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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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#哲学

浄土経【仏教の基礎知識07】

竹下雅敏説 3万2000人もの大勢の修行僧たちと共に、ラージャグリハの鷲の峰に滞在していたと書いてある。この記述は地球レベルの場所を指しているわけではない。すでにゴータマ・ブッダが亡くなってから200~300年が経っている。したがって、師がここに滞在していたというのは明らかに霊界のことを指している。霊界のある場所に3万2000人もの修行僧たちと一緒に滞在していたということだ。 仏説とは霊界でゴータマ・ブッダが直接弟子に語った内容を指す。それを霊界通信を通じて降ろしてきたもの。

部派仏教から大乗仏教へ【仏教の基礎知識06】

大乗仏教の原点:浄土三部経説 「浄土三部経」ゴータマ・ブッダが霊界で弟子たちを招集して説いた教え説。 ゴータマ・ブッダが直接弟子たちに語り、その教えが教典として降りてきたという説は非常に興味深い。天界での説法が地上に伝えられ、それが浄土三部経としてまとめられたということだ。 浄土三部経はゴータマ・ブッダの教えそのものであり、初期仏教の八正道や四聖諦とは異なる独自の教えを持っている。この教えを信じたのがマイトレーヤー、すなわち弥勒菩薩で、彼が中心となって無数の転生を経て六

十二因縁説Ⅱ【仏教の基礎知識05】

内的心理器官(アンタッカラーナ) 意思(マナス) 理智(ブッディ) 我執(アハンカーラ) 心素(チッタ) *註釈:ヤコービは、ナースィキヤ派(サーンキヤ派)と関係のない独自の原始ヨーガを、現存の経典および注釈から復元できると主張している。しかし、ヤコービはその出発点において、経典と注釈を無条件に一体視しているという誤謬を犯していることも指摘されている サーンキヤ哲学 真我 自性 → 覚 → 我慢 意 + 根(眼・耳・鼻・舌・皮)  語・手・足・排泄器官・生殖器官

十二因縁説Ⅰ【仏教の基礎知識04】

十二因縁 十二因縁説は、仏教における因果の法則を示す教えであり、生と死の連鎖の原因を十二の段階に分けて説明したもの。以下の十二の因縁が順に関連し合っている。 無明:アヴィドヤー(avidyā)。真理を悟ることができない無知や邪見、俗念を。人間の苦しみや迷いを生み出す根本的な原因ともされ、自己の存在にとらわれ、苦しみを超える智慧を欠いた心。 行:サンカーラ( Saṅkhāra)。無明に基づく行為。現世や前世の経験が意識下に刻まれ、その人の心のあり方や行動に影響を与える。パ

五蘊無我(五蘊非我)【仏教の基礎知識03】

五蘊とは 五蘊とは、色・受・想・行・識のことを指す。 原義では「5つの集合体・グループ・コレクション」を意味する。蘊は集まり、同類のものの集積を指す。仏教では五取蘊として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称となり、物質界と精神界の両面にわたるすべての有為法を示す。この五つをまとめて五蘊とも呼び、五陰とも書かれる。これは人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したものである。 人間の肉体を「色」として表現していることから、「色(ルーパ/rūpa)」は肉体そのものを意味すると

九次第定【仏教の基礎知識02】

仏教の核心的な問題の一つは、釈尊(仏陀、ゴータマ・シッダールタ)が何を悟ったのかが未だに明確でない点だ。釈尊が悟ったとされる「縁起」の概念についても、それが本当に釈尊自身が悟ったものなのか、後世の創作物なのかという疑問がつきまとう。しかし、釈尊の悟りはこれらの教えを超えたもっと根源的なものであろうと推測される。 まず、釈尊が実際に悟った内容について触れてみよう。一般的な理解では、釈尊は「四諦」と呼ばれる教えを説き、人々に苦しみからの解放を説いたとされる。釈尊が生涯を通じて最

無我について【仏教の基礎知識01】

インドでは本来の自己としてアートマンという概念を解く。 仏教は無我と言い、アートマンの存在を否定する。 西洋哲学的な感覚ではアートマンの存在を否定するということは「存在しない」という解釈になる。しかし、仏教がアートマンの存在を否定するという意味は、アートマンが存在しないと言っているわけではない。 インドの哲学のアートマン解釈 仏教のアートマン解釈 仏教の立場では、魂が永遠不滅であると説く教えは、ただの信仰に過ぎず、心の慰めにしかならないとされる。アートマンと呼ばれる魂の

自己と世界/宮元啓一先生【仏教をより深く理解するための予備知識】

インド哲学の世界に足を踏み入れると、「自己と世界」というテーマが非常に重要な位置を占めていることに気づく。特に、ウパニシャッドの哲学はこのテーマに深く根ざしている。ウパニシャッドにおけるアートマン(自己)は、個々の存在を超越した普遍的な自己として理解され、解脱という究極の目標に向かう重要な概念となっている。 しかし、仏教に目を向けると、そこでは無我(アナートマン)が説かれている。これは、自己というものが固定的な存在ではなく、変化し続ける現象の一部であるという考え方だ。したがっ

青樹謙慈(アオキケンヂ)自己紹介

Noterのみなさま、こんにちわ。アオキケンヂと申します。 先日(2024年5月初頭)からnoteを始めてみました。 『憂世で生きる智慧(うきよでいきるちえ)』を執筆しています。 自己紹介極めて内向的で人見知りが激しいです。 世渡りが下手で、社会性がないことは自覚しています。 敏感で感受性が強く、いろんなことが気になります。 誰かのちょっとした発言(文章)、言葉づかいにも敏感に反応して、いつももやもやしていました。それで、そのもやもや感を、チラシの裏になぐり書きして言語化し

法界と共鳴しつつ生きていることを知る -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(9)

中沢新一氏の『精神の考古学』を読む。 + + 私たちの「心」は、普段、あれこれの物事を、 好き/嫌い 損/得 うまい/まずい 良い/悪い ある/ない うち/そと 容器/中身 などと分けては、 「あちらではなく、こちらを、絶対に選ばなければならない」 という具合に働いている。 「好きなものだけを選びたい、嫌いなものは選びたくない」、「安くてもまずいものは食べたくないが、高くて美味いものも食べられない。どこかに安くて美味いものはないかなぁ」と、これらは一見するととても「良

読書ノート 「井筒俊彦 起源の哲学」 安藤礼二

 この本は井筒俊彦の現段階における最新の思想概説を提示してくれる。英文著作を含めた井筒のエクリチュール全体を概観することが安藤礼二によってやっと可能になった。安藤が書いているように、2000年代初頭においては井筒の著作の全体像は一般には掴みきれない状況であった。若松英輔の仕事や河出書房新社の特集本を機に、井筒俊彦が広く関心を持たれるようになったのはここ最近のことである。ここでは私が初見であったり、重要であると思った部分を取り出していく。これ一冊で井筒俊彦の全体像が朧げながら見

暗黒瞑想 宇宙/非宇宙分節以前の”法界の根源的脈動”と微かに共振するアンテナとしての”わたし”へ -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(8)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。 松岡正剛氏が『空海の夢』で「仏教の要訣は、せんじつめれば意識をいかにコントロールできるかという点にかかっている」と書いている(松岡正剛『空海の夢』p.23)。 意識をコントロールする例えば、私たちが迷い苦しむのは、自/他、生/死、清/濁、光/闇、などと二つに分けて、そのどちらか一方だけを自分ものにしようとこだわり、他方を遠ざけておこうこだわるから、であると考える。例えば生/死など、前者だけを選んで、後者を捨て去りましょう、など

如来蔵・曼荼羅・色即是空空即是色 -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(6)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。 精神の考古学。 私たちの「心」は、いったいどうしてこのようであるのか? 心の動きの全貌を観察するために、表層の分別心だけに依るのではなく、「セム(分別心)を包摂する(深層の)無分別のセムニー」でもって、目の前に浮かぶあれこれの事柄(諸法)を見て、その「意味」をコトバでもって説く。 + + 表層の分別心の道具としての言葉は「あちらか、こちらか」「白か黒か」「ウソかホントか」「自分か非-自分か」「動いているか、止まっているか」

潜在眼で心の深層を「見る」/卵の殻としての言語 -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(5)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。 精神の考古学。 私たちの「心」は、いったいどうしてこのようであるのか。 私たちが日常的に経験している「心」は、よい/わるい、好き/嫌い、ある/ない、真/偽、結合している/分離している、同じ/異なる、自/他、といった二項対立を分別するようにうごいている。通常「心」というと、こういう識別、判別、判断を行うことが、その役割であるかように思われている。 しかし、こういう分別する心、分別心は、いったいどこからやってきたものだろうか。