第1124回「仏の心をどう伝えるか」

一月の末に、東京大手町にある日経本社ビルで、花園大学サテライト講座というのを行ってきました。

花園大学と日本経済新聞が主催で、花園大学国際禅学研究所と禅文化研究所、妙心寺派教化センター、妙心寺派東京禅センターが共催という催しであります。

一月と二月と三月と行うものであります。

「サテライト」とは何かというと、『広辞苑』には、

「①衛星。人工衛星。

②( ①の比喩から)本体から離れたもの。」

と書かれています。

察するに花園大学は京都にありますが、その京都の本体から離れたところで講座を行うのでサテライト講座というのでありましょう。

一月は、ただいま東京大学東洋文化研究所准教授でいらっしゃる柳幹康先生と私との講座でありました。

それぞれ八十分ずつの講演であります。

柳先生は、花園大学国際禅学研究所の副所長というお役にもついていただいています。

柳先生は、パワーポイントの使用もとてもお上手で、理路整然とお話下さるので、私も楽しみにでかけたのでありました。

「禅僧の言葉に見る仏の心」という題で、お釈迦様の教えから、日本の白隠禅師に到るまでの二千数百年の仏教の歴史を分かりやすくお話してくださいました。

当日おうかがいしたお話のあらましをご紹介致します。

まずそもそも仏教はお釈迦様が悟りをお開きになったことから始まります。

今から二千五百年ほど前に お釈迦様が坐禅をして悟りを開いて仏となったのでした。

人は老いるものであり、病むものであり、死ぬものであるという、老病死の問題について深く悩まれて、二十九歳で出家なされ、三十五歳で悟りを開かれました。

そしてそのあとは、その教えを説いて回ったのでした。

その説かれた教えを聞いて人々が帰依して教団が出来ていったのでした。

お釈迦様が仏であり、お釈迦様の教えが法であり、帰依する人の集まりが僧なのであります。

こうして仏法僧の三宝が現れたのであります。

三宝に帰依するのが仏教の信仰であります。

「南無三」とか「南無三宝」というのはこのことであります。

三宝を拠り所とするという意味であります。

私たち禅宗で、大悲呪というお経をよく唱えますが、そのはじまりが「ナムカラタンノートラヤーヤー」となっています。

これは「ナム」は帰依するで、「ラトナ」は宝、「トラヤーヤー」は三つのという意味なので、三つの宝に帰依しますということなのです。

インドでは挨拶のときに「ナマステ」というらしいのですが、「ナム」は大切にするということ、「テー」はあなたということで、あなたを大切にしますという意味なのだそうです。

初めのころの仏教では、修行して羅漢になることを目指していました。

羅漢は修行して目指すところですが、仏ではありません。

大乗仏教では菩薩になることを目指しましたが、菩薩もまた仏ではありません。

大乗仏教では仏になるには三阿僧祇劫かかると説かれていました。

これは3×10の51乗 × 4.32×10の8乗年という、とてつもなく長い時間です。

しかも次に仏になるのは、弥勒菩薩でそれは五十六億七千万年の後だというので、私達は仏になることはないということになります。

ところが仏教が中国に伝わって今から約一千三百年前の唐の時代に禅宗が興りました。

禅では「教外別伝」だといって、伝えられてきた「仏の教え」 の外で別に 「仏の心」を代々伝えてきたのだと説いています。

それはどういうことかというと、即心是仏という言葉で、ほかならぬ心がそのまま仏だという教えなのです。

馬祖道一禅師 (709-788)を、柳先生は、禅宗の実質的開祖とされて、次の言葉を紹介してくださっていました。

はじめに馬祖の語録にある原文を中国語で綺麗な発音で読んで披露してくださいました。

柳先生は中国語も堪能でいらっしゃいます。

それから訳文を紹介してくれました。
「諸君、 いまこの場において、自分の心が仏であり、 この心がまさに仏の心なのだと信じなさい。

だからこそ (禅宗初祖の) 達磨大師は南インドから(この中国に) やってきて心という最高の真理を伝え、諸君を悟らせようとしたのだ。」という『祖堂集』 巻十四「馬祖章」にある言葉です。

それから臨済禅師(?-866/867)の言葉を示してくださっていました。
「病因は自分を信じきれない点にあるのだ。自分が信じきれないと、あたふたとあれこれについて回り、それに翻弄され自由を失う。

この何かを求める心を捨てることができれば、 それでもう仏や禅宗の歴代祖師と何ら変わる所はないのだ。」という『臨済録』にある「示衆」の言葉です。

そこから更に、大慧禅師(1089-1163)の教えを示してくれました。

大慧禅師は「仏とは目覚めを意味する。 あらゆる場所で常に 遍く目覚めているからだ。遍く見るというのは、自己の本源である本来ありのままの仏を見ることをいう。

…衆生はこれを見失うので、迷いの世界を経巡り様々な苦しみを受ける。」というのです。

こうして従来の迷える凡夫が修行して仏になるという教えから、本来仏であるのに、それに気がついていないのが迷いであって、自覚を持てば仏として生きられるのだと説くようになっていったのです。

それではどうしたらこの仏である自覚が得られるのか、柳先生は今回三つの方法を説いてくださいました。

一番は、端的な方法で、盤珪禅師を例に出されて、仏になろうとするよりも仏でいる方が近道だと説いたのです。

これで納得できるのが一番端的な道です。

二番目に柳先生が長年研究なさってきた永明延寿禅師の段階的な説です。

まず自分にも 「心が仏だ」と悟れると信じることから始まって、仏教の各種実践を行うのです。

そして仏らしい行為をしている自分の心が確かに仏だと実感することです。

更に染みついた悪癖を徐々に除いて、一挙手一投足すべてが自然と仏の行為になるようにしてゆくという修行なのであります。

それから三番目に実践的な説であります。

これは今も我が国で実践されている看話禅というものです。

大慧禅師が大成されて、日本の白隠禅師が賦活されました。

柳先生はこの「看話禅」を「理解不可能な公案に集中することで、迷える心の流れを断ち切り、本来の仏の心に目覚めるという手法」だと解説してくれていました。
そのあと白隠禅師の教えの特徴を分かりやすく説明してくださいました。

特に白隠禅師は人の為に法を説く法施を重視されて、法施を行うからこそ、自分へのとらわれが除かれていくのだと説かれたというのであります。

自分の為に修行していたのでは、いつまでも自分へのとらわれが抜けません。

この自分へのとらわれが、苦しみの原因でもあるのです。

この利他と自利とが連環して絶えず行い続けるというのが白隠禅師の教えの特徴なのだと教えてくださいました。

仏の心をどう伝えるのか、それぞれの祖師方の方法があるのであります。

かくして八十分の講演はあっという間に終わりました。

たくさんのパワーポイント資料を用意してくださって分かりやすいお話でありました。

そのお話を受けて、この白隠禅師の看話禅を私が長年実習してきて感じていることをお話してきたのでありました。

私としては久しぶりに柳先生にお目にかかり、お話を拝聴出来て有り難い一日でありました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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