第1140回「生命飛躍」

インドから戻って二日目に、佐々木奘堂さんにお越しいただいて、講座をお願いしていました。

今回で三十五回目、今回のテーマは、

「美しい姿勢(正身端坐)の本質は 生命飛躍 (エラン・ヴィタール である」

というものであります。

副題が、「(実践的に言えば)自分の足で立ち、全身心を投げ放つ」となっていました。

西田幾多郎先生の「短歌について」から、

「ベルグソンは『創造的進化』において、動物的から植物的生命、さては物体運動の如きものに至るまで、物質面を破って進展する飛躍的生命の種々なる形態なることを論じて、人間の生命は生命の大なる息吹であるといっている。我々の生命と考えられるものは、深い噴火口の底から吹き出される大なる生命の焔という如きものでなければならぬ。」

という言葉を、そして『美の本質』からは、

「芸術的創造の本源はエラン・ヴィタール(生命飛躍)にある。
フィディヤスの鑿の尖(さき)から流れ出づるもの…
そこにはle grand souffle de la vie(生命の大なる気息)がある。
大なる生命の流の溢出である。」

という言葉を紹介してくれていました。

この言葉は、何度も拝聴しているものですが、何度うかがっても心に深く響いてくるものです。

それから今回は、一遍上人の言葉を紹介してくれて、嬉しく思いました。

一遍上人の念仏の特色はなんといっても踊り念仏にあります。

踊り念仏とは、岩波書店の『仏教辞典』には、

「<踊躍(ゆやく)念仏>ともいう。一遍(いっぺん)が1279年(弘安2)冬、信州佐久の武士の館で念仏中、信心歓喜(かんぎ)のあまり僧俗一体となって踊った。それ以来時宗(じしゅう)の重要な法儀となった。踊念仏は平安中期の空也(くうや)が京都の市中で踊ったのがはじめで、一遍はそれを再興したと『一遍聖絵』は伝える。鉦(かね)を打ち、念仏に和讃をまじえて称えながら踊る。」

というものです。

一遍上人に

はねばはね 踊らばおどれ 春駒の のりの道をば しる人ぞしる

という和歌があります。

坂村真民先生には、『一遍上人語録 捨ててこそ』という著書があります。

一遍上人をこよなく愛し慕われた真民先生の名著だと思っています。

そのなかに、この和歌に対して次のように書かれています。

「インド、中国、日本の祖師たちのなかで、こんなに踊躍歓喜した人があろうか。

乗りと法とのかけことばのうまさもさることながら、踏み板を踏みはずすように踊り回りながら、念仏歓喜する一遍上人を思い浮かべると、この人こそ生まれながらの赤ん坊のような純心そのもの、天真そのものの人であることをしみじみと知ることができ、悟りすました高僧名僧でなく、そこいらのおっさん、おばさんたちと共に生きた本当の人間僧であったことに、わたしは限りない親近感を覚え、この人こそわたしのよき先達であり、よき伴侶であることを痛感する。」

というのであります。

また佐々木奘堂さんは、一遍上人が鎌倉に入ろうとしたけれども、鎌倉幕府の武士から、北条時宗公が通る日なのでと制止されたときの言葉も紹介してくれていました。

「法師にすべて要なし、只人に念仏を勧むるばかりなり。
… 念仏勧進をわがいのちとす。」

という言葉であります。

この言葉についても坂村真民先生は次のように『一遍上人語録 捨ててこそ』に書かれています。

「「いのちとす」という言葉に打たれて、この語を挙げた。どの祖師だって、いのちを賭けての精進だった。

でも宝厳寺にある、あの姿にもわかる通り、破れ衣に跣で、酒肉五辛を断ち、念仏勧進のため日本全国を歩き回り、旅の果てに死んでいったのは、上人ひとりである。

上人には立宗の意志もなく、寺院建立のはからいもなく、後継者を作って跡を残すという野心野望も、皆無であった。

ただ念仏勧進だけが、上人のいのちであった。火であった。焰であった。」

というのであります。

そして更に真民先生は次のように解説してくださっています。

「この言葉は、こんな時、生まれている。

弘安五年、一遍上人四十四歳の時である。

北条時宗というと、時の執権であり、元の大軍を大敗させた大功労者である。その時宗の警備の武士隊に向かい立った上人の姿が、ほうふつとして浮かんでくる。 日蓮上人は別として、とかく日本の仏教は権威主義で、それによって栄えてきた。 護国鎮護、それはそれでよい。

しかし釈尊の教えは、そういうところにあるのではない。

釈尊は国を捨てた人である。

一切の権威を捨て、糞雑衣の人となった方である。

ここを忘れて仏教はないのである。上人は徹底した仏教本来の僧であった。

飛ぶ鳥も落す実力者の時宗も眼中にはなかった。

あるのは燃え立つ念仏勧進だけである。

鎌倉へ旅の風雨によごれた、きたない姿の僧や僧侶を引き連れて、処もわきまえずやってきたので、警備の武士たちが、大きな声で制止し罵詈した。

今日街頭でよく見るデモ隊との衝突の場面とか、国家行事の時の警備など想像されるとよい。

そこで上人の怒りが爆発した。

その時、言い放ったのが、この言葉である。

もう少し詳しくこの場面を描くならば、かたく制止する上、わる口まで言うので、たまりかねて上人は、お前たちもいつかは死ぬのだ。

その時、自分がしてきた罪業のため、どんなにか苦しむだろう。

それを救ってくれるのは、念仏だけなのだ。

と言う。

しかし下っぱの武士たちは、そういう言葉を聞く耳を持たない。

かえっていきり立ち、二度まで棒で打った。それで上人が、念仏をすすめるのがわたしのいのちだ。それがわかってもらえぬなら、もう死んだ方がいい。ここで死ぬ。

と、権威を盾にして威張りちらしている警備の武士たちに言った。

いや、太守たる北条時宗に言いたかったのであろう。」

というのであります。

一遍上人の言葉もさることながら、真民先生の解説にも生命の飛躍を感じることができます。

また奘堂さんは、一遍上人が熊野に参籠したときに授かったという言葉も紹介してくれていました。

「心品のさばくりあるべからず。此の心はよき時もあしき時も、迷ひいなるゆゑえに、出離の要とはならず。南無阿弥陀仏が往生する 也なり」

という言葉です。

心であれやこれや思い計るなとということです。

姿勢や腰骨や、どうしたら坐れるかなどあれこれ技法を考えるには及ばないというのです。

奘堂さんは「澄んだ心が良いとか、どれが禅定の心かなど一切はからうな」と語ってくださっていました。

私が一遍上人に親しみを覚える点は二つあります。

一つは、一遍上人は私のふるさとである熊野権現様に参籠して念仏の教えについて啓示を受けられたこと、そしてもう一つが、私が参禅をしていた和歌山県由良町の興国寺を開山された法灯国師に参禅をされたことの二つであります。

奘堂さんから生命飛躍そのものの一遍上人の言葉を聞くことができ、インド帰りの疲れも吹っ飛んでしまい、有り難い一日となりました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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