ミサンガ (2)

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「マジかよ、へー、お前ユイと付き合い出したんだ」
 九月に入って大学が始まり出した頃だった。渋谷の喧騒をまとめて詰め込んだような居酒屋で、ユウダイは声を張り上げてそう言った。大学から三駅ほど移動した駅の近くにその居酒屋はあった。狭い店内にこれでもかと人を詰め込んで、客は席を立つのも一苦労なほど鮨詰め状態だ。店内には大学生らしい人しか見受けられず、完全に泥酔している人も数人見受けられた。
「まあ、そうなんだけどさ…… あんまりカップルっぽいことできてないんよね」と僕は言うとレモンサワーを一口飲んだ。
「なんだよ、意気地なしだな。お前から引っ張っていかなくてどうするんだよ。今頃ユイも、私のこと好きじゃないのかな?、って悩んでるぞ」ユウダイは裏声で女の声を真似て見せて、おどけて見せた。
「うっせ、わかってるよ」と結露したグラスの水滴を指につけて、それを僕はユウダイの方へ弾いた。
「そういえばさ、最近ハルカ見かけないけど、どうしてるか知らない?」と僕は言った。
「あー それね。なんかハルカね。今、地元帰っちゃったらしいよ。うん、ちょっと精神が不安定らしくてね。そう、そう、俺ら全然知らなかったけど、どうらしいんだよ。それで今なんか落ち込んでるらしくて、地元帰ってリフレッシュしてるんだってさ」ユウダイは僕の相槌に反応しながらそう言った。「帰ってきたら、いつも通りにしてやろうぜ。あんまり気使っても負担になるだけだろ?」
「そうだな」
 その後居酒屋を出て、僕はユウダイに二軒目に行こうか、と誘ったが彼は、今日やめとく、と言って帰っていった。ユウダイの一人歩く後ろ姿を眺めた後、僕は一人残されたプラットフォームに列車が到着するのを待った。対岸に列車が通るのを無心に眺めていると、急にユイに電話したくなった。
 LINEの電話機能を使って、彼女にコールを鳴らす。数回のコール音が鳴って、電話が切れた。誰かと電話をしているらしい。次の瞬間に携帯の液晶にポップが表示された。
『ごめん、ちょっと今出れない』
『わかった、また今度にするね』
 僕はそう返信すると、電車の到着を待った。ほろ酔いの頭に寂しさだけが募った。どうしてだかわからない。友達もいる、彼女もいる、どこからどう見ても順風満帆と言っていい大学生活だ。どこに寂しさがあるのだろうか。
 電車が目の前を走っている。徐々に速度を落として停車した。車内の白い光がどうしてか僕を拒絶しているように思えた。それが僕を混乱させた。数歩前に進めば列車に乗れるのに、その数歩が重い金属の扉のように僕の前に立ちはだかっている。そのうちに列車は扉を閉めて発車し始めた。
 また一人のプラットフォームで電車を待ちぼうけする。この時間だけ僕は完全に一人なのだ。


                  6


 夏がもうすぐ過ぎさろうとしていた。例年より長引いた夏は僕たちの中に飽和していく。街路樹から一匹のヒグラシが最後の力を振り絞り切れかけの白熱電球のような声を上げていた。乾いた音を立ててヒグラシはアスファルトに落ちた。まだ、置物みたいに動きを止めたそれは壊れたレコードみたいに不規則に消え入りそうな音を出し続けていた。
 そんな日に僕は初めてユイと唇を合わせた。
 デートの帰り際、少し強引に彼女にキスをした。ユイは唇を離すと、軽く笑って顔を赤くしていた。そんな表情を、可愛い、と僕は言った。彼女は堪え切れない笑みを浮かべると恥ずかしそうにして背を向けた。
 僕たちはなんでもない日になんでもない場所で、初めてのキスをした。


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 僕たちにはきっかけが必要だったのだろう。そのきっかけにキスは最適だった。
 あの日から僕とユイは親密さを増して、頻繁に会うようになった。
 十一月のよく晴れた日だった。僕とユイはデートの約束をしていた。待ち合わせは午後からだったので、時間はまだ余っていた。スマホを確認するとユウダイから『今日飲みいかん?』と連絡が入っていた。
『ごめん、今日予定あるんだ』と返信した。
 鎌倉に着いたのは二時を少し回った頃だった。二人でゆったりと話をしながら鈍行列車に揺られると時間はあっという間に過ぎていった。
 冬の始まりはもうすぐそこまできていて、軽やかな寒さが肌に染みる。晴天のせいか、より空気が澄んで寒い気がした。
 遅めの昼食をとり、店を出る頃には空が白みがかった青から、微かな赤を孕んだ青になっていた。海岸線沿いを歩いて、潮風の匂いを嗅いだ。錆びついたガードレールに誰のものかわからないTシャツがスラム街の野犬の皮膚のように風におられ張り付いていた。
「気持ちいいね」とユイが言った。
「そうだね」と僕は彼女の横顔を見ながら言う。
「私、海好きなの。知ってた?」
「いや、初めて知った」
 会話をしながら僕は、ああ海風で髪の毛がぐちゃぐちゃだ、とか、この辺に住んでる人は洗濯物どうしてるんだろう、などどうでも良いことを考えていた。
 ………
「ねえ、聞いてる?」
「ん? ごめん、なんか言った?」
「もういいよ」とユイはむすっとしたように頬を膨らますと目線を僕から外した。
「ごめん、俺初めて海見たからちょっと気取られてた」
「初めてなの? 私はよく家族で海水浴来てたからなぁ」と彼女は少し驚いたように言った。
「俺の地元、内陸県だったからさ、あるのっていえばちっちゃい湖くらいだったよ。海ってすげーでかいんだな。なんか想像以上だ」水平線の彼方を見ながら僕は言った。彼女は嬉しそうに笑って僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。ボサボサになった髪を彼女はもう一度整えてくれた。
 浜辺に降りると二人で靴を脱ぎ裸足になった。冷たい砂が足の間に入り込んできてむず痒かった。水平線と空の境界は太陽に照らされて海に階段を作りゆらゆらと陽炎の如く映り込んでいた。その周りをガラス片のかけらを海に浮かべたような光の反射が現れては消えを繰り返す。強い潮風が首筋を抜けて遥か後方へ抜けていった。
 冬の海は澄んでいるように見えて、透明な水に儚い青が一滴だけ溶け込んだ。ユイは首に巻いたマフラーを僕に預けると、ゆっくりと海へ歩いていった。海と陸の境界線を泡沫が隠している。
 ざざざ、どど、ざざ、どど、ざざざ、ざささ。
 不規則な波の音は僕の耳に張り付いて、体の周りを旋回しているようだった。僕は近くの岩場まで歩いて行き、靴と彼女のマフラーをおくと、彼女の跡を追った。小さな足跡は一歩半ずつの間隔で一直線に海に向かって行く。小さくなっていくユイの背中を早足で追いかけていくと、足首に打ち上げられた海藻が引っかかった。冷えたブラスチックのような感触が気持ちが悪い。
 ユイは足首まで水に浸かっていた。
「ツムグ! こっち来てよ、冷たいよ!」とこちらに手を振りながら大きく口を開けて笑っている。
「今行くー」
 僕は小走りに彼女に向かっていった。ユイの髪の毛が風に靡いて、彼女は髪の毛を守るように右手を顔の近くに持っていった。
 海に片足をつけると、体全身を寒さが貫いた。波の往来に合わせて、足の指の間に砂が抜けて行く感触が心地いい。数メートル先のユイは水平線のほう向かってカメラを向け写真を撮っている。僕はその後ろ姿を写真に残す。
 カシャ。シャッター音が波間の沈黙に響いた。ユイはこちらを向いて、撮らないでよ、とはにかんだ。
「こっち向いて笑って」と僕は言った。
 彼女はこちらに口角をあげ、唇は下弦の月のように美しい形を作った。
 カシャ。二度目のシャッターが切られる。液晶越しの彼女から目を離し、生身の彼女を目にすると夕暮れ時と相まって陽光が後光の如く照らしていた。
「ツムグもこっち来て、一緒に撮ろ」
 じゃ、じゃ、じゃ。海水が足首を縫うように音が立つ。二人で横並びになるとユイはスマホのインカメを起動し、前に掲げた。僕と彼女の身長差ではどうしても僕が少し膝を曲げなくてはならなかった。
 カシャ。三度目のシャッターが切られ、二人で水平線を眺めた。僕はユイの手を握る。冷たく、細い指の感触が手のひらに乗せられた。
 濡れた足で砂浜に戻った。足の甲までついた砂が後げ茶色になっていた。ユイを見ると体が小刻みに震えて寒そうだった。僕は彼女を抱き寄せた。十数秒二人は動きを止めたままその場で抱き合った。彼女の震えは徐々に収まって、二人の体温が共有された頃には完全に震えは無くなっていた。僕の腰元に回された手と、彼女の背中に回された手が強さを緩めて二人は離れた。僕は右手が彼女の頬に触れ、二人は顔を近づける。唇が軽く触れると驚いたように少し離れた。刹那後、二人はより親密に口づけを交わした。ユイは強く目を瞑っていた。あたりには波の音しかしなかった。遠くの喧騒も、風の音も、虫の声も何もしなかった。数秒して唇を離すと、彼女は目をゆっくりと開け、微かに微笑んだ。頬が赤らんでん見えたのは夕焼けのせいか照れているせいなのか僕には分からなかった。
 その後二人で海岸沿いを手を繋いで歩いた。ただっぴろい砂浜にはやはり人っ子一人いない。黄昏時が終わりきって仄暗さがより深くなろうとしてきた時、僕たちは帰路についた。
 帰りの電車でユイはポツリポツリとしか話さなかった。ずいぶん疲れていたようで、十分ほどすると眠ってしまった。僕は彼女の肩を抱き寄せ、彼女の頭を僕の肩に乗せた。
 鈍行列車に感謝することがあることを僕は初めて知った。このまま彼女を寝かしてあげたかったし、僕にとっても心地の良い時間だったからだ。六駅進み、乗り換えて三駅進んだ。乗り換えの時、僕は優しく彼女を起こした。
「ユイ、乗り換えだよ。そろそろ起きないと」と言い、彼女の肩をゆする。
「うん……」と寝ぼけ眼に起きた彼女は半眼で僕の腕に縋ったまま電車を降りた。
 プラットフォームで、彼女はその体制で僕の左腕に体重を預けていた。今にも眠ってしまいそうなほど、不安定な体勢だった。
 そんなこんなで、家までなんとかたどり着くと、彼女をベッドに寝かせ、僕はシャワーを浴びた。冷蔵庫の缶ビールを一本飲み干すと、僕もソファーで横になった。
 ユイの寝息が聞こえる。疲れのせいか眠気はすぐにやってきた。遠のく意識の中で、今日の海岸沿いの風景を思い返していた。この記憶はいつになっても忘れないだろうと思った。冷たい風に靡くユイの髪も、不規則に往来する漣も、足にまとわりつく海砂も、何もかも。
 日付変更線をを跨いだ渡鳥の日付がいつまでも変更されないように、僕たちの今日もいつまでも今日で居続ければいいなと思いながら眠りについた。

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