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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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2024年2月の記事一覧

足利直義の仏教理解と光厳院——「高野山金剛三昧院奉納和歌短冊」所収釈教歌について

 足利直義は足利尊氏のすぐ下の同母弟である。優柔不断な兄を支え、後醍醐との対決や室町幕府の成立に大きく寄与した。幕府成立後は兄・尊氏に代わって幕政を主導したが、やがて執事・高師直と対立、失脚。南朝方に下り挙兵して師直らを排除するも、最後は尊氏・義詮とも敵対し敗北。鎌倉に幽閉され、失意のうちに世を去った。  直義は為政者としての立場を強く自覚し、自らを顧みる謹厳実直な人物であった(森暁夫『足利直義』)。上記に掲げた和歌は『風雅和歌集』巻十七雑部下に採られた述懐歌である。深津睦

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第1147回「流した涙の多さ」

先日は、円覚寺派のお寺で和尚様の三回忌の法要が行われて、お参りしてきました。 こういった仏事を簡略にすることは、お寺の世界でも進んでいます。 かつては、円覚寺派であれば、本山の管長を呼んでお勤めすることがよくございましたが、この頃はコロナ禍の影響もあって、内々ですますことが多くなっています。 そんな中で、丁寧に仏事をお勤めくださるというのは実に有り難いことであります。 しかも法要だけではなく、私の法話も行うというのであります。 これは実に有り難いご縁であります。 元来お寺に檀信徒が集まって戒を守り法話を聞いて食事の供養をするのが齋会の原義なのでした。 三回忌というと、まだ悲しみも深い中での法要であります。 はじめにお釈迦様のお話を少し致しました。 あるときお釈迦様が、 「なんじらは、これを、どう思うだろうか。四つの大海の水と、なんじらが、ながいながい過去のいく生涯のなかで、 愛しい者との別離にそそいだ涙と、どちらが多いであろうか。」 と弟子達に質問されました。 これは、その人一代だけのことではなく、くりかえし、くりかえし、 この世にさまざまの生を受けてきたという考え方に基づいて、ながいながい過去のいく生涯においては、誰しも悲しい別れを経験してきています。 その別れの涙であります。 弟子達は答えました。 「わたしどもは、世尊のつねづね説きたもうた教えによって、わたしどもが、ながいながい過去のいく生涯において、 愛しい者との別離のうえにそそいだ涙の量は、四つの大海の水をもってするも、なおその比ではないと心得ております。」 お釈迦様もその答えに満足されて、 「よいかな、比丘たち。 よいかな、比丘たち。 なんじらは、わたしの説いた教えを、そのように理解しているか。 比丘たちよ、われらは、ながいながい過去のいく生涯において、いくたびか、わが父母の死にあったはずである。 そのたびに流した涙の量は、いくばくとも知れない。 また、われらは、それらのいく生涯において、 いくたびとなく、わが子の死にあったであろう。 わが友の死にもあったであろう。 わが血縁のものの死にもあったにちがいない。 そのたびごとに、わたしどもが、 愛しい者とのわかれの悲しみにそそいだ涙は、思うに、四つの大海の水をもってするも、なおその比にあらずとしなければならない。」 と仰せになったのでした。 円覚寺の朝比奈宗源老師は、四歳で母を亡くされ、七歳で父を亡くされています。 亡くなった両親がどこに行ったのか、少年の朝比奈老師にとっては大きな疑問でありました。 朝比奈老師が八歳の時、お寺の涅槃図をご覧になって、ただ圧倒されたような気分で拝まれたそうです。 和尚さんにこれはどういう絵ですかと聞くと、和尚は、これはお釈迦様がおかくれになったところだと説明されました。 どうしてこんなに大勢の人たちが泣くのですかと問うと、お釈迦様が世界で一番智慧のある、いちばん情け深い方であったから、みんな悲しんでいるのだと言われたそうです。 少年の朝比奈老師は、こんなに人間ばかりでなく、動物にまで慕われるというのは、大した人だと驚かれました。 しかし、よく涅槃図を見てみると、お亡くなりになったというお釈迦様は肉付きがよくて、健康な人がまるでうたた寝でもしたように描かれていて、おかくれになった人のような寂しさがないことに気がつかれました。 そこで朝比奈老師は、お寺の和尚さんに、お釈迦様はおかくれになったというのに、死んだような顔をしていないではありませんかと問いました。 すると和尚さんは、それはお釈迦様がおかくれになっても、本当はおかくれになったのではないから、死んだように描かれていないのだと答えられました。   この和尚が言われた、死んでも本当は死なないという言葉が、朝比奈老師を驚かせました。 朝比奈老師は、お釈迦様は特別にお偉い方だから、死んでも死なないのだろうか、それとも自分の父や母のような者も死んでも死なないのだろうか、これが朝比奈老師の大きな疑問となったのでした。 そこでご縁があって出家して坐禅修行に打ち込まれてこの問題を解決されたのでした。 十八歳で妙心寺の修行道場に入り、二十歳の頃に、大きな体験をなされました。 どういう心境が開かれたというと、朝比奈老師のご著書『仏心』には次のように記されています。 朝比奈老師は、その時に仏心の一端を見たのだと仰せになっています。 仏心とはどういうものかというと、 「仏心は生を超え死を超えた、無始無終のもの、仏心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという、祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」   というのです。 「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるので、その場その場が仏心の真只中であります。 人はその生を超え死を超え、迷いをはなれ、汚れをはなれた仏心の中にいるのだという、人間の尊いことを知らないために、外に向かって神を求め仏を求めて苦しみ、死んだ後のことまで思い悩むのですが、この信心に徹することができたら、立ちどころに一切解消であります。 私の上でいえば、私のおろかな父も母も死後は、釈尊も達磨も、同じく仏心の世界、永遠に静かな、永遠に平和な涅槃の世界にいられるのであって、修行した人も修行しない人も、その場に隔てはないのであります。 これは私が少年の時、両親の死後どうなったであろうという問題が縁となってついに僧侶となり、禅を中心として修行し、また仏教諸宗について研究し、六十余歳の今日になってたどりついた結論であります。」 というのであります。 流した涙もはかりしれないものでありますが、仏心の世界に目覚めることで、大いなる安らぎを得ることもできるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

マニ教の創世神話を深層意味論で読む

「深層意味論で読む」シリーズの第三弾! 今回は青木健氏の2010年の著書『マニ教』を深層意味論で読みます。 「マニ教と言えば二元論」と、たしか中学生の頃に丸暗記したような記憶があるが、一体、何と何がどう関係して二元なのかは不明なままであった。そして「あれから40年」いや30年くらいを経て、この『マニ教』を手に取ったのである。 マニ教は西暦3世紀の西アジアで生まれた宗教である。キリスト教の文献ではキリスト教会の敵役として登場することが多い。 マニ教の開祖の名はマーニー・ハ

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』/柳宗悦『南無阿弥陀仏』/岡本勝人『仏教者 柳宗悦』/シュタイナー『霊的宇宙論 霊界のヒエラルキアと物質界におけるその反映』

☆mediopos3382  2024.2.20 浄土教の極北にある一遍は その生誕の地・現松山市においても 正岡子規などにくらべ 観光としての側面も希薄なせいか 関心を持っている人はあまりいないようだ ぼくが一遍に関心をもつようになったのも 松山市に長く住んでいるからというわけではなく シュタイナーと柳宗悦が関係している シュタイナーに関心をもちはじめ 現インターネットの前身ともいえるパソコン通信で 「シュタイナー研究室(神秘学遊戯団)」という 「会議室」をひらいて

「前後際断」について

 禅ではよく「今、ここ」が大事だと言われます。人間の思考はすぐ過去や未来をさまよってしまいますから、そういった妄念をスッパリ断じて「今、ここ」に集中せよ、あるのは今だけだ、前後際断だ……そんなふうに「前後際断」という言葉が使われたりするのを耳にします。  「前後際断」という言葉は『正法眼蔵』「現成公案」巻の中に出てきますが、はたして本当にそのような意味で使われているのでしょうか。 現成公案とは  「現成公案」巻の冒頭は「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり

一日一句【菜根譚】#50 『真空不空,在世出世』「空」と「縁起」について

真空不空,在世出世 日本語訳: 真空中にも空虚はなく、世俗にも出世間にも存在する。 解説: この言葉は、仏教の重要な概念である「空」と「縁起」を説明しています。 「空」とは、すべての存在は固定された本質を持たず、常に変化しているということです。 「縁起」とは、すべての存在は互いに依存し合って存在しているということです。 この言葉は、真空中にも空虚はなく、世俗にも出世間にも存在するということです。つまり、すべての存在は空であり、縁起によって生じているということです。

一日一句【菜根譚】#46『順其自然、脱俗入聖』自然の流れに身を任せ、心の中の聖人を目指す

順其自然(じゅんきしぜん)と脱俗入聖(だつぞくにゅうせい)という言葉は、それぞれ深い哲学的意味を持っています。これらの言葉は、単に日常会話で使われることがあるだけでなく、人生の指針としても考えられます。 順其自然:流れに身を任せる 「順其自然」とは、文字通りには「自然の流れに身を任せる」という意味です。これは、無理に事を進めようとせず、物事が自然に進むのを待つという考え方を示します。この言葉には、ストレスフルな現代社会での生き方へのヒントが隠されています。無理にコントロー

一日一句【菜根譚】#40「静悠恬淡、観心証道」 自己省察と内心の平静

「静悠恬淡、観心証道」というのは、生活の態度と修行方法を表す言葉です。この表現は、中国の伝統哲学の要素を含んでおり、内心の平和と智慧を求める生き方を概説しています。ここでは、心の静けさと自己観察を通じて精神的成長と悟りを実現することに重点を置いています。 静悠恬淡:内心の平静と淡泊を求める 「静悠恬淡」とは、心の平和と淡泊さを強調する言葉です。忙しい現代生活の中で、静かで穏やかな心を保つことは、外界の騒動や誘惑から離れ、内面の安定とバランスを維持することを意味します。この

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第1140回「生命飛躍」

インドから戻って二日目に、佐々木奘堂さんにお越しいただいて、講座をお願いしていました。 今回で三十五回目、今回のテーマは、 「美しい姿勢(正身端坐)の本質は 生命飛躍 (エラン・ヴィタール である」 というものであります。 副題が、「(実践的に言えば)自分の足で立ち、全身心を投げ放つ」となっていました。 西田幾多郎先生の「短歌について」から、 「ベルグソンは『創造的進化』において、動物的から植物的生命、さては物体運動の如きものに至るまで、物質面を破って進展する飛躍的生命の種々なる形態なることを論じて、人間の生命は生命の大なる息吹であるといっている。我々の生命と考えられるものは、深い噴火口の底から吹き出される大なる生命の焔という如きものでなければならぬ。」 という言葉を、そして『美の本質』からは、 「芸術的創造の本源はエラン・ヴィタール(生命飛躍)にある。 フィディヤスの鑿の尖(さき)から流れ出づるもの… そこにはle grand souffle de la vie(生命の大なる気息)がある。 大なる生命の流の溢出である。」 という言葉を紹介してくれていました。 この言葉は、何度も拝聴しているものですが、何度うかがっても心に深く響いてくるものです。 それから今回は、一遍上人の言葉を紹介してくれて、嬉しく思いました。 一遍上人の念仏の特色はなんといっても踊り念仏にあります。 踊り念仏とは、岩波書店の『仏教辞典』には、 「<踊躍(ゆやく)念仏>ともいう。一遍(いっぺん)が1279年(弘安2)冬、信州佐久の武士の館で念仏中、信心歓喜(かんぎ)のあまり僧俗一体となって踊った。それ以来時宗(じしゅう)の重要な法儀となった。踊念仏は平安中期の空也(くうや)が京都の市中で踊ったのがはじめで、一遍はそれを再興したと『一遍聖絵』は伝える。鉦(かね)を打ち、念仏に和讃をまじえて称えながら踊る。」 というものです。 一遍上人に はねばはね 踊らばおどれ 春駒の のりの道をば しる人ぞしる という和歌があります。 坂村真民先生には、『一遍上人語録 捨ててこそ』という著書があります。 一遍上人をこよなく愛し慕われた真民先生の名著だと思っています。 そのなかに、この和歌に対して次のように書かれています。 「インド、中国、日本の祖師たちのなかで、こんなに踊躍歓喜した人があろうか。 乗りと法とのかけことばのうまさもさることながら、踏み板を踏みはずすように踊り回りながら、念仏歓喜する一遍上人を思い浮かべると、この人こそ生まれながらの赤ん坊のような純心そのもの、天真そのものの人であることをしみじみと知ることができ、悟りすました高僧名僧でなく、そこいらのおっさん、おばさんたちと共に生きた本当の人間僧であったことに、わたしは限りない親近感を覚え、この人こそわたしのよき先達であり、よき伴侶であることを痛感する。」 というのであります。 また佐々木奘堂さんは、一遍上人が鎌倉に入ろうとしたけれども、鎌倉幕府の武士から、北条時宗公が通る日なのでと制止されたときの言葉も紹介してくれていました。 「法師にすべて要なし、只人に念仏を勧むるばかりなり。 … 念仏勧進をわがいのちとす。」 という言葉であります。 この言葉についても坂村真民先生は次のように『一遍上人語録 捨ててこそ』に書かれています。 「「いのちとす」という言葉に打たれて、この語を挙げた。どの祖師だって、いのちを賭けての精進だった。 でも宝厳寺にある、あの姿にもわかる通り、破れ衣に跣で、酒肉五辛を断ち、念仏勧進のため日本全国を歩き回り、旅の果てに死んでいったのは、上人ひとりである。 上人には立宗の意志もなく、寺院建立のはからいもなく、後継者を作って跡を残すという野心野望も、皆無であった。 ただ念仏勧進だけが、上人のいのちであった。火であった。焰であった。」 というのであります。 そして更に真民先生は次のように解説してくださっています。 「この言葉は、こんな時、生まれている。 弘安五年、一遍上人四十四歳の時である。 北条時宗というと、時の執権であり、元の大軍を大敗させた大功労者である。その時宗の警備の武士隊に向かい立った上人の姿が、ほうふつとして浮かんでくる。 日蓮上人は別として、とかく日本の仏教は権威主義で、それによって栄えてきた。 護国鎮護、それはそれでよい。 しかし釈尊の教えは、そういうところにあるのではない。 釈尊は国を捨てた人である。 一切の権威を捨て、糞雑衣の人となった方である。 ここを忘れて仏教はないのである。上人は徹底した仏教本来の僧であった。 飛ぶ鳥も落す実力者の時宗も眼中にはなかった。 あるのは燃え立つ念仏勧進だけである。 鎌倉へ旅の風雨によごれた、きたない姿の僧や僧侶を引き連れて、処もわきまえずやってきたので、警備の武士たちが、大きな声で制止し罵詈した。 今日街頭でよく見るデモ隊との衝突の場面とか、国家行事の時の警備など想像されるとよい。 そこで上人の怒りが爆発した。 その時、言い放ったのが、この言葉である。 もう少し詳しくこの場面を描くならば、かたく制止する上、わる口まで言うので、たまりかねて上人は、お前たちもいつかは死ぬのだ。 その時、自分がしてきた罪業のため、どんなにか苦しむだろう。 それを救ってくれるのは、念仏だけなのだ。 と言う。 しかし下っぱの武士たちは、そういう言葉を聞く耳を持たない。 かえっていきり立ち、二度まで棒で打った。それで上人が、念仏をすすめるのがわたしのいのちだ。それがわかってもらえぬなら、もう死んだ方がいい。ここで死ぬ。 と、権威を盾にして威張りちらしている警備の武士たちに言った。 いや、太守たる北条時宗に言いたかったのであろう。」 というのであります。 一遍上人の言葉もさることながら、真民先生の解説にも生命の飛躍を感じることができます。 また奘堂さんは、一遍上人が熊野に参籠したときに授かったという言葉も紹介してくれていました。 「心品のさばくりあるべからず。此の心はよき時もあしき時も、迷ひいなるゆゑえに、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生する 也なり」 という言葉です。 心であれやこれや思い計るなとということです。 姿勢や腰骨や、どうしたら坐れるかなどあれこれ技法を考えるには及ばないというのです。 奘堂さんは「澄んだ心が良いとか、どれが禅定の心かなど一切はからうな」と語ってくださっていました。 私が一遍上人に親しみを覚える点は二つあります。 一つは、一遍上人は私のふるさとである熊野権現様に参籠して念仏の教えについて啓示を受けられたこと、そしてもう一つが、私が参禅をしていた和歌山県由良町の興国寺を開山された法灯国師に参禅をされたことの二つであります。 奘堂さんから生命飛躍そのものの一遍上人の言葉を聞くことができ、インド帰りの疲れも吹っ飛んでしまい、有り難い一日となりました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1136回「仏跡巡拝の旅 – その五 –」

さて作日は涅槃会でありましたが、インド仏跡巡拝四日目で、お釈迦様の涅槃の地であるクシナガラにお参りしてきました。 ワラナシから車で六時間ほどかかりました。 仏教徒にとっては感激の場であります。 お釈迦様は八十歳となって、いよいよ最後の旅に出てクシナガラでお亡くなりになったのでした。 沙羅双樹の間でお休みになって、涅槃にお入りになったのでした。 クシナガラの地も19世紀にアレキサンダー・カニンガムによって発掘されたのでした。 この涅槃の地クシナガラには、白亜の殿堂大涅槃寺がございます。 堂内には、六メートルもある大きな涅槃像が安置されています。 これは五世紀グプタ王朝期の作品だそうで、これもカニンガムにより、近くのヒラニヤヴァティー河床から発掘されたのだそうです。 河床から発掘されたというのは驚きでありました。 おそらく破壊されそうになった頃に、隠していたのだと思いました。 もともとの仏像は赤砂岩に刻まれていたらしいのですが、仏滅二五〇〇年の大祭の時、ビルマ人仏教徒により金箔が施されたとのことでした。 今は柵があって、手で触れることは出来ないのですが、建仁寺の管長さまと私とだけ特別に柵の中に入れていただいて、お釈迦様の手に触れることができました。 これは大感動でありました。 枕の下の部分には、お釈迦様にお詫びするチュンダの姿が彫刻されています。 チュンダがお釈迦様にさし上げた食事が最期の供養となったのでした。 中央には、最後の弟子スバトラの姿が掘られていました。 足元には、悲しみに溢れる阿難尊者の姿も刻まれています。 一同で般若心経を読経し、涅槃像のまわりをぐるりと回ってお参りしました。 沙羅双樹の木も確かめることができました。 そのあと、ヒラニヤヴァティー河の岸を訪れました。 ここでお釈迦様は最期に沐浴なされたのでした。 漢訳の経典には、「跋提河」となっているところであります。 小さな河でありました。 そのあと、更に最期のお説法をなされたお堂にもお参りさせてもらいました。 大涅槃寺入口の南約100メートルのところに、お釈迦様が最後の説法を行われた場所があります。 小さなお堂の中には11世紀パーラ王朝時代の降魔成道像が安置されています。 こちらも特別に開けていただいて中を拝ませてもらいました。 そして、お釈迦様を荼毘にしたところに建っているストゥーパにお参りしました。 これは荼毘塚、ランバル・ストゥーパーと呼ばれているところでした。 お釈迦様の遺体を荼毘にしようとしますが、薪に火をつける事ができませんでした。 お釈迦様の弟子迦葉尊者はお釈迦様の涅槃に入るのには間に合わなかったのでしたが、ようやく到着されました。 迦葉尊者が到着なされて、ようやく薪に火をつけることが出来て荼毘にしたのでした。 旅行会社からいただいたパンフレットには、 「火葬の結果残った舎利を、 クシナガラのマルラ族は城内の精舎に納め、他国からの舎利分配の要求に応じようとはしませんでした。 この事にお釈迦様と縁のあった諸国は怒り、戦争が起こりかけましたが、ドローナというバラモンがお釈迦様の非暴力の教えに基づき、 八国で平等に分配するよう仲裁を行い、 舎利は八国に分けられ持ち帰られました。 このお釈迦様火葬の場所が荼毘塚、ランバルストゥーパーです。」と解説されていました。 その後アショーカ王が、仏滅時に建立された八つの塔(仏舎利塔)中の七塔を開いて、仏舎利をさらに分配し、全インドに八万四千塔を建立したと伝えられています。 お釈迦様がお亡くなりになったところ、最期に沐浴なされた河、最期のお説法の場所、荼毘にしたところ、それぞれをたずねることができて、それぞれ感激、感動でありました。 最後のお説法の地にあって、お釈迦様のお言葉を思い起こしました。 こちらも中村元先生の『ブッダ伝』から引用します。 「いよいよ最後のときに臨んで、ブッダは次のように説きます。 そこで尊師は若き人アーナンダに告げられた。 「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。 しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである」 (『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』) ブッダは亡くなっても、ブッダが説いた真理 (ダルマ) や戒律は修行者のよりどころになるのだ。 そして、生きているあいだにたずねておけばよかったと思われる後悔が起こることのないように、最後の命あるあいだにたずねなさいと促しますが、誰一人として問う修行者はいませんでした。 ついに最後のことばが語られるのです。 そこで尊師は修行僧たちに告げた。 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。(『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』)」 というお言葉であります。 中村元先生は「これは最後の説法として有名です。じつに簡潔であるが、含蓄のあることばです。 この世のものはすべて移り変わる。 だから、この真理をさとり、正しい真実の道を怠ることなくつとめ励みなさいとさとしています。 ブッダの生涯も、世の中の真理(ダルマ)に目覚め、真実の道を怠りなくつとめ励んだ一生ではなかったかと思われます。」 と書かれています。 今回の旅でしみじみと感じましたのが、この「この世のものはすべて移り変わる。」というお言葉であります。 仏跡のほとんどが遺跡となって伝わるのみなのです。 涅槃に入られたところ、最期のお説法の場所、荼毘にしたところ、それぞれ昔にはお寺があったらしく、今はその基盤となったレンガの遺跡のみが残っていました。 ランバルストゥーパーも長らく埋められていたのだそうです。 どこにあるかも忘れられていたほどだったのです。 それが一九世紀になってようやく発掘されたのです。 お釈迦様の遺跡ですら、そのように移り変りました。 これこそが真理を表していると感じることができました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1135回「仏跡巡拝の旅 – その四 –」

仏跡巡拝三日目は、初転法輪の地であるサールナートを訪れて、ワラナシに泊まりました。 夕方に小さな船に乗って、ガンジス川を航行しました。 岸辺には、沐浴している人も見かけました。 六時半には、ヒンズー教のお祭が毎晩あるそうで、船から拝見していました。 実に大勢の方々が熱心にお参りになっていました。 遺体が焼かれている炎も見られました。 なんとも言えない光景でありました。 ヒンズー教を熱心に信仰しておられることがよく分かりました。 お釈迦様がサールナートで、五人の比丘に対して何を説かれたのか、中村元先生の『ブッダ伝 生涯と思想』(角川ソフィア文庫)には、『初転法輪経』からの現代語訳が記されています。 引用させてもらいます。 「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。 一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。 他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。 真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。 修行僧らよ、真理の体現者のさとった中道とは………それはじつに〈聖なる八支よりなる道〉である。 すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。」 じつに〈苦しみ〉は次のごとくである。 生まれも苦しみであり、老いも苦しみであり、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、じつに〈苦しみの生起の原因〉は次のごとくである。 それはすなわち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。 じつに〈苦しみの止滅〉は次のごとくである。 それはすなわち、その妄執の完全に離れ去った止滅であり、じつに〈苦しみの止滅にいたる道〉は次のごとくである。 これはじつに聖なる八支よりなる道である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。 「〈苦しみ〉はこれである」とて、いまだかつて聞いたことのない法に関して、わたくしに眼が生じ、認識が生じ、知慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。じつに「この苦しみがあまねく知られるべきである」 という内容であります。 実践的には、中道を説かれ、思想的には四諦が説かれています。 更に「世尊はこのようにいわれた。五人の修行者の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。そしてこの〈決まりことば〉が述べられたときに、尊者コンダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。」 と説かれ、お釈迦様は、 「ああ、コンダンニャはさとったのだ! ああ、コンダンニャはさとったのだ!」と。それゆえに尊者コンダンニャをば〈さとったコンダンニャ〉と名づけるようになった。」と『サンユッタ・ニカーヤ』に書かれているそうなのであります。 そこからコンダンニャを、理解したコンダンニャという意味で、「アンニャーシ・コンダンニャ」と呼ばれるようになったのでした。 漢訳では「阿若憍陳如」と書かれています。 お釈迦様がお亡くなりになるにあたって最後に説かれた教えが『遺教経』であります。 そのはじまりには、 「釈迦牟尼仏、初に法輪を転じて、阿若憍陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅(しゅばつだら)を度したもう。 応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。 是の時中夜寂然として声無し、諸の弟子の為に略して法要を説きたもう。」 と説かれています。 お釈迦様は御一代三十五歳から八十歳でお亡くなりになるまで四五年間お説法を続けられました。 そのはじめが阿若憍陳如でありました。 そして最後が須跋陀羅でありました。 中村元先生の『ブッダ伝 生涯と思想』(角川ソフィア文庫)には、「スバッダ」として出ています。 お釈迦様がクシナガラでいよいよ涅槃にお入りになろうかという時に、是非ともお釈迦様にお目にかかりたいと言ってたずねてきました。 おそばにお仕えしていた阿難尊者は、当然お断りました。 それでもどうしても会わせて欲しいと頼むのでした。 中村先生の本には、 「スバッダは同じように三度会わせろといいはりますが、アーナンダは、ブッダは臨終の床で衰弱しきっているから無理だと、三遍ともことわりました。 それでも引き下がる気配もなく、アーナンダは困りはてていました。 瀕死の重病人のブッダはこの様子を聞いていて、彼に会おうというのです。 尊師は、若き人アーナンダが遍歴行者スバッダとこの会話を交わしているのを聞いた。 そこで尊師は、若き人アーナンダに告げた、「やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッダを拒絶するな。 スバッダが修行をつづけて来た者に会えるようにしてやれ。 スバッダがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうと欲してたずねるのではないであろう。 かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう。 かれはそれを速やかに理解するであろう。」と。」 と書かれています。 スバッダはいろいろと形而上学的な質問をしたようですが。 お釈迦様は「スバッダよ。わたしはあなたに理法を説くことにしよう。それを聞きなさい。よく注意なさいよ。わたしは説くことにしよう」(『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』)」と仰せになっています。 中村先生もまた「ブッダはスバッダの形而上学的な質問には答えずに、真理 (ダルマ)に従って生きる心がまえを説くのでした。 「スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。 スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。 正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない」(『マハーパリニッパーナ・スッタンタ』)」 と説かれています。 更に中村先生は、 「ここで注目されるのは、ブッダは「善を求めて」出家したのであり、善でも悪でもない「さとり」を求めて出家したのではないということです。 「いかによく生きるか」が最大の関心事だったのではないかと思われます。 他人のことはいざしらず、自分はひたすら正しい道理・真理(ダルマ)を求めて修行につとめ励んできた。 この理法にかなったやり方で、自分はわが歩むべき道を歩むだけだ。というのです。他人が何といおうと左右されない。この理想をブッダはずっと追い求めてきたというのです。」 と解説されています。 ワラナシを後にして、「いかによく生きるか」をひたすら求めて八十年の生涯を終えられた、その地クシナガラをたずねてきたのでした。 本日は涅槃会であります。 円覚寺では午前十時より仏殿において法要をお勤めします。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1130回「縄文の暮らし」

円覚寺の朝比奈宗源老師の言葉に 「鈴木大拙居士の夫人のヴィアトリスさんは、円覚寺の山内に電灯をひこうということになった時、山内に電気はいらんと、どなって歩いていた。」 というのがあります。 そんな時代があったのでしょう。 今や円覚寺でも電気は当たり前になっています。 先代の管長足立大進老師は、よく夜山内を歩くときには、懐中電灯をお持ちになっていました。 今は、山内にも街灯がついていて、私などは夜でも困ることはないのです。 しかし足立老師は、よく私に、「昔はなあ、山内なんて街灯がなかったから、真っ暗だったのだ。お月様でも出ていればまだ道が見えたけれども、お月様もないと、どこが溝だか分からずに怖いくらいだった」と仰せになっていました。 そんな時代の習慣が身についていて、夜には懐中電灯をお持ちになっていたのだと思ったものでした。 修行道場は今もガスを使わずに、薪でご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりしています。 井戸水を今も使っています。 今の時代には、こんな暮らしをするのは、かえって贅沢といえるのかもしれません。 ある方に薪でご飯を炊いているというと、それは贅沢な暮らしですねと言われて、そういうものかなと思ったものでした。 そんな修行道場でもやはり電気はあります。 電灯も使っています。 かつで東日本大震災のあと、しばらく計画停電というのがありました。 その時には、やはり夜電気がないと不便だと思ったものでした。 もっとも停電になってもお寺にはろうそくがたくさんありますので、灯りに困ることはありません。 そんなろうそくのあかりで暮らすのも時にはよいものだと思ったものです。 毎日新聞に、毎月「僧侶・陽人のユーチューバー巡礼」という連載記事があります。 新聞一面に大きく掲載されています。 一月の末の日曜日に掲載されていました。 今回は週末縄文人という方との対談であります。 はじめに、 「私たちは、便利な世の中に生きている。スマートフォンさえあれば地球の裏側にいる人とも瞬時にコミュニケーションを取れるし、ユーチューブが楽しめるのだって技術のおかげ。 そんな中、「現代の道具を使わず、自然にあるものだけでゼロから文明を築く」をコンセプトに活動している2人組ユーチューバーがいる。 縄(じょう)さん(32)と文(もん)さん(31)を名乗る「週末縄文人」だ。 僧侶ユーチューバーの小池陽人さん(37)と語り合ってもらうと、不便さの中に身を置いたからこそ得られた「豊かさ」が見えてきた。 と記者の方が書かれています。 不便さの中に身を置いたからこそ得られた「豊かさ」とは興味深い言葉です。 案外、豊かさというのは、「不便」の中にこそ感じれるものかもしれません。 「週末縄文人」というお二人がいらっしゃることは、小池さんのYouTubeで聞いていました。 それで興味をもって『週末の縄文人』という書籍も買いました。 新聞の記事にも、どうして月曜から金曜まで働いて、土日だけ縄文人の暮らしをするのか、 「生きることの土台から自分の手で作ってみて、縄文人がどういう目で世界を見ていたのかを知りたかったのです。」と書かれています。 更に「僕らがやっているのは、寒いから火をおこすとか、ご飯を食べるのに必要な土器を作るとか、すべて生きるために必要なことです。それを一つ一つ自分たちの手で作ることに、驚くほど充足感を感じます。」 と書かれています。 もともと人間は、ただ生きていたものです。 食べるものを自分たちで調達して、それを食べてあとは排泄して休むのというのが基本だったはずなのであります。 今は食べて寝るだけなら、何をしているのかと言われそうな世の中となっています。 複雑な仕事をして、いろんな生きがいもそこに感じるようになってきたのでした。 しかし、そうなると、記事には 「僕は、現代人のストレスは9割9分が人間関係だと思っています。 本当は自分でどうにかできるものではないのに、僕たちはどこかでコントロールできるように思ってしまい、それがストレスになる。 でも自然は本当にコントロールできません。 謙虚な気持ちにもなるし、自尊心が傷つくこともない。そこに悩みはありません。」 と書かれています。 複雑な人間関係に悩むのがお互いであります。 修行道場で修行していても、夏に暑いとか、冬に寒いとか、坐禅して足が痛いとかいうよりもやはり人間関係が一番の悩みとなっています。 自然を相手にしていれば、それこそ謙虚な気持ちになるものです。 「都市部にいながらでもできるような縄文活動って何かありますか」という小池さんの質問に、 「石器作りのための石磨きもおすすめです。 丸一日磨いても1、2ミリしか削れないのですが、時間をかけた分、不規則だった石が均整の取れた形になり、鏡のように輝くんです。 古代に重宝されていた「勾玉(まがたま)」は硬いヒスイとかで作ってあるのですが、あの形にするにはとんでもない時間を費やさないといけません。 昨今、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが注目されていますが、それとは対極で、時間をかけたことが価値になっていた。それを追体験できます。」と答えられています。 更に記事の中で小池さんが、 「最近「不便益」という言葉を知りました。不便なことの中にこそ豊かさがあるという考え方で、大学で研究している先生もいます。お二人の活動にも通じますね。」と「不便益」を紹介してくれていました。 そんな縄文人の話を読んでいるとやはり『臨済録』にある言葉を思い起こします。 岩波文庫の『臨済録』の入矢義高先生の訳を引用させてもらいます。 「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」 というものです。 「痾屎送尿、著衣喫飯、困じ来たらば即ち臥す」というものです。 大小便をして、服を着てご飯を食べて、疲れたら眠る、そこにこそ素晴らしい真理があふれているのです。 生きるという原点を学ぶことができます。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1124回「仏の心をどう伝えるか」

一月の末に、東京大手町にある日経本社ビルで、花園大学サテライト講座というのを行ってきました。 花園大学と日本経済新聞が主催で、花園大学国際禅学研究所と禅文化研究所、妙心寺派教化センター、妙心寺派東京禅センターが共催という催しであります。 一月と二月と三月と行うものであります。 「サテライト」とは何かというと、『広辞苑』には、 「①衛星。人工衛星。 ②( ①の比喩から)本体から離れたもの。」 と書かれています。 察するに花園大学は京都にありますが、その京都の本体から離れたところで講座を行うのでサテライト講座というのでありましょう。 一月は、ただいま東京大学東洋文化研究所准教授でいらっしゃる柳幹康先生と私との講座でありました。 それぞれ八十分ずつの講演であります。 柳先生は、花園大学国際禅学研究所の副所長というお役にもついていただいています。 柳先生は、パワーポイントの使用もとてもお上手で、理路整然とお話下さるので、私も楽しみにでかけたのでありました。 「禅僧の言葉に見る仏の心」という題で、お釈迦様の教えから、日本の白隠禅師に到るまでの二千数百年の仏教の歴史を分かりやすくお話してくださいました。 当日おうかがいしたお話のあらましをご紹介致します。 まずそもそも仏教はお釈迦様が悟りをお開きになったことから始まります。 今から二千五百年ほど前に お釈迦様が坐禅をして悟りを開いて仏となったのでした。 人は老いるものであり、病むものであり、死ぬものであるという、老病死の問題について深く悩まれて、二十九歳で出家なされ、三十五歳で悟りを開かれました。 そしてそのあとは、その教えを説いて回ったのでした。 その説かれた教えを聞いて人々が帰依して教団が出来ていったのでした。 お釈迦様が仏であり、お釈迦様の教えが法であり、帰依する人の集まりが僧なのであります。 こうして仏法僧の三宝が現れたのであります。 三宝に帰依するのが仏教の信仰であります。 「南無三」とか「南無三宝」というのはこのことであります。 三宝を拠り所とするという意味であります。 私たち禅宗で、大悲呪というお経をよく唱えますが、そのはじまりが「ナムカラタンノートラヤーヤー」となっています。 これは「ナム」は帰依するで、「ラトナ」は宝、「トラヤーヤー」は三つのという意味なので、三つの宝に帰依しますということなのです。 インドでは挨拶のときに「ナマステ」というらしいのですが、「ナム」は大切にするということ、「テー」はあなたということで、あなたを大切にしますという意味なのだそうです。 初めのころの仏教では、修行して羅漢になることを目指していました。 羅漢は修行して目指すところですが、仏ではありません。 大乗仏教では菩薩になることを目指しましたが、菩薩もまた仏ではありません。 大乗仏教では仏になるには三阿僧祇劫かかると説かれていました。 これは3×10の51乗 × 4.32×10の8乗年という、とてつもなく長い時間です。 しかも次に仏になるのは、弥勒菩薩でそれは五十六億七千万年の後だというので、私達は仏になることはないということになります。 ところが仏教が中国に伝わって今から約一千三百年前の唐の時代に禅宗が興りました。 禅では「教外別伝」だといって、伝えられてきた「仏の教え」 の外で別に 「仏の心」を代々伝えてきたのだと説いています。 それはどういうことかというと、即心是仏という言葉で、ほかならぬ心がそのまま仏だという教えなのです。 馬祖道一禅師 (709-788)を、柳先生は、禅宗の実質的開祖とされて、次の言葉を紹介してくださっていました。 はじめに馬祖の語録にある原文を中国語で綺麗な発音で読んで披露してくださいました。 柳先生は中国語も堪能でいらっしゃいます。 それから訳文を紹介してくれました。 「諸君、 いまこの場において、自分の心が仏であり、 この心がまさに仏の心なのだと信じなさい。 だからこそ (禅宗初祖の) 達磨大師は南インドから(この中国に) やってきて心という最高の真理を伝え、諸君を悟らせようとしたのだ。」という『祖堂集』 巻十四「馬祖章」にある言葉です。 それから臨済禅師(?-866/867)の言葉を示してくださっていました。 「病因は自分を信じきれない点にあるのだ。自分が信じきれないと、あたふたとあれこれについて回り、それに翻弄され自由を失う。 この何かを求める心を捨てることができれば、 それでもう仏や禅宗の歴代祖師と何ら変わる所はないのだ。」という『臨済録』にある「示衆」の言葉です。 そこから更に、大慧禅師(1089-1163)の教えを示してくれました。 大慧禅師は「仏とは目覚めを意味する。 あらゆる場所で常に 遍く目覚めているからだ。遍く見るというのは、自己の本源である本来ありのままの仏を見ることをいう。 …衆生はこれを見失うので、迷いの世界を経巡り様々な苦しみを受ける。」というのです。 こうして従来の迷える凡夫が修行して仏になるという教えから、本来仏であるのに、それに気がついていないのが迷いであって、自覚を持てば仏として生きられるのだと説くようになっていったのです。 それではどうしたらこの仏である自覚が得られるのか、柳先生は今回三つの方法を説いてくださいました。 一番は、端的な方法で、盤珪禅師を例に出されて、仏になろうとするよりも仏でいる方が近道だと説いたのです。 これで納得できるのが一番端的な道です。 二番目に柳先生が長年研究なさってきた永明延寿禅師の段階的な説です。 まず自分にも 「心が仏だ」と悟れると信じることから始まって、仏教の各種実践を行うのです。 そして仏らしい行為をしている自分の心が確かに仏だと実感することです。 更に染みついた悪癖を徐々に除いて、一挙手一投足すべてが自然と仏の行為になるようにしてゆくという修行なのであります。 それから三番目に実践的な説であります。 これは今も我が国で実践されている看話禅というものです。 大慧禅師が大成されて、日本の白隠禅師が賦活されました。 柳先生はこの「看話禅」を「理解不可能な公案に集中することで、迷える心の流れを断ち切り、本来の仏の心に目覚めるという手法」だと解説してくれていました。 そのあと白隠禅師の教えの特徴を分かりやすく説明してくださいました。 特に白隠禅師は人の為に法を説く法施を重視されて、法施を行うからこそ、自分へのとらわれが除かれていくのだと説かれたというのであります。 自分の為に修行していたのでは、いつまでも自分へのとらわれが抜けません。 この自分へのとらわれが、苦しみの原因でもあるのです。 この利他と自利とが連環して絶えず行い続けるというのが白隠禅師の教えの特徴なのだと教えてくださいました。 仏の心をどう伝えるのか、それぞれの祖師方の方法があるのであります。 かくして八十分の講演はあっという間に終わりました。 たくさんのパワーポイント資料を用意してくださって分かりやすいお話でありました。 そのお話を受けて、この白隠禅師の看話禅を私が長年実習してきて感じていることをお話してきたのでありました。 私としては久しぶりに柳先生にお目にかかり、お話を拝聴出来て有り難い一日でありました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺