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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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#瞑想

私たちはなぜ、この世界に生まれてきたのか?(全訳)

アチャン・チャー  今年の雨安居では、私はあまり体調がすぐれず、元気がありません。そこで、新鮮な空気を吸いに、この山の寺へとやってきました。私に面会を求める人々は絶えませんが、以前のように対応することはできません。声もかすれますし、話すとすぐに息が上がってしまいますので。こうして皆さんに会えるということ自体、有り難いことだと思っています。すぐに、皆さんとももうお会いできなくなることでしょう。私の呼吸が止まり、誰とも話せなくなる日もそう遠い日のことではありません。あらゆる現象

浄土経【仏教の基礎知識05】

竹下雅敏説 3万2000人もの大勢の修行僧たちと共に、ラージャグリハの鷲の峰に滞在していたと書いてある。この記述は地球レベルの場所を指しているわけではない。すでにゴータマ・ブッダが亡くなってから200~300年が経っている。したがって、師がここに滞在していたというのは明らかに霊界のことを指している。霊界のある場所に3万2000人もの修行僧たちと一緒に滞在していたということだ。 仏説とは霊界でゴータマ・ブッダが直接弟子に語った内容を指す。それを霊界通信を通じて降ろしてきたもの。

部派仏教から大乗仏教へ【仏教の基礎知識04】

大乗仏教の原点:浄土三部経説 「浄土三部経」ゴータマ・ブッダが霊界で弟子たちを招集して説いた教え説。 ゴータマ・ブッダが直接弟子たちに語り、その教えが教典として降りてきたという説は非常に興味深い。天界での説法が地上に伝えられ、それが浄土三部経としてまとめられたということだ。 浄土三部経はゴータマ・ブッダの教えそのものであり、初期仏教の八正道や四聖諦とは異なる独自の教えを持っている。この教えを信じたのがマイトレーヤー、すなわち弥勒菩薩で、彼が中心となって無数の転生を経て六

十二因縁説Ⅱ【仏教の基礎知識05】

内的心理器官(アンタッカラーナ) 意思(マナス) 理智(ブッディ) 我執(アハンカーラ) 心素(チッタ) *註釈:ヤコービは、ナースィキヤ派(サーンキヤ派)と関係のない独自の原始ヨーガを、現存の経典および注釈から復元できると主張している。しかし、ヤコービはその出発点において、経典と注釈を無条件に一体視しているという誤謬を犯していることも指摘されている サーンキヤ哲学 真我 自性 → 覚 → 我慢 意 + 根(眼・耳・鼻・舌・皮)  語・手・足・排泄器官・生殖器官

十二因縁説Ⅰ【仏教の基礎知識04】

十二因縁 十二因縁説は、仏教における因果の法則を示す教えであり、生と死の連鎖の原因を十二の段階に分けて説明したもの。以下の十二の因縁が順に関連し合っている。 無明:アヴィドヤー(avidyā)。真理を悟ることができない無知や邪見、俗念を。人間の苦しみや迷いを生み出す根本的な原因ともされ、自己の存在にとらわれ、苦しみを超える智慧を欠いた心。 行:サンカーラ( Saṅkhāra)。無明に基づく行為。現世や前世の経験が意識下に刻まれ、その人の心のあり方や行動に影響を与える。パ

五蘊無我(五蘊非我)【仏教の基礎知識03】

五蘊とは 五蘊とは、色・受・想・行・識のことを指す。 原義では「5つの集合体・グループ・コレクション」を意味する。蘊は集まり、同類のものの集積を指す。仏教では五取蘊として、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称となり、物質界と精神界の両面にわたるすべての有為法を示す。この五つをまとめて五蘊とも呼び、五陰とも書かれる。これは人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したものである。 人間の肉体を「色」として表現していることから、「色(ルーパ/rūpa)」は肉体そのものを意味すると

九次第定【仏教の基礎知識02】

仏教の核心的な問題の一つは、釈尊(仏陀、ゴータマ・シッダールタ)が何を悟ったのかが未だに明確でない点だ。釈尊が悟ったとされる「縁起」の概念についても、それが本当に釈尊自身が悟ったものなのか、後世の創作物なのかという疑問がつきまとう。しかし、釈尊の悟りはこれらの教えを超えたもっと根源的なものであろうと推測される。 まず、釈尊が実際に悟った内容について触れてみよう。一般的な理解では、釈尊は「四諦」と呼ばれる教えを説き、人々に苦しみからの解放を説いたとされる。釈尊が生涯を通じて最

無我について【仏教の基礎知識01】

インドでは本来の自己としてアートマンという概念を解く。 仏教は無我と言い、アートマンの存在を否定する。 西洋哲学的な感覚ではアートマンの存在を否定するということは「存在しない」という解釈になる。しかし、仏教がアートマンの存在を否定するという意味は、アートマンが存在しないと言っているわけではない。 インドの哲学のアートマン解釈 仏教のアートマン解釈 仏教の立場では、魂が永遠不滅であると説く教えは、ただの信仰に過ぎず、心の慰めにしかならないとされる。アートマンと呼ばれる魂の

自己と世界/宮元啓一先生【仏教をより深く理解するための予備知識】

インド哲学の世界に足を踏み入れると、「自己と世界」というテーマが非常に重要な位置を占めていることに気づく。特に、ウパニシャッドの哲学はこのテーマに深く根ざしている。ウパニシャッドにおけるアートマン(自己)は、個々の存在を超越した普遍的な自己として理解され、解脱という究極の目標に向かう重要な概念となっている。 しかし、仏教に目を向けると、そこでは無我(アナートマン)が説かれている。これは、自己というものが固定的な存在ではなく、変化し続ける現象の一部であるという考え方だ。したがっ

法界と共鳴しつつ生きていることを知る -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(9)

中沢新一氏の『精神の考古学』を読む。 + + 私たちの「心」は、普段、あれこれの物事を、 好き/嫌い 損/得 うまい/まずい 良い/悪い ある/ない うち/そと 容器/中身 などと分けては、 「あちらではなく、こちらを、絶対に選ばなければならない」 という具合に働いている。 「好きなものだけを選びたい、嫌いなものは選びたくない」、「安くてもまずいものは食べたくないが、高くて美味いものも食べられない。どこかに安くて美味いものはないかなぁ」と、これらは一見するととても「良

暗黒瞑想 宇宙/非宇宙分節以前の”法界の根源的脈動”と微かに共振するアンテナとしての”わたし”へ -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(8)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。 松岡正剛氏が『空海の夢』で「仏教の要訣は、せんじつめれば意識をいかにコントロールできるかという点にかかっている」と書いている(松岡正剛『空海の夢』p.23)。 意識をコントロールする例えば、私たちが迷い苦しむのは、自/他、生/死、清/濁、光/闇、などと二つに分けて、そのどちらか一方だけを自分ものにしようとこだわり、他方を遠ざけておこうこだわるから、であると考える。例えば生/死など、前者だけを選んで、後者を捨て去りましょう、など

禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論①

今回扱うのは禅の立場からの瞑想(ヴィパッサナー)批判です。これをヴィパッサナー実践の立場から更に批判的に見ていくわけですが、それがなぜ必要なのかということをお伝えしておきます。 禅、特に曹洞禅の只管打坐という立場とテーラワーダのヴィパッサナーの実践方法は比較されます。まぁ一般の人から見ればどちらも座ってやっているし、変わらないのですが、やってることは全然違う部分もあるし、同じ部分もあるように思います。ある意味、近いからこそ両方の狙いをちゃんと見定めて分けておかないと、実践の

禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論②

前回、禅とヴィパッサナーについて本質的な話を伝えるため、ネルケさんの文章を引用しつつその坐禅体験をまとめました。最初にその体験を図にまとめたものを再掲します。今後この図を基本図として他の教えや実践法と坐禅を比較していくことにになります。 ネルケさんにとって坐禅というのは哲学的な内省から、今ここにある身体へと意識を引き戻すような体験でした。 そしてネルケさんはこのようなご自身の宗教的原体験を語られた後、その体験と他の思想との比較に入ります。まず比較対象として挙げられるのがラマ

禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論③

前々回ネルケさんの坐禅体験から始まり、不二一元論との比較、そして初期仏教との比較まで進みました。前々回の最後にのせた禅とネルケさんの考える瞑想(ヴィパッサナー)と私が考えるヴィパッサナーの違いを表した図を再掲します。 ここで申し上げておきたいことが一つあります。この図に関してネルケさんの意見を批判的に取り上げてはいますが、実際ヴィパッサナーの実践を続けている人にも上の図は理解されていないということです。 私の記事では何度か触れていますが、ヴィパッサナーの実践は意識よりも「