
ここで「母親を殺す」ことは「良い子ちゃんの枠」からは明らかに外れた行為ですが、この親殺しを何故か僕は完全に否定することがもうできなくなっていました。

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そう思ってしまえる設計なんですこの映画は。
この辺が一番、この映画が、「危ない映画」って言われる所以だと思います。

「信じてる神を殺した男」

そして「母親殺し」を遂行したアーサーは完全に、「自己実現をひたすらに目指す存在に変貌します。
残る依存先は「コメディアンへの憧れ」のみ。

このラスト、テレビ出演のシーンは僕は非常に「帰ってきたヒトラー」に通じるものがあると思います。

ヒトラーと違って人々を魅了させるようなことはできないわけなんですが、完全に何かがこれから起きるという高揚感。

そして、「テレビ番組」というパッケージだからこそ、見ている側も「フィクションだとは思えなくなるリアリティーの高まりは共通していると思いました。

ココで語られるのは、「良い子ちゃん」という以前信じていた神への懺悔と、「俺が教祖になる」という決意だと僕は思います。

かみさま、これはこんなにも耐えて、こんなにも自分では手を下すことなくやってきましたが、俺の新しい神様は「主観」になりましたので、あんたに憧れるのはもうやめます。

ということです。

そこで最後の自分の依存先、「良い子ちゃん」であるための輪郭だった「憧れのコメディアン」を殺し、ジョーカー自身が完全に教祖となるのです。

「君はコメディアンなんだろ、だから話のオチは何だい?」っという問いに対して、ジョーカーは発泡で答えます。

これは僕は明確に、

「信じてる神はもう違う、お前のいうジョークじゃねぇーんだよ」っていう神殺しの瞬間だと思います。

ラストシーンは最強のプロモーション

そして、ラストシーンに関して。

ここは様々な考察がなされているところだと思いますので、あくまでこれから話すことも、僕個人の意見です。

僕はこれは、壮大なプロモーションだと思っています。

すでにジョーカーについて鑑賞後に調べられている方はご存知かと思いますが、ラストシーンを「すべてこれはジョーカーの妄想だった」と読み取る派閥、「これは実は全てのシーンの中で時系列的に一番最初だ」とする派閥などなどいろんな考察が存在しています。

僕はどちらで読み取っても面白いと思いますし、それぞれの話を聞いて納得できました。
だからこそ僕は思うのです。

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と。

こんな終わり方されたら誰だって書きたくなりますよ、自分の考察を、自分の意見を、SNSに。友達に話したくなりますよ。これは、膨大な数の広告塔を自動的に生み出すことのできる、最高のプロモーションとしてのラストシーンだと思います

余白があるからこそ、「受信」より「発信」の楽しさを求めている人たちに刺さるんだと思います。何度か言っている通り、自己承認欲求が自己表現に変わることも、テーマとして大きいので、SNSユーザーに刺さることうけあいです。

ラストシーンでまさに時代性まで表現しきった、素晴らしい作品だと思います。

現にこうしてnoteに書いてしまってる僕も術中にハマってしまっているわけです。

見た方はココにコメントして、僕と一緒に「ジョーカー」の策略にハマりましょう。

ではまた。

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