ミサンガ (1)
プロローグ
直線の石畳が突き当たりの駅まで伸びている。一人で歩く暗い夜道に街灯の光が滲んでいた。等間隔に並んだ光の柱は、進むべき道を指し示しているように感じる。手元にぶら下がるビニール袋はやけに重い。冬の灰色の匂いが澄んだ暗闇にしんと張り詰めていた。
「ねえ、写真とってよ」そう言ったユイは僕にスマホのカメラを持たせた。彼女は腰を少し曲げ斜めにこちらにピースサインをして笑っていた。
僕はその姿を時間と共にまだ残している。写真フォルダーを遡ると凍結された思い出がどこまでも鮮明に僕の心を締め付けた。時間の不可逆性を無視した彼女が僕の目の前に現れる。そんなはずはないと思っても、場所が記憶と繋がって現在と過去の境界の輪郭をぼかす。
僕はその時、結衣と付き合いたての頃のことを思い出した。
彼女と僕は三番線で電車を待っていた。そこには僕ら以外の人は誰一人としていなかった。快速列車が目の前を通り過ぎる時、彼女の髪の毛が静かに揺れた。藍色のインナーカラーが垣間見えた。彼女の薄い唇に塗られたリップは過ぎる車窓の光に照らされて煌めいていた。
彼女はその時こちらを向いて何かを言った。快速列車の走行音にかき消されて、僕はその音の輪郭を拾うことはできなかった。列車が過ぎると、小さく笑みを浮かべ彼女はまた前を向いた。
「ごめん、聞こえなかった」と僕は言った。
ユイはこの質問には答えなかった。ただ、頭上で駅のアナウンスだけが流れていた。僕は不安になり彼女の手を握った。指と指を縫うように手を重ねるとユイも結び目を閉めてくれた。軽く彼女の爪が僕の手の甲に食い込み、もうこの手は離れないような気がした。二人は永久に来ない電車を待ちぼうけしながら、ここで死んでいくような錯覚に囚われた。頭の中がぼうっとして思考がまとまらなくなった。
そのあたりで僕の記憶は途切れる。段々とこの記憶も薄くなっていくのだろう。加工に加工を重ねた写真が画素を荒くしていくように僕たちの記憶も思い出すごとに鮮明さを失って最後には真っ白いザラザラの紙面しか残らない。無情な末路が待っていることは自明で悲しいとは思わない。まだ、僕らが巡り合えた日々は、色濃く残っている、それだけで十分だ。僕はこの記憶をなるべく長く持っていることしかできない。二人が残したこの二年間はなにも特別なことはなかったが、僕にとっては全てが特別だった。
僕の足にはユイのくれた薄汚れたミサンガがまだ残っていた。切ってしまおうかと思ったが、何だかこれを切ってしまうと僕らの軌跡に終止符が打たれるように思えてどうしてもできなかった。この細い編み込みが僕をこの場所から離さない。真結びを解くのには時間が必要なようだ。
1
地元の田舎町から上京してきて、一人暮らしを東京で始めたのは三月の最終週だった。一人暮らしには十分な広さの家に、家具の運搬や、日用雑貨の買い付けを済ませ、ひと段落ついた頃にはもう日が落ちきっていた。大学生活への期待と不安が心を占有して、疲れているはずなのになかなか寝付けなかった。
新しい布団の糊の匂いが僕を落ち着かなくさせる。
早く寝なくては、と思えば思うほど頭が冴えてしまって、いつまで経っても意識外へは飛べなかった。午前四時を回った頃にやっと眠りについた。
携帯のアラームで起きると時刻は八時を指していた。四時間弱しか寝ていないのにやけに頭は冴えて、すぐにでも活動を始められそうだった。第一印象が命だぞ、と意気込んで朝の支度をする。糊のついたスーツを着て、軽く髪の毛をセットした。これでよし、と思い大学へ向かう。
駅からキャンパスに向かう道には新入生らしい初々しい生徒たちが列を成していた。不思議だったのだが、今日が初登校のはずなのにどうして皆友達がいるのっだろうか。大学は陽キャの集まりなのか⁉︎ と驚嘆しつつ、なめられないようにスマホをいじりながら歩いた。(これが去勢だとみんなにバレていたと思うが)
ホールで行われた入学式は退屈そのものだった。よく知らない有名人が将来について自己啓発的な話をしていたが、それだけが少し興味深かった。不意に隣の席を見ると熱心にその話を聞く女の子がいた。数秒その横顔を見てしまった。綺麗だと思った。前を向き直して、話を聞こうと思ったがもう話の脈絡は僕の中から失われてしまって、何を話しているのかが全く入ってこなくなった。いや、僕の頭の中には隣の女の子の横顔が焼き付いていて、全ての情報が焼き尽くされてしまった。退屈な入学式は僕に彼女の印象だけ残して終わっていった。
学籍番号で割り振られた教場に入るともうすでに学生で席はほとんど埋まっていた。真ん中に僕の学籍番号が書かれた机があり、座った。オリエンテーションが始まるまでには十分ほど時間が余っていたので、机に置かれている大学の資料に目を通した。
気がつくと教卓に学生部の生徒が数人いて、何やら大学についての紹介を始めようとしていた。教場に集まった生徒は会話を止め、前方に視線を向けた。空席はなく、押し込まれたようになった僕たちは身動きひとつにも注意しなくてはいけなかった。少しでも注意を引く行動は全ての視線を集める格好の獲物と化していたからだ。
やけに溌剌とした朝黒い学生部の先輩は、僕たちに緊張を与えないためか面白おかしく話をしていたが、ことごとくすべっていた。二十分ほど大学についての説明がされると、次は学生間の親睦を深めるため、と言い愛想笑いが張り付いた僕らに彼らは自己紹介をしよう、と言った。周りの四人でグループを組むことになった。
まず驚いたのは僕の後ろに座っていたのが、入学式で隣に座っていたあの彼女だった。隣に座っていた男子と斜め後ろに座っていたもう一人の女子と僕らで向かい合った。誰から話そうか、という気まずい沈黙の中、口火を切ったのは僕の隣に座った男子だった。
「じゃあ、俺から自己紹介をしますね。諏訪ユウダイです。よろしくお願いします」
パラパラと拍手が始まり、すぐに閉じられた。じゃあ、次はお願いします、とユウダイは僕にバトンを渡した。
「はい、古川ツムグです。よろしくお願いします」流れを作ってくれたので自然に僕も自己紹介できた。ホッと一息つくと、後ろの女の子と目があった。薄く笑いかけてくれて安心した。
「泉ユイです。よろしくお願いします」
「上田ハルカです。よろしくお願いします」
順繰りに全員が定型の自己紹介を終えると、また沈黙が四人を包んだ。ユウダイが耐えきれなくなったのか、なんか同学年なのに敬語っておかしいね、と言った。
三人は頷いた。
「なんか入ろうと思ってるサークルとかある?」ユウダイは誰とも言わずに質問を投げた。
「いや、決めてないです」ユイが小さな声で答えた。
「敬語になっちゃってるじゃん」ユウダイが笑顔で言った。あ、と手で口を押さえて照れたようにユイは笑った。
「私はバドミントンサークルでいいのあれば入ろうかなって」ハルカが会話に乗じた。
「へー バドやってたんだ。俺も中学までやってたよ」ユウダイは大袈裟に驚いたようにハルカの方を向いた。
「俺は特に決めてないかな」僕がそういうとユウダイは、実は俺も何だよね、と頭をかきながらハハハと笑った。
ユウダイのおかげで場の雰囲気が暖かくなって、全員思い思いの質問を投げたり、それに答えたりし始めた。僕はユイに入学式で隣だったことを伝えようとした。あのさ、と話し始めると水を差すように僕の言葉は教務部の先輩にかき消された。彼らはそろそろ説明の続きに入ります、と言って会話の中断を促した。僕はユイに軽く笑いかけると前を向いた。一時間ほど、その後入って来た教授の履修に関する話や単位に関する話を聞いてから、キャンパス巡りが始まった。
四人は誰からともなく、話を始めてキャンパスを見るよりも互いを知ることに重きを置いた。全員が全員新生活に対して不安を抱いていたし、大学で話せる人ができたことに心底安心していたのだろう。ツアーも終わってもう一度教場に戻ったが、先ほどまでとは違って各々が話し相手を見つけたせいか、室内はガヤガヤとした喧騒で包まれて、教務部の人たちは手短に終わりの挨拶を済ませるとそそくさと出ていった。
帰ろう、と思い荷物をまとめていた。内心誰か連絡先を交換しようと言い出さないか待っていたが誰も言い出さなそうだったので、僕が、よかったら四人でLINE交換しない? と言った。みんなもそれを待っていたらしく、いいね、と言って手に持っていた携帯電話でLINEのアプリを起動させ、QRコードを読み取りあった。すかさず全員を友達追加したユウダイは四人のグループを作って、みんな入って、と言った。『新生活の戦友』と間の抜けたグループ名がなんだか愛おしい。そうだここから僕らの新たな大学生活が始まるのだと気持ちが高鳴る。友人ができたことは僕の心から不安を取り除いて、それらをまるっきり期待にひっくり返してしまった。
『よろしく!』
『よろしくお願いします』
『よろしくー』
『よろしくね』
各々が挨拶を送り合ったのを見て、みんなで顔を見合わせ少し笑った。
「今度さ、みんなでご飯でも行こうよ」ユウダイがそう言ったのを聞いて、僕は内心ドキッとした。話が早すぎやしないかと思ったからだ。僕たちは会ってからまだ数時間だし、お互いのことを知らなすぎた。しかし、二人の反応は上々なものだった。ユイはいいね、と言い、ハルカはいつにする?、と言った。僕も、いつでもいいよ、と答えた。
「じゃあ、予定空いてる日LINEして」とユウダイが言ったので少し名残惜しかったが僕たちは解散した。
家に帰る途中、電車の中でLINEをなんともなしに見ていると、三人から通知が来ていた。各々から個人チャットに、よろしく、と言う文面が送られてきて、僕はそれに返信をした。
ユイに入学式で隣の席だったことを確認をしようと思ってメッセージを打ったが、送信ボタンを押すのに一瞬躊躇した。意を決して送信ボタンを押す。
『そういえばさ、俺たち入学式隣だったよね?』ユイにはそうメッセージを送ると『だよね⁉︎ 人違いだったらどうしようと思って聞けなかったの』と返信があった。
車窓から差し込む日差しは、まだ暖かさは含まれていなかった。電車の中には暖房がかけられているので、春の陽気も相俟って車内は暑いくらいだった。最寄り駅に着くとすぐに青草の匂いを孕んだ薫風が鼻を貫いた。新しい世界の匂いだ。そう思えたのは晴れやかな大学生活を期待できる今だからだった。
入学してから早くも三ヶ月が経とうとしていた。大学生活でできた友達は数えきれないほどいたが、密に連絡を取って、プライベートで会っているのはユウダイ、ユイ、ハルカ、僕の四人だった。
講義で顔を合わせることもあり、いつの間にか僕たちは大学に行くと毎日会うようになった。言葉を交わさずとも、昼食の時間に食堂に行くと四人の誰かが待っていて食事をとった。休日に予定を合わせて、カラオケやボーリング、映画などにいくこともあった。男子同士や女子同士で遊ぶことはあったが、男女や予定の合う三人だけで遊ぶことは不思議となかった。それをしてしまうと、この四人が作り出した心地の良い均衡が崩れ去って仕舞うような、取り返しのつかないような気がした。決定的に何かが損なわれてしまう、そんな予感がした。
時間を共有して僕たちはお互いをよく知っていった。ユウダイはスポーツ万能でなんでもできるようなやつだったし、ハルカはファッションが好きなオシャレ女子だった。ユイは生真面目で大学の講義を一度も休んだことがないようなな子で僕は本が好きな文学青年だった。みんな互いに持ち合わせていない要素を持ち合わせていて、それらを共有することで心の拠り所としていた。四人に共通していたことといえば、全員が田舎から上京してきたと言うことだった。
ある日、僕が珍しく一人で学食で昼食をとっていると、ユイが同じく昼食をとりに食堂に来ていた。いつもなら四人で食事を取っているのだがユウダイとハルカは私用で大学に来ていなかった。食堂の席は超満員で席を探すのに一苦労だったがなんとか二人が座れる席を探し出した。
「なんか今日はいつもより混んでるね」と僕は言った。
「だね、なんかあるのかな?」
「さあ、どうだろ」
「そろそろ前期末だけど、テスト勉強とかしてる?」
「それが全然やってなくて、やばいなって」僕はそういうとカレーを口に運んだ。
「私もだよ、テストって難しいのかなぁ」不安そうに眉を八の字に歪めながらユイは僕に目配せした。数秒目が合うと二人で失笑した。
「何笑ってんの?」
「古川くんも笑ってんじゃん」
そんな意味のないような笑いと会話を続けていると、あたりの喧騒は次第に存在感を弱めていった。
この頃には僕はユイに惹かれ始めていたような気がする。いや、入学式でユイの横顔を見た時からかもしれない。なんとなく四人で集まる時の彼女の一挙手一投足を追ってしまっている。
昼食をとり終えて、食堂を後にする。次の講義までは少し時間があったので、二人でベンチに座った。
初夏の青い風が時折吹いていた。油蝉の声と風の音が耳に刺さるように聞こえたと思うと、歩く学生の音がそれをかき消していく、そんなことを繰り返していた。まだ暑すぎるほどの気温ではなかったので、外で結衣と会話をしていても快適だった。
「そろそろ大学生活には慣れてきた?」ユイは足をぶらぶらと揺らしながら僕に聞いた。
「うん、慣れてきたかな。まだ、一人暮らしは大変だけど」
「だよね、食費って意外とかかってんだね。実家にいる時は全然気が付かなかったけど」
「ユイは仕送りとかあんの?」
「ううん、私は家賃とかは払ってもらってるけど、生活費はバイトで賄ってるよ。古川くんは?」
「俺は月3万くらいはもらってるよ。でもバイトしないとちょっときついかな。なんのバイトしてるの?」
「家の近くのカフェで働いてるよ」
僕はポケットで潰されていた文庫本が気になり手に取るとおもむろにページをパラパラとめくった。ユイは、聞いた癖に興味なさそうじゃん、と言って僕から本を取り上げた。
「なんか難しそうな本読んでんね」と彼女は表紙を見たあと、一ページ目を読み始めた。
僕は彼女の本を読んでいる横顔を見た。風が小さく彼女の透き通るような黒髪を後方に揺らす。時折垣間見える項は薄く生えた髪の毛がかかっていて、それらもそよそよと揺れた。横から見ると彼女の鼻は鼻頭から真っ直ぐのび次第に緩やかな曲線を描いていて、彼女の口は健康的な血色のある厚みのあるものだった。雲間から顔を出した陽光に照らされて光ったのは彼女の目元に装飾された微かなラメだった。彼女の横顔を造形するどれもが相乗的に魅力を底上げしていた。
ユイの手元に目をやるとどうやら読書は一向に進んでいないらしかった。一番最初のページで手が止まったまま動いていなかった。
「私には読めない」と本を閉じて僕に返すと、そろそろ行かなきゃね、と言いベンチから立ち上がり僕に手を向けた。ポケットに本をしまうと、彼女の手を取り立ち上がる。
「じゃあ、またね」とユイは言って、僕とは違う方向へ歩き出した。僕も、それじゃ、というと次の講義へ向かった。
この時からだろうか、僕らはたまに二人で会う約束をし始めた。
2
「最近、お前とユイといい感じだよな」そう言い出したのは二人で宅飲みをしていた時のユウダイだった。そう言われると内心焦る反面、少しの嬉しさがあった。鼓動が速くなるのを感じる。右手に握られたコップから結露した水滴が手の甲を伝い皮膚に染み込んでいった。なんと返すのが正解なのだろうかと考えながら僕の口から出たのは間の抜けた、なんでそう思うん?、と言った愚にもつかない返答だった。
「いや、なんとなくさ、最近の二人見てるとそう思うんよね」数日間剃られていないのかユウダイの顎にはうっすらと髭が伸びていた。彼は指先でそれを触ると、その手でコップに氷に均衡をカラリと崩した。
はあ、とため息が漏れた。なんだ、そんな曖昧な感じのやつね。彼のことだからもっと確信的な推論だと期待したのだが、そんなこともないようだ。まあそうだよな……。何を期待していたのだろうか、周りからのお似合いだと思われるのはどうしてだか心地の良いことだったのだが、それを実感すると同時に僕の心の中では不安が募った。期待を膨らませるほど、その期待が失望へ変わった時の落差を恐れて行動は慎重になる。というか、石橋を叩いていたら石橋を崩してしまうような滑稽なものに変容してしまう。
ユウダイに僕のユイへの好意がバレないように、なんだよそれ、と言って気の抜けたレモンサワーを一気に飲み干した。
未成年の僕たちは居酒屋で酒を飲むと言うことが憚られたので飲むときコンビニで買った缶酎ハイや缶ビールを家に持ち寄って飲むのが常だった。月に二回ほど開催された男二人での飲み会はいつでも潰れるほど飲んだ。大学に入ってから酒を学んだ僕たちは自分のキャパを理解しないで飲み続けた。自分達の限界を知り始めた頃には限界を超えたアルコールを飲まないと満足に酔えないようになっていた。しかし、そんな飲みも大学生らしいな、と二人で言い合って乾杯をした。
アルコール飲料から消毒液の鼻を貫く刺激しか感じなくなってきた頃、僕たちは公園に行こうと言うと、おぼつかない足取りで家を出た。
夜風は夏の暑さを内包した爆弾のように僕らを包んだ。空は快晴なのに街灯に邪魔されて星々は存在を消してしまっていた。ただ広がる黒は僕らの歪んだ視界にもだたの黒として写り込んでいた。
二人はコンビニで追加の缶ビールを買い足すと、近くの児童公園のベンチに腰掛けた。公園には二つの街灯が寂しそうに佇んでいた。僕の視界にはいつもより光の余韻が大きく映った。中心から広がるにつれていくつもの円環を重ねるように広がった光は公園全体を仄白く照らしていた。
ユウダイはベンチの後方へ頭を垂らして、ああとかううとか言葉にならない発声をしていた。
「大学生って感じだよな」ユウダイはその体制のまま、返答を求めない一人ごとをつぶやいた。
鈴虫の鳴き声が近くの草むらから鳴り出した。夜の静寂は虫の声に溶け込んで耳の中に大きな空洞を作りその中でこだました。ビニール袋に入った缶ビールを開けると勢いよく吹きこぼれた泡は、手の甲を伝って乾いた土に染み込んだ。
「どうしたらこんな日々から抜け出せるんだろうな」と僕はユウダイに問いかけた。
「無理だろ」乾いた笑い声と共にそう言いユウダイは「俺らはいつまでも時間を浪費し続けて生きていくしかないんだよ」と続けた。
「なんか虚しいな」と僕は天を仰いだ。
隣から音がしなくなったと思ったらユウダイが静かに寝息を立てていたので、肩を揺すったが起きる気配がなかった。僕はそのまま買ってきた缶ビールをゆっくりと二本飲み干した。携帯電話で時間を確認すると深夜二時を回った頃だった。強引にユウダイを起こして二人してゆらゆらと夏風に揺られる風鈴のように家路についた。深夜のあってないような信号機を律儀に守り家に着くと、二人は泥のように眠った。
朝から僕らを悩ませた二日酔いがやっと落ち着いてきて、食事をどうにかとれるようになると、僕とユウダイは近くのファミレスに向かった。
なんとなく飲み潰れた次の日は焦燥感に駆られる。何かをしなくては、今日は無駄にしてはいけない、そんな感情が砂漠の中のオアシスのように見つかるのだ。疲弊した臓器に染み渡る温かいスープを何度もお代わりして、料理が運ばれてくる頃にはもう満腹になりかけていた。
いまだに長引いた二日酔いを残すユウダイはテーブルに突っ伏して、ため息を何度もついている。なんでこんなに飲んじまったんだろう、と言ってみたり、もう飲まん、と言ってみたりと来週には破られる制約を立てて僕が運んできたスープに口をつけた。
「酔い明けの朝って、気持ち悪いけど気持ちいいよな」
「なんかわかんないけど、わかる」
「俺も自分で何言ってんのかわかんないけど」ユウダイがそういうと二人でクスクスと笑った。
「ずっとこんな生活できたら幸せだろうな。金がなくても友達がいて、週末には飲んだくれてさ、幸せってこんな身近なところに落ちてんだって道に転がる石ころ蹴飛ばすんだよ。これが至福ってもんだろ。まあ、きれな奥さんでもいればもっといいだろうけど」ユウダイはガムシロップの空き容器の端を僕に向かってデコピンする。容器はクルクルと回って僕の目の前で止まった。
「ほらよ、幸せだ」とユウダイは薄ら笑いを浮かべた。
「こんな空っぽな幸せいらねーよ」と僕は言って、彼にデコピンで容器を飛ばした。途中で倒れて残っていたガムシロが机に垂れた。粘度のある透明がドーム型の水滴を作り机に上に鎮座した。甘味のある液体は水に油を垂らしたように内部に紋様を揺らしていた。
ファミレスを出て、ユウダイと別れる。夏蝉が性懲りも無く鳴き続けていた。遠くの空に高い峰を描く入道雲が人工物のような完璧な造形で佇んでいた。
夏休みはすぐそこまで来ていた。
3
大学のテスト期間が終了して一安心と思ったのも束の間、アルバイトが急激に忙しくなったことに伴って、僕の個人的な時間は睡眠で浪費されていた。休日もなかなか予定が合わずユウダイやハルカ、ユイと会うことが夏季休業に入ってから激減していた。こんなことなら大学に長期休暇などなくても良いと思った。一人暮らしは想像よりも孤独なもので、自主的に人との接触を図らなければどこまでも孤独になれるのだ。
ユイにメッセージを送ったのは夏休みが初まってから二週間が経過した頃だった。
『今週末予定空いてる?』LINEでメッセージを送ると二時間ほどが経過してから『土曜なら空いてるよー』と返信がきた。
『遊び行かない?』
『いいけど、ユウダイとハルカも誘う?』
さて、どうしたものか。四人で遊ぶのも悪くない、しかし本当に個人的な願望を言えばユイと二人で会いたいと思う気持ちが大きい。
『二人がいいんだけど』
『わかったー』
ホッと胸を撫で下ろす。携帯電話を握る手にじっとりと手汗をかいていて、液晶をタップする指が滑った。
『どっか行きたいとことかある?』
『任せます』と言うメッセージと共にデフォルメされたパンダが合掌して懇願する絵文字が送られてきた。
『おけ、じゃあ決めたら連絡するね』
『ありがとー』
ずいぶんと彼女のLINEはフランクになった。最初は時折敬語を交えてしまうほど律儀だったやりとりも、今となっては可愛らしい絵文字を送り合うほど解けあっている。
何をするか全く考えていなかった。ただ、誰かに会いたくて予定を立ててしまったので特にしたいこともない。今になって思うとユイと二人で食事に行ったことはあったが、彼女がうちに来たことはなかった。ユイが承諾してくれたら家に誘ってみようか。断られたら…… まあ、その時考えればいいさ。楽観的な考えで曖昧模糊な計画を頭の中で構築した。
「お待たせ」
三軒茶屋駅でユイは僕の正面にある改札を抜けると、小走りで駆けてきた。最後にあった時より短くなた髪の毛が肩口に切り揃えられている。いつもおろしていた前髪は上げられており、彼女の普段醸し出す真面目な印象と打って変わって溌剌な少女を思わせた。夏の魔物も合間ってかもしれない。
「髪の毛切ったんだね」と僕が言うと、少し恥ずかしそうに、変かな? 俯いた。
「似合ってるよ」
「ありがと」控えめな返答はいつも通りのユイそのものだった。
時刻は二時を回った。二人で駅から十分ほど歩くカフェに向かう。一日の中で一番暑い日差しを吸収した道路は日陰と日向をまるで別世界のように区別している。数分歩く頃には僕もユイも首筋にうっすらと汗をかき始めていた。暑いね、と二人で何度も言っては、そうだね、と繋いだ。
目的のカフェが見えてきた。遠目から見ても長蛇の列ができていた。それもそのはず、夏の風物詩とも呼べるようなかき氷が有名な店だったので、こんな暑い日には行列ができてしまうのも納得である。
「うわー すごい列だね」大袈裟に驚いてみせたユイが僕の顔を覗き込んで、どうする?、と尋ねてきた。
「待とうか」と僕が言うと、そうだね、とユイが言って二人は列の最後尾に並んだ。とめどない会話が僕たちの時間を運んだ。最近見た映画の話をしていると、いつの間にかその話は音楽についてになり、それはまた違う話題へと転換した。心地よいタイミングで話題を変えてはまた次の話題へと、そんなふうに求めるときに求めた会話を僕たちはお互いに提供できた。ちょうど列をなしていた場所が軒下だったおかげで僕たちは暑さに邪魔されることなく待ち時間を堪能できた。
気がつくと僕たちの前に並んでいるのは二組のカップルだけになっていて、お目当ての夏季限定かき氷は目と鼻の先だ。ユイは心底ワクワクしているような様子で、順番が近づくにつれ落ち着きを失い、まだかなぁ、とか、美味しそう、とか独り言を呟いた。僕も長時間の会話で口内に水分が欲しくなっていたため、もう少しでありつけるかき氷に心躍らせていた。
店内に入る頃には時計の針は三時を刺していた。
予定通り二人同じかき氷を注文し、同じタイミングで運ばれてきたものを、同じ速さで食べ、同じように溶かして残ったただ甘いだけの水を残して店をでた。期待に期待を重ねすぎたせいか、二人の口から出た言葉は、普通だね、だった。言葉がハモって二人で笑った。
「なんか馬鹿みたい、こんなに並んで食べたかき氷が普通だなんて。今考えればただの水を凍らせたものを細かく砕いてその上に少しのフルーツと甘い液体をかけただけのものに七百円も払って、あげく三十分以上も並ぶなんて」
「そう言えばそうだね」と僕は言った。ユイのこんなに皮肉の効いた発言を聞くのは初めてだった。嫌な気はしなかった。素の彼女はもしかしたらこちらなのかもしれない。そう思うと僕だけに見せてくれた側面があると思えて、小さな優越感が湧いた。
「よし、なんかお腹も空いたしさ、ご飯食べに行こうよ」吹っ切れたような笑顔を見せたユイは、無意識だろうか、僕の手を引いて歩いた。引っ張られるように、歩いていき、近くの閑古鳥の鳴いているイタリアンレストランに入った。値段はリーズナブルなのに客の姿は見えなかった。暇を持て余したアルバイトと思われる男性が気だるそうに僕らを席に案内した。
店内には古いバラードが流れている。そのバラードはいつ聞いても僕に古い以外の感想をもたらさない。二人でメニュー表を眺め、僕はプッタネスカ、彼女はジェノベーゼを注文した。十分ほどで運ばれてきた料理は想像以上に美味しそうだった。
スプーンとフォークで器用に一口大にパスタを巻き口に運ぶ。
「古川くんのも一口ちょうだい」とユイは言うと僕の許可も得ずに一口を奪い、おいしっ、と言っていたずらな笑みを浮かべた。今日の彼女はどうもおかしい。いつもよりも挑発的というか、挑戦的だ。
「ユイのも貰うね」仕返しだ。
食事も終えて、することが無くなってしまった。予定を立てておくと言ったもの、特別何も考えていなかった。まだ日は高い。
「何かしたいことある?」とユイに尋ねた。
「特にないかなぁ……」一呼吸置いてユイは、散歩でもしようか、と言った。
「いいよ」
二人で途方もない暑さの中を歩いた。あてもなく歩いた。線路に沿ってただ進んでいく。途中、暑さに耐えきれなくなると、チェーンのカフェに入り少し涼をとるとまた歩き出す。大学に入ってから運動らしいことをしてこなかった僕は二十分ほど歩くともう息切れをし始めたが、ユイは平然と僕の横を鼻歌を歌いながら歩いた。
二回カフェに立ち寄り、一回コンビニに入って、歩いて歩いて歩いた。日が傾き始めた頃に僕たちは二子玉川駅についた。体には汗が蒸発して塩がこびりついている気がした。
「疲れたね」とユイは近くのベンチに腰掛けた。僕はその横に疲弊した面持ちで腰掛けた。
「こんな歩いたのは久しぶり」満足そうに拳を天に伸ばし、全身の関節を極限まで伸ばすようにした後、彼女は完全に脱力して、はあ、と大きく息を吐いた。よく見ると彼女の前髪はおでこに張り付いており、僕と同じように汗をかいていることがわかった。
「俺の家、電車に乗ればすぐだけど来る? 汗とかきもち悪いでしょ」疲労のせいだろうか、思考力が低下していたのだろうか、僕はそんなことを言った。
「うーん…… じゃあ、お邪魔しようかな」
二人は電車に乗る。汗臭くないか、とユイは自分の服を嗅いでいたが、彼女からは良い匂いがした。どちらかというと僕の方が匂いがひどそうだ。
電車の中は混んでいた。冷房はフル稼働だったが、人から発される熱が完全にそれをかき消す。僕の胸の前、五センチほどの距離に彼女の顔がくる。肩が腕に当たる。頭上のエアコンから冷風が僕の髪の毛を撫でる。その風は彼女の髪の毛も揺らした。自然にしていれば接触する体を、僕たちは不自然に数センチあける。電車の揺れはその不自然さを嘲笑するように僕たちを自然な状態へと運んでいく。いつの間にかユイの体は僕に密着していた。胸の前で握られていた手が僕のみぞおちあたりに当たる。
噴射音と共に開くドアに押し出されるように降りるとそのまま改札を抜け、家まで歩く。足の裏が痛いし、膝の関節も痛い。喉も乾いた。
心音が速くなっている。これは疲労じゃないだろう。
綺麗に整頓された部屋はベッドとソファーとローテーブル、勉強机と本棚、それだけがあった。。一人暮らしに必要なものはそれくらいだ。
「結構、綺麗だね」ほほう、と感心したように顎の下に手を置いてまるで探偵のようなポーズをとるユイは、現場検証みたいに僕の部屋を見回した。
「シャワー浴びるならお先にどうぞ」と僕が言うと、
「あ、シャワーね。じゃあ遠慮なく」とバスタオルやドライヤーの位置を確認すると、そそくさとシャワー室へ消えていった。数秒後に、着替えかしてくれない、と言われ、わかった、と僕は返し、クローゼットから部屋着を漁った。
「ここ置いとくよ」
「ありがとー」
シャワー室からホワイトノイズのような水の音が聞こえ始めた。
彼女がシャワーから上がるとシャンプーの匂いがした。僕の部屋着を着て、僕のシャンプーを使ったユイは、ソファーに座ると髪の毛をバスタオルで丁寧に拭いていた。
僕もシャワーで軽く全身にお湯を浴び、部屋に戻るとローテーブルに置かれていた本をユイがソファーに寝転びながら眺めていた。
「面白い?」と僕がバサバサと髪の毛をふきながら尋ねると、わかんない、と彼女は本を元の位置に戻した。
「髪の毛乾かそうか?」
「うん、お願い」
ドライヤーの暖風が徐々に僕らの周りの気温を上げていく。冷房の効いた部屋には二つの機械の駆動音がただなっていた。
もう窓の外から見える空は完全に闇に飲まれていて、部屋に干された洗濯物が窓ガラスに反射していた。
「今日の私いつもと違うと思った?」ユイは気持ちよさそうに首筋にドライヤーを浴びながら僕にそう尋ねた。彼女の髪の毛はの微小の砂つぶのように手の隙間から滑り落ちる。
「うん」
「いつも猫かぶってたからね」
ハハッと乾いた笑い声がドライヤー越しにかすかに聞こえた。
「今のままでいいと思うよ」
「本当に思ってる?」
「もちろん」
僕がそういうと、ありがと、と言って髪の毛を一回撫でた。次交代ね、とユイが言ったので僕の髪の毛を乾かしてもらった。
夜は長い。
それから二人は、冷蔵庫に入っていた缶酎ハイを2缶ずつ飲み、コンビニで安いワインを買ってくると、それをゆっくりと飲んだ。話は途切れ途切れでなかなか前には進まなかった。会話は僕たちの間で速度を落とし、ワインと一緒に浸透した。どうでもいいことだけを話していたと思う。僕は何一つ確信的な質問はできなかったし、彼女がその質問を待っていたかと言われればそれもわからなかった。ただ、今の時間がずっと続けばどれだけ幸せだろうと考えるばかりだった。それほど、夜景もイルミネーションも喧騒もないこの時間を、彼女との時間を僕が希求していたのだろう。
終電が近くなってきた。僕はその事実に気がつきながらも彼女にそれを伝えたりはしなかった。恣意的にだ。
そんな企みなど知らずにユイは、そろそろ帰ろっかな、と言って荷物をまとめ始めた。仕方ないと思いつつも名残惜しかった。
「駅まで送っていくよ」と僕がいうと、ありがと、とユイは僕に笑いかけてくれた。
駅までの道程の中、僕はこれ以上隠しきれないことを悟った。今、彼女に好きだと伝えなければ、もうずるずると伝えられないように思えた。
駅に着くと電車の発射音が聞こえ、かすかに地面が波打った。電光掲示板には最終列車の発車時刻だけが寂しげに表示されている。改札前には人っ子一人居なくて、列車が遠くへ行ってしまうと放課後の体育館のように静まり返っていた。
「今日はいろいろありがと、またね」とユイは言って小動物のように僕の前に軽やかな足取りで踊り出て見せた。
今、今言わなくては…… 体が心臓に化けてしまったように脈打つ。マグマのような血液が身体中を目まぐるしく回っているのがわかる。
ユイは僕に笑いかけると体を翻し改札へ歩き出そうとしている。
僕は彼女の手を取る。
彼女は少し驚いたような面持ちで振り返り、ん?、と小首を傾げた。
言わなければいけない言葉があるのに、その言葉がどこから発されるべきものなのか、はたまたどこから探し出せば良いのかわからなくなった。刹那の沈黙が世界中に広がった。
「あ、あのさ……」搾りかすのように喉から出た声は小さくも響いた。
「どうしたの?」と言ったユイはとぼけたように僕の瞳の奥を見つめた。
一呼吸。
「俺、ユイのことが好きなんだ。付き合ってください」
捻りもなければ、ロマンチックさもない。彼女の手を握る僕の手に力が入る。
「本気?」
より不覚を覗き込むように僕の目を見つめ続けたユイは一度も目を逸らさなかった。
「本気」
数秒の沈黙だった。僕の後方を深夜トラックのヘッドライトが照らして、地鳴りのような走行音が駅にこだました。ユイの手が僕の手から離れる。
「いいよ」小さな声だがはっきりと彼女は言った。
心音の高鳴りが止まない。夏夜の蒸し暑い蝉の声が街路樹から一斉に鳴り出した。星は僕らの近くで輝いており、今にも彗星として軌跡を描き出しそうなくらい煌々と燃え盛っているように見える。これまで見えていた世界が更新されて僕の新世界を生み出そうとしている。僕はその世界をどうしようもないほど愛おしいと思った。
続きはリンクから飛べます。
話の土台となった歌のリンクも貼ってあるので是非見てみてください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?